第5話 神岡英介と夜のスイッチ

「例えば」…そんな言葉で語りだした神岡英介の言葉がタバコの煙のように宙を漂い、最初の輪郭を崩しながらも靄のように立ち込め、また鼻を突くように神経に信号を送ってくるのだが、ぼんやりとした夢のような記憶だけがスクリーンを空転すると、ふとタバコ好きだった父が煙を吐き出しながら笑っている姿が脳裏に浮かんできた。父の横でタバコの煙を浴びながらも安心していられたのはまだ母が健在の時のことである。煙草を母に注意されていたことを思い出す。今では父も煙草をやめ、梨佳子は煙草の煙さえ受け付けない。

ついさっきの恐怖の出来事が随分と遠い記憶となり、遠い過去の時間が今しがたの記憶のように懐かしい。

それにしても…さっきのあの出来事は本当に現実のことだったのだろうか?

いよいよ夢に潜む悪意が姿を現したようで、どうせならこの今も夢だと思いたい。

時刻は夜の九時半。

転んだ時に打った肘の痛みが現実の出来事であったことを告げている。

店内のアナログな明るさが心を温めてくれるようで心地よい。香辛料の香ばしい香りと、耳に聞こえてくる会話がまた日本ではないようで緊張を和らいでくれる。目の前の神岡英介と店のイメージが結びつかないばかりか、彼のイメージもまた最初に思っていたのとはだいぶ異なって感じる。

催眠効果とでもいうのだろうか、緊張から解かれ弛緩した安堵感が眠りの前のように身体を包み込み、記憶の中にうっすらと立ち上るタバコの煙が、似ているわけでもない神岡英介と父の姿をだぶらせる。

悪寒に似た震えはだいぶ収まり、彼の言葉だけが音響の余韻となって辺りを漂い浮かんでいる。

心配させてはいけないと思いつつも、今このとき父の声が無性に聞きたくなった。

抑揚をつけた英介の声だけが独白のうたように聞こえている。いや、やはり違う。この人は現実と現実ではないものとの境に向かって語っている。

それはいったい誰で、何だろう?


「例えば実数というものを現実に置き換えるなら、幻想は虚数に、夢は無理数とも例えられるかもしれない。数学がそれらすべてを必要とし成立するように、リアリティもまた幻想や夢を除外しないものだと僕は思うのです。

見えないもの聞こえないもの、いわゆる多数の人々にとって現実ではないとされるものもまた現実に働きかけている。それはありえる事です。存在しない虚数や正確な姿を現さない無理数がなければ数学の土台は壊れてしまう。

よく聞く夢の知らせとか霊というものは単に脳の生理学、とくに個人の脳の問題ではなく重なり合った重合無意識のような深層心理として理解できるのではないかと僕は考えています。そこに法則性があるなら当てはまるべき方程式が導き出せるかもしれない。

もちろん拡大解釈するならばです。」


そこで英介は梨佳子を見て笑い。梨佳子は英介の瞳の中にゆらゆらと立ち上る蜃気楼のようなものを見たような気がした。英介の話は続く。


「しかしそれらがおよそ夢や幻想にしか思えない背景には自我意識が作り上げる現実がいかに強固であるかを突きつけてくる。それもまた各々の自己の現実です。そうは思いませんか?シックス・センスがあるとして、そのシックス・センスを例えばこんなふうに考えられませんか。強い自我意識が目覚めているときそれは深い眠りについている。逆に自我意識が眠りについているときそれは夢を通して語りかけてくると。

夢だ。幻だ。と言い切ってしまうなら可能性を排除してしまうことになりかねない。何らかの現象が起こっているとするなら、知性は見えないものでさえ見える前提に立って解読するものであると僕は考えます。見えないものを単に仮定として扱っていた以前の素粒子物理学が、その時点で止まっていれば、神の素粒子などという概念は生まれてこなかったでしょうね。」


時計を見ると十時になろうとする時刻。

三十分近く彼はとうとうと話している。子供のように夢中に話し続けている。自分に没頭して内容がエスカレートし始めたかと思うと、トーンダウンして探り探り調整しているときもある。話はなかなか止まらない。エスニック・ダイニングの店は程よく混んでいて、彼の後ろにはカップルが三組見える。自分たちもカップルに見えるのだろうか?などという漠然とした思いの中、今や気になる存在だった人が目の前にいる。当の神岡英介をしげしげと見つめ、彼の話に集中しようとするがなかなか身が入らないばかりか、話題がどこからかずれているような気がしてならない。

音楽が純粋な数学だっていわれても…

個々の物質も心理も独自の波長を持っているとしても…

運命とは共に奏する楽器と化すことって、それって…

その意味って、私の波長が誰かの波長と共振しているということ?

何かの旋律を共に奏でるために。


「…つまり音には音が効果的と言ってもいい。増幅することも相殺することも可能です。古代からいたる地方で人々は音や波長、日本的に言うならば言霊を呪術の力として可能な限り利用している。いわば呪術は音のマジックと言えるかもしれない。それに波長と磁気は密切に関係している。たとえば寺院などが建てられる聖なる場所には大抵プラスの磁気がある。それに呪術、祈祷と言ってもいいが、それによって波長が刻印された物質は長年にわたってその振動を、いわば磁気として長年に渡って保っておくことが出来る。音楽とは呪術の一端を担っていることは違いないと思いますよ。まさに『ジャスティス』なのです!」


「ジャスティス」とは先刻道路を震わしたヒップホップのタイトルと聞いたが、その意味を問う前に歩道で続けざまに放たれた言葉を思い出した。問いかけられたあの言葉…

「ミサキサマというのは海の向こうからくる死者のことですか?」

そしてようやく確かめたかったことが梨佳子の中に次々と浮かんできた。

「どうして神岡さんは店に来ていたのですか?」

「えっ!」英介は驚いて梨佳子を見つめると、途端にしどろもどろの返事を返した。

「えっと、それはね。悠里ユーリから聞いたんで気になってね。」

それは嘘だ!

御蔵悠里のことは美帆同様に気になる存在だが自分のことを何一つ何も話したことはない。それにバイト先に何度も現れるなんてまるでストーカーではないか。

ストーカー?…ではないな。

さらに尋ねようとすると彼は再び口を開き、内容は核心へと近づいていった。

「でね。音も波長なら、悪念や想念も波長を持っている。波長は見えない電波のようだ。我々の中の受信機に取り込まれる。さっきの波長は理由があって梨佳子さんのチャネルに取り込まれた。その理由は『ミサキ』と言う言葉にあると思えるのですが、何か心当たりはありませんか?」

つい先程の記憶が再び津波のように襲ってきた。

意識がじんじんと電気を浴びたように収斂し、心がざわざわと嵐の前触れを予感するように泡立ち、深層の闇の中で何かを探しているような切迫感に苛まれる。いたたまれない不安が蝋燭の炎のように揺らめき、また細り、いつしか忘れかけた震えを思い出していた。

「梨佳子さんの故郷はK県だとユーリに聞きました。と、すれば『ミサキ』とは七人みさきのことだろうか?信仰から考えれば北斗七星信仰からくる説もあるが、一般には成仏するための怨霊として絶えず入れ替わりながらあくまでも七人で襲ってくる恐ろしい存在のことですよね。言い伝えでは海のものと山のものがあるが、思うに海に関係しているはずです。どうですか?何か思い出すことはないですか?夢で何か見ているとか?」

大ありだ!

電話口の祖母の言葉が耳元で何度も繰り返していた。

母が亡くなった時何があったのだろうか?

何故私はそのことに触れずにいままで過して来たのだろう?

お前の母さんは呼ばれたんだよ…そう私に言ったのは誰だったのだろう?

そして何よりもこの人は何者なのだろう?と目の前の神岡英介をあらためて見た。同じサークルとはいえ話をするのは今日が初めてのことである。それにしては私自身でさえ知らない私を見ているような、そんな感慨に全身が打たれる。今度の震えば恐怖だけではないようだ。

「私。悠里先輩には何も話してはいませんし、『ミサキサマ』のことも偶然耳にしてそういえばそんな迷信があったと思い出したくらいです。さっきの出来事がそうなんですか?神岡さんはどうして知っているんです?この頃身の回りで起こる変なことも、亡くなった母が夢に出てくることも、みんな知っているようで、なんか不思議な気分です。」

少し前かがみに、語りかけるように話していた英介は背を起こすと梨佳子の目を真っ直ぐ見つめた。

不思議な目の色。もう蜃気楼ではない。翳った森のような深さ、それも日暮れの森だ。

美帆がさらりと言った言葉が蘇った。

悠里先輩がいってたよ。あいつの目は…

美帆は続きをなんと言っていただろう?

「夢のことは知っています。何かが海から来る夢ですよね。僕も見ましたから。誤解しないでください。梨佳子さんの夢と同じというワケではありませんから。それよりも今日からの問題は対策です。現実に浸透してくる力が向こうにある限り対策を立てねばなりません。いくら浸透してきても、巻き込まれていてさえも、気づかずにいる人が多いことも事実です。ですが君は気づくことができるばかりか下手をすると呼びかねないものを持っている。僕にはそう思えます。」

「これ…」そう言って神岡英介はバッグからウォークマンを差し出した。

「僕はこの頃ジャングリスト・ジャズが気に入っているんです。中でも好きなのがこれです。彼らの音楽は水面に波立つウェーブの揺らめきのようです。波長には波長。音の世界というのは形骸化した言葉の後先、あるいは中間を埋めるモノでもあるのです。行間を読むというアレです。悪霊や病を祓う祈祷もまたある種の波長、つまり音の波の中に調伏の力を持っている。これ貸します。色々なことがあって変な奴だと思うでしょうね。僕の夢については今度話します。なにしろ奇妙なものですから…」

「あのう?」「はい!」「夢のせいでバイト先にも来ていたのですか?」「ええ、まあ。」「指定席に座る理由は?」「方角です。南西の海に波が立つというか、梨佳子さんの故郷の海があるからです。」

梨佳子はふと思った。

独りで真っ暗な部屋に帰った時、最初に手を伸ばす明かりのスイッチ、それが見つかったのではないかと。

でも、と梨佳子は戸惑いの先で思った。スイッチを入れたとき部屋の明かりが灯らなかったらどうなるのだろうと。

海へ向かう無意識の渓流をさかのぼるように、記憶の波に逆らって時間の流れをかき分けていくような気分なのである。

明かりのスイッチがあるなら、夜のスイッチを入れたのは誰だろう?

夢の始まりは?そもそもの初めにあったものは?

何も知らされずに育てられたような疑惑が雲のように沸き起こると、故郷が異邦の地に思えた。


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