第2話 悪夢の声
「りかこ…りかこ。」
どこまでも暗い闇の空から声は降ってきた。
母さん。母さんなの?
辺りは底知れぬ深い闇で覆われ、明かりのひとつもなければ、見えるものもない。ただ何というのだろうか?視覚の代わりに嗅覚に漂ってくるものがある。それは潮の香り。深い海の底の濃縮された潮が乾いて腐敗しているような臭い。深海など知るよしもないその臭いには不快な魚の腐敗臭やら泥の臭いなどに混じってどこやら線香臭さも加わって鼻腔にひりひりと刺さってくる。感じ取れるのは臭いばかりではない。陸に放り出された魚の跳ねる音に似たものが、ぴたぴたと動き回っているのが感じられる。それも何十、いや何百、網から上げられた大量の魚たちが闇に隠れてのたうっている。そんな姿が顔前の暗闇の中に浮かんでくる。
すると今度は手の感覚が目覚め、手にした電燈に気づくことになった。少しの逡巡の後、意を決して闇を照らしてたが立ち込める霧ばかりで奥が見えない。
それでもどうやら魚たちはみんな腐りかけているらしい。
さらに高まった腐敗臭と失せていく音がそう告げている。こうなると見えないことこそが幸いなのだと思える。大量の死魚の宴などを見てしまったら今後魚を食すことなどできるものではない。臭い。臭い。本当に臭い。
鼻に手をやったそのとき、また…
「りかこ…りかこ」
とぎれとぎれの聞こえるのは母の声。
切羽詰った抑揚が悲しげに、そして苦しげに後を引く。
「私はここにいるよ。ここにッ…」
言いかけた言葉ごと声を塞がれた。
突然二本の腕が背後から巻きついてきたのである。
一本の腕は下腹部を縛り付けるように、もう一本の腕は脇の下をとおり手の平でぐっと口を塞いだ。
電燈は奪い取られ明かりは消された。
「ここか?りかこ。目を塞げ。見るんじゃない」
この声は父さん。
岩のようにたくましい胸から、ことんことん、と心臓の音が響くのが伝わってくる。
少し塞いだ手が緩んだ。そっと肺の空気を送るように声を上げた。
「父さん。母さんの声だよ。私を呼んでるよ」
「しっ。母さんは死んだ。葬式もした。あれは母さんであるはずがない。いいからもう少し、いいというまで目を開くな。過ぎるまでじっとしてるんだ」
「りかこ…りかこ」
母?の声が近づいてくる。
口を塞いだ父の手に再び力が入った。
「行かせん。りかこは行かせん」
月明かりが闇に射し込んで来たのだろうか?前方に影が見えた。くの字に曲がった影が林の木立のように重なり合って動いているのが見えた。
ひたひたひた、と…ぴたぴたぴた、と。
消えたと思った音が目の前で響き渡っている。音の正体は魚ではなかった。魚よりもおぞましい影が蠢いている音だった。
あれは…なんということだろう。人間の足だ!
それも死者の足音だとすぐに理解できた。
「足音を立てる亡者はこの世に未練を残しているんだよ。」
祖母の言葉が戦慄とともに背を駆け上る。
身体が自然にびくりと反応してしまったのだろう。父の手に力が入ると、耳元で「だいじょうぶだ。声を出すんじゃないぞ!」と言った。
今更ながらに気づいたのは自分の立場である。生家の庭にある柘植の木の脇に父と二人で小さく固まっていた。目が闇に慣れたばかりではない。ぼんやりとした夜空には半眼の月明かりがあって、街灯の消えた往来やら、真っ暗な家々やらを仄かに照らし出している。時刻もわからない静まり返った夜中の往来に彼らはいた。彼らは腐敗臭を放ちながらアスファルトの上を歩いている。腐敗して形を保つことができなくなった身体の一部がぴしゃりと地面に落ちる。タール色の闇の足型と一緒に道路の一面を濡らしていく。
反射的に身体がびくりと動いていた。この世ならぬものを見ているという思いが咄嗟の電気信号を身体に送ってきたのだろうか。父の呼吸が耳に吹き掛かるのとは反対に、私は息もできないほどの緊張に固まった。
「りかこ…りかこ。」
今度は母屋から聞こえてきた。
母?と思われた何者かは家の中で私を捜していたに違いない。ひたっひたっひたっと居間を抜けると、廊下を横切り、庭を見下ろす縁側で立ち止まった。
目を開いていなくとも、その光景が脳裏に映る。
何者かは庭をじっと隅ずみまで舐めるように見回し、また動き出す。
おばあちゃん?…奥座敷にいる祖母のことを思った。
口を塞いでいた父の指が開くのと同時に人差し指と中指が目の方へと動いてきた。目を開かないようにとの父の気遣いだったのだが、その不快な指の動きに逆に目が開いてしまっていた。そして見た。
開いた目の前に…それはいた。
「りかこ…りかこ。」
シャッターを切る前の瞼が開いたままで止まった。
呼吸も時間も止まった。
私は見た…
はっ、と目に染みる汗と息苦しさで目を覚ました。
意識はつい先刻の体験をくり返しくり返し反芻している。
何を見たの?…と自分に尋ねてみる。
本当のこと?…と自分を疑ってみる。
何かしらの記憶のようであり、見たものにいたっては何一つ覚えがない。
悪夢というだけでは収まらない不安と恐怖が指を震わし、首筋の皮膚をなぞりながら青白い戦慄となって身体を駆け上ってくる。生理的な恐ろしさとでもいうのだろうか、体中の体毛がぴりぴりと静電気を帯びて痛いほどなのだ。鏡に映る髪の毛が逆立っているのではないか。そんな妄想にとらわれて、机の鏡を手にとって自分を映してみた。
生気をなくした植物のように、頭皮といい、額といい、首筋といい、濡れそぼった髪がばらばらに張り付き、乱れ切った髪の間から、吹き出た汗に沈む疲れきった顔が見えた。
― 自分の顔じゃないみたい。
時計を見ると五時を回った時刻。悪夢を見るには遅すぎる時刻。
― 母が小学生の頃に亡くなったのは確かなことである。
それに夢の中の自分が子供だったような気がする。
ならば夢の出来事は本当のことなのだろうか?
うっすらと覚えているような気がするのは体験したことだとでも言うのだろうか?
もし本当に夢のような体験をしていたというならとっくにトラウマに罹っている。もっと早くから悪夢に怯えて過ごしていたに違いない。悪夢だけに止まればいいが生活に順応できない危険性だってある。
じゃあナニ?…単なる夢?
そう思いたいが記憶の底に漠然とした引っ掛かりがある。もうすでに覚えている限り三回か四回夢を見ている。覚えていないものを含めるともっと見ているかもしれない。小さな幸いは続きものの夢ではないこと。これが…いつか。それは今日の夜かもしれないが…
続きを見たらどうなるのだろう?
まさか鑓水先生のような予知夢になるのだろうか?
それとも仁美…
仁美の見た夢はいったい何だったのだろう?
夢はときに深層意識に封印された、それこそ得体のしれない記憶や欲求の象徴として現れると何かで読んだ。
そうなると自分の手には負えない。
誰か詳しい人はいなかっただろうか?
梨佳子の脳裏にはひとつの顔が浮かんできた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます