第3話 サークルの出会い 構造心理の夕べ

 梨佳子は大きく深呼吸をすると、髪を掻き上げて気を引き締めた。さらに両手で頬を軽く二度叩くと一気に起き上がった。

夢は夢よ!

カーテンを全開にし、朝日を部屋中に取り入れると悪夢の名残すら霧散していくように思われた。


「構造心理の夕べ」…

なんとはなしにキャンパスを巡って、どちらかといえば興味もないサークルに入ることになったのには理由がある。友人の美帆が勧誘している男子学生に憧れを抱いたからだ。

「二年生かしら?それとも三年生?笑顔さわやかよね。それにイケメン。リカ、どう?入ってみない?」

美帆は梨佳子の返事を待つこともなく、進んで自分の名前をを書き始めた。

「教育学部一年か…」そうつぶやく彼の前で美帆は春の笑顔を見せながら「先輩もそうですか?」と訊いた。

「三年の御蔵悠里。今度授業で会うかもしれないね。どうぞよろしく。」

それで決まりだった。

サークルといっても月に数回それも不定期に開かれる。

美帆は心待ちにしているようだが、梨佳子はそうでもない。父の負担も考えて五月からアルバイトをしている。バイトが入っているのは週末が多い。華やかな入学当時の淡い春も過ぎ、環境も生活も一変し週末ともなるとことさら疲れている自分がいる。夢を見たのはそんな矢先のことである。

初めはいわゆる五月病かバイト疲れの影響と思った。夢の内容も朝には覚えのないただの怖い夢に過ぎなかったのだ。

それが間を置いてくり返し見るようになった。

美帆に話そうかどうか迷ったが、五年前の仁美のことがある。怖がらせてはいけないと思い黙っていた。

このところ何度となく浮かんでくるのは御蔵悠里の顔である。聞いてもらおうと思う反面、聞いて欲しくないという思いもある。近くにいくとその顔立ちや物腰にちょっと引いてしまう。会話にしてもまだぎこちないところがある。そればかりか相談しようという内容ときたら悪夢である。美帆に内緒で相談するわけにもいかなかったし、変人に思われたくもなかった。

足早に過ぎる季節は暑さと鬱陶しい湿度を上昇させ、日々夏へ向かっている。念願の大学に入り、せっかくのキャンパスライフが暗く疎ましいものになるは避けたかった。

夢は夢よ。

何度そう思ってみても、今では自分を納得させることはできそうにない。悪夢ははっきりとした輪郭を持って鎌首をもたげてくる。いつか日常に染み出してくるような戦慄すら覚える。それも間もなく。

「この頃のリカ。顔色悪いよ。バイトのし過ぎ?なんか疲れてるみたい。」

そう言いながら顔色を伺ってくる美帆も何かを感じ取っている様子である。

やっぱり相談してみようと決めた日のこと。

大学の廊下を美帆と二人で歩いていた。すると瞬きする一瞬の間に奇妙なことが起こった。昼時のことである。見ると廊下に学生が誰一人としていないのだ。静寂に支配された空白の時間の中を無人の廊下がすうっと離れていく。隣の美帆を振り返ると笑顔を浮かべたまま口をぱくぱくと開閉するばかり。美帆はそこにいるが、その声が聞こえない。代わりに鈴の音がどこからか聞こえてきた。

ひとつ、ふたつ、みっつと七つまで数えると、突然混凝土コンクリート塊を床に叩きつけるような衝突音が辺りに響き渡った。その衝撃の大きさに梨佳子の全身は竦み上がったが、美帆は何事もなかったかのように立ち止った梨佳子を振り返ると首を傾げて言葉を発した。

もう先ほどの口パクではない。

「どうかしたの?リカ。」

怪訝そうに美帆は梨佳子を見つめる。

「何か音がしなかった?」

「音?何の音?」「ううん。聞こえたと思ったけど聞き間違いかも」「なあに。まさか恋の音?」

「そんなんじゃないよ!」

美帆との会話を境にして、空白だった世界に音と時間が一斉に流れ込んで来た。学食へ向かう学生たちで廊下はごった返し、音が次々に生まれては壁や床に反響する。もはや静寂はどこにもなかった。ありふれた日常が戻ってきてぴたりと風景に収まると、ふいに思い出したことがあった。

あれは、あの音は鈴ではない。

錫杖(しゃくじょう)の立てる音だ。

そう気づいたとき、子供の頃に見た修験者の姿がはっきりと蘇ってきた。その出来事はその後何度となく聞くことになる錫杖の音の最初の日になった。

それにしても、と梨佳子は自問する。

子供の頃に見たと思っている記憶は私が夢で作り上げたものなのだろうか?怖い夢が逆に記憶と混在してしまったとも考えられる。

そして美帆を振り返って首を振った。

違う。違う。

夢だとしたら今のもそう?もしかしたら今朝の夢につながる続きがあるのかもしれない。夢だろうが、体験だろうが、忘れている何らか記憶があるに違いない、と。


「見てリカ!先輩よ!」美帆が嬌声を上げた。

顔を上げるとすでに食堂にいて、目線の先に食堂から出ていこうとする御蔵悠里の姿が映った。彼ともう一人。少し背の高い眼鏡を掛けた人。友人なのだろうか?親しげなことは親しげだが、彼以上に奇妙なまでの存在感がある。横顔だけだが、高い鼻と薄い唇が幾何学のような厳正な意思を漂わせ、肩までのふわりとした髪には暗い森にも似た深さがある。

…森。なぜ森なのだろう?どこから浮かんだのだろう?

通り過ぎた背中に何か深いものを秘めている感じを覚えたのだろうか?遠ざかる背の先には森の深い隧道トンネルが待っているような気がした。その様子ときたらその背中といわず、髪といわず、その横顔からも、ゆるりと歩く調子からも感じられた。ただの直感にしては想像が形を成して風船のように膨らみ、つと手を離れ廊下の先へと後を追っていくと、梨佳子は先程の錫杖の白昼夢を思い出した。

「やっぱりいいよねえ、先輩。今日はサークル出るんでしょ。」

「うん。ああ、うん。」

風船が手を離れた。

「なによ。上の空ねえ。やっぱり変、何かあった?」

「何もないよ。一緒にいた人。先輩の友人かな?なんか雰囲気あるなあと思って。」

「同じサークルの人よ。と言っても一ヶ月に一回顔を出せばいい幽霊部員。リカがバイトで休んだ時初めてサークルに出てきたんだよ。いいかげんだと思わない。それに先輩と友人だなんて、なんか信じられない!」

「どうして?」

「変人ぽいでしょ。この間だってモーツアルトをかけながら、心理は地層と同じだからとか言って、情動の振幅は地震と似てないかとか、揺れに倒壊する建物も、倒壊しない建物も、建物の基礎構造の仕組みにあるとか…あとはなんだっけ。倒壊を誘発しやすいかどうかの地層の構造と成分、新旧、そうそう埋め立て地に多い液状化現象のようなものも、人間の心理の形成と共通しているとかなんとか。変な気分にはさせられるけど、よくわかんないの。なんか違った次元で生きているみたい。」

「そういう美帆こそよく覚えているじゃない。」

梨佳子がそう言うと美帆は何かを思い出したようにあははと笑って答えた。「先輩の友人だから気が張っちゃったかな。」

人の手なのか、自分の手なのかはわからないが、自分の視覚を遮っている草や枝をかき分ける動きを梨佳子は心に感じ取った。やはり入口の前にいるのだろうか?森の入口は同時に夢の入口のような気がした。

「面白いこと言うのね」「えーっ、面白いかな?」

「その人の名前はなんていうの?」

「神岡英介だっかな。先輩がさ。幽霊粒子ニュートリノを捕えようとしているスーパーカミオカンデの神岡だ。とかいっちゃって…えっ。リカ興味でもあるの?私はやっぱり御蔵悠里先輩の方だな。」

美帆は笑顔でそう答えた。


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