第4話 何かが道をやってくる

 午後からは「貨幣論」の授業に出席した。

現実というものの大抵のものがお金、いわゆる資本で回っている。身の回りの日常におけるお金の意味と価値、それにお金の成り立ちはとても重要だ。作家である「エンデの遺言」に描かれた方法論への興味から受けた授業だが、なんとなくお堅い授業である。それでも権力やゲーム理論にも関わっていてその展開が面白い。一緒に授業を取った美帆はずっと乗り気がなく、放っておけば居眠りでもしそうな勢いで、黙々と時間が過ぎていくのを待っていた。

授業が終わるといよいよ二人で、その頃になると美帆は溌剌とし始めていたのだが、サークルへと出席した。

サークルの人数はたかが十三人。ほとんどが精神病理学の沢木教授のゼミをとっている生徒である。教室に集まったのは十人。案の定、神岡英介なる十三番目は姿を見せなかった。

サークルは○○の夕べと名づけてあるように、クラシックやジャズを掛けながら、心理学をベースに現代に蔓延る病理を解明しようとする集いである。にもかかわらず心理学の入門編に近い身の上話や、世情を賑わす事件、それに文学作品の深層に流れている心理などが話題の中心になる。もちろんゼミの復習を兼ねていることも多い。構成員メンバーは女性が八人と男性が四人。そして十三番目。女性の五人はゼミの仲間だが、他の三人は文学で語られる心理への興味に惹かれたというが、美帆によればきっと御蔵先輩に惹かれて来たということになる。

教室内にはいつもとは少し違う音楽が流れはじめた。

綺麗さと奇怪さが混ざった、美とそれに付き従う影のような、どこか落ち着けないものを感じさせる。言うならば時間の影に不安を掻き立てられるようでもあり、背後に時間すら呑み込んでいく大きな流れがあるようで、今の梨佳子には不安がかさむような感覚。

「それでは今日のテーマだ」

御蔵悠里が口を開くとここにいない「彼」の話が始まった。


― この曲は作曲家オリヴィエ・メシアンの曲だ。彼がドイツ軍に捕まって収容された収容所で作曲したと言われている。タイトルは「世の終わりのための四重奏曲」。今聴いているのは「水晶の典礼」。これはなんと17と29の素数を使っている。素数というと素数蝉が世界的に有名だが、蝉と捕食者との関係、いわばリズムを蝉、ハーモニーを捕食者として、17拍のリズムに29の和音が重なるようにできている。ベルグやロックにも素数を取り入れたものがあるが、問題は音楽の数学的構造だ。絵画や彫刻を空間の芸術と呼ぶなら、音楽は時間の芸術だ。音楽は知っている通り三つの要素、「旋律(melody)」と「和声(harmony)」と「リズム(rhythm)」で成り立っている。すべての物体には時間あたりの振動数ヘルツ(Hz)を持っているが、こうなると音の物理学に相当するものが生まれると言ってもいいだろう。われわれの聴覚は「倍の振動数を持った音」に敏感に反応するようにできている。はじめの音がぐるりと回ってはじめに戻ってこそ安定した気持ちの良さを感じる。その隠された秩序がオクターブ(octave)だ。そのオクターブから純正調音律、そして十二平均律、すなわち転調の自由はオクターブを十二分割し、加えてどの音域にも互いに矛盾しない半音を定義するためには12回掛け算してちょうど二倍になる定数が必要となる。

それが「2の12乗根」という無理数であり、半音である。ここで音の物理学は音の心理学と変じる。時間の中の無理数的半音が心のプロセスに構える深みであり構造であり、カオスの現れといえる。そして音楽療法というものがあるように、見えない暗黒の淵を飛び越えるのが音楽の構造力学であり、無意識にさえも秩序という神話の塔を築くことができる―


御蔵悠里の話は流れる音楽と重なって無意識へと、すなわち眠りの入口へと誘っているようにも思えた。

そもそも途中から話がわからなくなっていた。

美帆を含め、その場にいた全員が彼の真意を測りかねているらしく、言葉と音楽が曖昧模糊とした空間を雲のように漂っていた。

ただ最後に言った悠里の言葉が波紋のように梨佳子の中で音を立てた。

「…と、まだ一回しか顔を出していない僕の友人神岡が言っているが、みんなはどう思う?」

その問いに白白とした空気を読み取ったのか悠里はこう続けた。

「外側からいくら壁を破ろうとしても最後の壁は内側にある。時に人は外から破ってくるものを必要とする。しかしそれもまた内側の知識や壁となることが心理の矛盾なのかもしれない。今日も来ていないが、英介はマントラや呪文などと音楽に共通する波に興味があるらしくてね。波と波の境界が自他の、あるいは物質の振動や温度波、それに深層意識にもつながる図形と世界の現れ方に興味があるらしく、人は波によって見る者も見えるものも変わると言っている…」

形は見える音楽ということ?色も?

ふいに梨佳子の脳細胞の中で何かがはじけた。

深い森がの入口が再び見えたかと思うとさらに十三番目のことが気になった。


その日の夜こと。

アパートに帰り着くと同時に携帯が鳴った。見ると父からである。

「梨佳子!」と話しかける父の声は憂いを帯びている。

「父さん。元気?どうかした?」「ああ、いや…この間バイトするっていってたから気になってな。」

「まだ六回しか行ってないけどなんとかやっていけそう。夕方からは戦争よ。ファミレスがこんなに大変とは思わなかった。で、なに。心配してたの?」「そりゃあそうだろう。」

そう答える父のそばから祖母の声が聞こえた。

「大丈夫よ。私要領がいいから。」「そうだな。小さい頃からそうだった。何もないことが一番だ。何かあったら連絡をよこすんだぞ!」

大学の廊下での出来事が脳裏をかすめた。ついでに悪夢のことも。つい口をついて出そうになったが理性が止めた。

「それをわざわざ?いつから心配性になったの?」「お前の進学の時からだ。」

そういわれると元も子もない。父の望みは違っていたのだから。

「大学生活充実しているよ。沢木教授のゼミを受けることになったし、美帆も一緒だし、美帆と二人でセミナーにも参加したんだよ。私は大丈夫!」「ならいい!」

いつもの父の声に戻っていた。

「しかしな。世の中わからないようなことも起こる。それは小さなことの積み重ねだ。何かあったら連絡を忘れるなよ。」

最後に何かを言い含めるように言って切ったが、その時も祖母の声が聞こえた。父の声に混じって聞こえてくるくらいだからすぐ近くにいたのだろう。それにしては携帯越しに聞こえる声を祖母が発している姿は想像できない。似つかわしくないのである。携帯の奥から小さくひと言聞こえてきた単語が「ミサキサマ」だった。

― ミサキサマ…

名前に覚えがない。祖母が様をつけるぐらいだからよっぽどの人なのだろうが、そもそもミサキなどという苗字にも名前にも記憶がない。父の近くでそうつぶやいていたということは、父はそのミサキを知っていることになる。

― 父の心配とはそのミサキ…が関係していることだろうか?

不安が蛇のように這い出してくると同時に、今朝がそうだったように御蔵悠里を思い出した。しかし今度は一人だけではなかった。食堂で見かけたもう一人と一緒に蘇ってきた。

神岡英介か…どうして森なんだろう?


 あれから一週間。何事もなく過ぎている。と言いたいところだが、三度あの音を聞いた。

一度はレストラン内で配膳業務に忙殺されているとき、一家族に開いた自動ドアの向こうから砂を蹴るような足音と錫杖の音が店内に入ってきた。

一度は街路樹の隙間から忍び寄るように、風と共に空中を去っていった。

一度はアパートに帰り着いたとき。暗い夜道の遠くからそれが近づいてきた。三回とも時間は決まって九時前後のこと。

今日もその時刻が近づいて来ている。

梨佳子は店内の時計を見ながら、邪気を払うように首を小さく左右に振ると、たった今開いたばかりの自動ドアへ向かった。

あっ、また来たよ。このお客さん…

店で何回か見かけたことがあるお客さんが入ってきた。帽子を深々とかぶりいつも一人で来るので覚えてしまった。ファミレスに一人でということも珍しい。初めて見かけた日には空いている席を自分から指定した。

「あの席空いていますよね。えっと、南西の方角の?」

以来、二度その隅の席に座った。いつから来店しているのか知らないが、梨佳子にとっては三度目である。案内しようとするとお客の方から席を指差した。

「あの席空いているよね。」

喫茶店でもないのに指定席?とは思っても断る理由もない。ましてその席の意味がわからない。席は奥まった死角の場所でお客がピークの時はさすがに埋まっているが、それも過ぎるとまず最初に空く席なのだ。

男はいつも思案げな顔で、帽子からはみ出た髪は天然なのか大きく跳ねている。それにしては特別嫌な感じでもなく、自分の世界に住んでいると分かるぐらいである。それは眼光からも読み取れる。どこか遠いところを見ているようで、その焦点たるや見知らぬ空へと続いているような不思議な感じを醸している。

歳の頃は?と考えたくなる一方でどうしてこの人のことを知りたいのだろうとも思う。仕事の臭いが感じられないということは二十歳前後なのだろうか?それとももっと年上?

余計な考えを振り切って梨佳子は厨房へと急いだ。


 退勤の時刻をむかえ梨佳子は着替えを済ませた。店の外に出ると澱んだ熱風が頬を撫でる。窓越しにそっと店内を除くとくだんの男はもういなかった。

店を背にして一歩踏み出すと、ざわざわと店脇の木々が音を立てた。見ると二本の木立がゆらゆらと小刻みに右・左と揺れている。止まったかと思うと全体がぶるぶると震え音を立て始める。梨佳子は木から目が離せない。梢に隠れた何者かが意図的に悪戯をしている感じなのだ。それは梨佳子の心の奥底で蠢く不安の姿なのかもしれない。ビルの間を走り抜ける、ときに乾いた、ときに湿った風は心の隙間に吹きおろし焦燥感や脅迫感を煽る。気づくことのないまま梨佳子の心臓はこくりと転がりだしていた。まるで何かに招き寄せられたように。

きっぱりと打ち消したはずの不安は予兆に変わった。

地面に小さな振動を感じた。足下に、地中の底から上ってくる蠢きが伝わってくる。梨佳子が立ち止まると、どどどう、どどどうと防波堤に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。空耳とも思われたが今度は足下の振動が音に変幻した。ざっざっざっと砂地の上を何ものかが走り寄ってくる。

ざっざっざっ。ざっざっざっ。

重なった足音は一人だけではないことを告げていた。何人かが一緒に走り寄ってくる。胸騒ぎが小さなパニックになった。一瞬店内に戻ろうと考えたが、咄嗟に変に思われる自分の姿を垣間見て往来へと飛び出した。飛び出した往来をさらに早足で音が追ってくる。

ざっざっざっ。ざっざっざっ。

街路樹がゆらゆらと揺れだした。目の前を走り去る車の音も、人の声も、靴音も、何もかもが聞こえていない。無音の無声映画の中に足音と、木の鳴る音、遠くで鳴り響く波の砕ける音だけが異様に高くなって梨佳子に迫ってくる。


― 何。何。何。嘘でしょ…


走りながらバッグの中を捜した。携帯を手にとったその時、錫杖の地を打つ気合があたりを瞬時に凍りつかせ、梨佳子の心はその手の中に落ちた。自由のきかない身体を何者かが操っていた。見えない誰かがしっかりと左右の腕を掴んでいる。真後ろにも背を押す誰かがいる。集団は有無を言わさぬ強さで梨佳子を運んでいく。息づく気配を耳元に感じる。叫ぼうとしても声が出ない。ぐんぐん速度を上げて車道へと飛び出すその一瞬先の未来が見えた。呪詛が背中から聞こえた。背中に誰かが乗っている。名前を呼ぶ声さえ聞こえる。いや、やはりそれは呪詛だ。誰かが梨佳子の名を呪っている。


― 助けて!


声にならない声を上げたそのとき。

目の前の現実を砕かんばかりの悲痛な声が梨佳子の名を呼んだ。「梨佳子」と。その声には聞き覚えがあった。

母だ。悪夢の中の母の声だ。

目を射る車のライトが間近に迫ってきたとき、梨佳子は後ろに勢いよく引っ張られそのまま歩道に倒れ込んだ。尻をついたのは地面ではない。誰かが梨佳子と地面の間にいる。途端に地面が弾けるような音を立てた。無声だったひとときが一気に世界の音を取り戻すようにすさまじいビートを地面に放った。

街そのものが牙を向いたように…

「ミサキサマというのは海の向こうからくる死者のことですか?」

少し上ずった声が倒れ込んだ背後から聞こえてきた。

その声にはじめて自分を支えてくれた者の存在に梨佳子は気づいた。振り返ると下敷きになった男の手にあるウォークマンが唸り声を上げている。呪文のような歌とスリリングなリズムとがさっきまでの出来事を音の奔流で流し去って行く。ロックともヒップホップともつかないリズムの中に「ジャスティス(正義)!」を叫ぶヴォーカルの声が聴こえた。

白濁した意識で振り返る梨佳子の目に映るのはレストランの南西の隅を指定する彼である。

いやそれだけでなはない。帽子が飛んで現れた顔には覚えがあった。「あなたは…」

「君は望月梨佳子さんでしょ。僕は神岡英介というものです。」

そう彼は言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る