Bトタ(ベントタ)
Bトタという町はコロンボからゴールに向かう途中にあるといえばわかりやすいだろう。電車は波打ち際まで数メートルのところを走っていた。単線で、冷房がなく窓が全開で、座れないどころか通路や連結部まで満員だった。車内の半分ほどのスリランカ人はこの暑さの中でも長袖のシャツを着崩すことなく着ていた。この国には古き良き英国文化が色濃く残っていた。元首都のコロンボから乗ったスリランカを南下するこの電車は私の夏休みを満喫している気分を最高潮にしてくれた。妻子ありの五十才目前の男が一人旅とは、考えてみれば贅沢な話だった。むせそうになる熱量の空気にも慣れてきた。
私はBトタで下車すると、駅舎を海側ではなく山側に出た。空からそのまま繋がった空間が広がっていた。繁栄があればロータリーと呼ばれるであろう駅前のそのスペースは、繁栄どころか寂れた建物すらない単なる広場だった。道路の舗装は剥がれ、あちこちに雑草が生えていた。木陰にバイクの三輪タクシーが一台止まっているだけで、運転手は見当たらなかった。溢れるほど人が乗っていた車内や、この国に来て以降感じていた活気が消えていた。この駅で降りたのは私だけだと今気づいた。しばらく立っていると、暑さと微風と周囲の緑から、南国のざわつきを感じた。ここにはビールとビーチがあり、女に出会えれば、最高の休日になる。まだ見つけていない女だった。
息子の調べたネット情報では、このロータリー沿いに観光客に人気のレストランと土産物を売る小さな商店街と警察署があるはずだった。ロータリーの概念を広げ、周囲を散策するとそれら全てが見つかった。どれも歩いてその場に行ってみると、ロータリーまで遮るものはなく、確かにロータリー沿いだった。土産物屋に老婦人がいた以外には、人気のレストランにも警察署にも人気がなかった。ロータリーを抜けて南北に走っている幹線道路に出ると、予約したホテルのある南に向かった。
◆
今年の夏は劇的に展開した。その日、今年初の猛暑の予報で、メディアは去年までのデータと合わせて熱中症対策を騒いでいた。デスクワークの私が猛暑を経験するのは朝晩だけだったので、嫌だなあと薄い感想を持つ程度だった。ところが猛暑の影響が私を襲った。その朝、信号待ちをしているとき、目の前で老人が崩れ落ちるように倒れた。映画であれば私が刺し殺したと疑われるような位置関係だった。幸い倒れたのは老人で、血は噴き出ておらず、朝から三十度を超えていた。私はとにかく何かを確認しようと男に触れた。呼吸を感じることができた。脈をとることなどせずとも、人の生とはわかるから不思議だ。しかし私にできるのはそれだけだった。倒れた老人に向き合っても、救命の経験も知識もないことを痛感するだけであり、何もできなかった。パニックになる瀬戸際で顔を上げると、遠くに自転車の警官を見つけた。大声と身振りで呼び止め、後はその若い警官に任せた。熱中症を目の当たりにしたことで、気が引き締まった。
その日の晩、日が沈んでも暑い交差点で、今度は私が警官に呼び止められた。「スーツ姿でしたので、きっと仕事を終えた五時過ぎにはここをまた通るだろうと思いまして」もう八時に近かった。警官の用件は、朝の老人のその後の報告だった。倒れた老人は回復し、元気に帰っていった、やはり熱中症だった。「ところが元気すぎて困りました。お礼を一言いいたいから、あなたを探せと」本当に助けたのは私ではなく警官だろう。それに私が寄ったのは倒れた後だから、存在を知らないはずだった。「すみません、私にお礼をすると責め立てられ、いろいろ理解してもらうために、あなたのことを話してしまいました。それで国家権力を使ってでも探せと」目の前の警官は押しには弱そうだった。「私からあなたに連絡先をお聞きするのはいろいろ問題がありますので、連絡先を聞いておきました。ここに連絡してもらえますか」東京の三から始まる固定電話の番号だった。
電話をかけると、少し時間差があってから上品な年配の女が出て、間もなく帰ってくるので折り返すと言われた。早速出かけているとは、元気なのか無鉄砲なのか。しばらくして折り返してきたのは声の大きな横柄な男だった。男は礼を言っているとは思えない厳しい口調ではあったが、かろうじて感謝は伝わってきた。「昼飯ぐらい奢らせてくれないと、死んだ婆さんに顔向けできない」と言われ、日曜日の昼食を約束させられた。その日に用事はなかったが、私は多くの人と同じで、頑固で横柄な老人が苦手だった。
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私は波打ち際を散歩していた。波は泳ぐという発想が起きないほどにいつも大波だった。目の保養になる女どころか、誰も見当たらなかった。海からの風が強くなってきた。まだ降っていない雨だった。こちらのスコールは鳩時計の鳩のように正確な動作だった。夕方になる、海からの風が強くなる、その風の中に湿気が増える、黒い雲が空を覆う、そして大粒の雨が落ちてくる。暑さが和らぐころには風が雲と雨を運び去っていた。スコールは正に通り雨で、昼間の暑さを一気に冷ましてくれる素晴らしいシステムだ。そんなことを考えていると、雨が降ってきた。周囲を閉ざすような雨音は爽快で、濡れることも悪くはなかった。雨をわかっていても、傘は持たず、散歩時間を変えたりもしなかった。夕暮れどきの波打際を逃すわけにはいかなかった。雲の向こうに沈む夕日と夜のとばりのせめぎ合いは最高だった。この後、近所にウミガメを見に行く予定もあった。リゾートをすっかりエンジョイしている自分に笑ってしまう。
◆
そこは老舗の貫禄のある寿司屋だった。格子の引き戸を開けて藍の暖簾をくぐった。「古ぼけているけど、味は一流だよ」老人は行きつけているのだろう、同年代の大将とは視線を交わしただけでカウンターに座った。「燗酒と、あとは適当に」
「まずは、ありがとう」そう乾杯した。老人は手が震え、お猪口が口につくまでにほとんどこぼれていた。その光景以上に気になることがあった。酒が薄かった。私は特に日本酒に明るいわけではなかったが、これは明らかに薄かった。日本酒を垂らした白湯のようだった。「どうした? 夏に飲む燗酒が珍しいか?」
運ばれてきた小鉢二つは、煮貝とサラダだった。続けて白身の刺身が運ばれてきた。酒のことは忘れて刺身を口に入れると、酸っぱさが広がった。信じられない強さの酸味に、咳き込まないのが精一杯だった。酢の物にしても、あまりにも刺激が強すぎた。匂いは完全に酢そのもので、腐っているわけではなさそうだった。
「ワサビは苦手か? まだまだ若造だな」と老人は笑い、謎の刺身と謎の酒を楽しんでいた。サラダにはドレッシングの存在を感じず、煮貝は過剰な醤油に浸っていた。大将はこちらには目もくれず仕事をしていた。何かの手違いか、何かの悪戯か、それでなければ何なのか。他に客がいないことも気になった。
老人がトイレに行くと大将が私に寄ってきた。
「帰ってくれ。酒も肴も美味くないだろ、わざとだよ。即座に退店し、二度と来てほしくない」
確かに不愉快なことも多い老人だろう、短い中でもそれを端々に感じる。それでも美味しくない料理を出すという陰険さには腹が立った。何よりその美味しくない料理を食べさせられているのは私だった。私は、美味しい寿司を出してくれればすぐに食べ終えて帰ると言い返し、生ビールを注文した。
「ビールにしたのか? ここのビールはあまり美味くないぞ」とまた座を悪くした。一方で私の一言は大将に届いたようで、それ以降は真っ当な寿司と生ビールという組み合わせで、ランチを楽しんだ。
老人はここは奢るからと言い、しかし支払いをすることなく店を出た。私はトイレに行くと言い残して店に戻り、一万円を大将に押し付けてきた。お昼時だというのにガラガラの店内を見ては、老人に倣うわけにはいかなかった。
家に帰ると、お礼の電話があった。例の丁寧な女からだった。来週の日曜日の寿司を約束させられ、「また主人がお世話になります。よろしくお願いいたします」と言われた。推しの強さだけは似た夫婦だった。
◆
二度目の来店では、小鉢から美味しかった。確かに味は一流だった。生ビールの泡もきめ細やかになっていた。老人の燗酒はきっといつものまま白湯だろうが、どうせほとんどこぼすので関係なかった。一方、老人の暴走は激しさを増した。
「私の代わりに殺し屋になってくれないか」私は人を殺すつもりはないと冗談のつもりで答えた。大将はこちらに顔を向け、苦笑いをしていた。
「若いころ、つい商売女に手を出してしまった。男は色気には勝てないからな。それが女房にバレた。匂いで気づいたらしい。あれも気の強い女でなあ、即日、離婚届を突きつけられた。どうにか言い訳をしないと、黙って判子を押すしかない状況だった」そこで男が思いついたのは、自分が殺し屋であるという嘘だったらしい。数ある言い逃れの中でも最低だ。
「私が殺し屋、ターゲットはその女。女房は冷静だったよ。殺して来い、首をここに持って来いと言われた。詰みだった」
大仰な話なのか、単なる嘘の攻防なのか。私にはそのシーンが想像できなかった。小劇場の舞台か低予算の映画でならありそうだった。
「あのときの嘘を、嘘のままにはできない。このままあの世に行くわけにはいかない」そう言うと一枚のハガキを取り出した。絵も写真もないエアメールだった。日本を離れてスリランカのBトタという町に住んでいることと、元気でいることが書いてあった。字体から女だとは推測できた。ハガキの白地も文字の黒インクも、色褪せてなく新しかった。
「殺し屋として、この女に会ってきてほしい。小さな町だから、女もすぐに見つかるだろう」そう言うと、そそくさとハガキをしまった。後は任せたという風に私の肩に手を乗せ、店を出て行った。私は老人が出て行くのを呼び止めはしなかった。結局、昔の女の消息が気になるということだろうか。
家に帰ると、前と同じようにお礼の電話があった。今度は寿司の代わりに旅行の約束をさせられた。私は断り続けたのだが、声が小さく柔らかい割に一歩も引かなかった。下手な嘘で女房に逃げられたのだから、この女は後妻なのだろう。できすぎた後妻というのも、どこかフィクションの匂いがした。
◆
丁寧な後妻は段取りが良く、次に電話を受けたときには、会社の近所の旅行代理店の担当者を紹介された。仕事帰りにその店に行くと、いくつかプランが用意されていて、私に求められたのは日程の調整だけだった。請求書は向こうに回された。
ある日、交番の中に事の発端となった警官を見つけたので、声をかけに行った。交番の入口に立ちながら、警官は私の最近の一部始終を楽しんで聞いていた。最後は昔の女が気になるという色恋のセンチメンタルな話ではなく、殺し屋の喜劇として終えた。
「どっちなんですか、ターゲットは。だって、今の話からすると、別れた気の強い女房か、浮気相手の商売女か、どっちでもあり得ますよねえ、いま殺すなら」私はてっきり浮気相手の商売女だと思っていた。確かに今であれば、別れた気の強い女房の方を殺し、自分が殺し屋だったことと当時の恨みを同時に晴らすということもあり得た。男はそういうミステリーに憧れて警官になったらしい。ヒットマン役を代わってあげようかと提案したが、「私は所詮、仕事ですから。その資格はありません。それに私が憧れたのは殺す側ではないので」私も殺す側ではないのだが。「戻ったら話を聞かせてください」女に会って確かめてくると約束した。交番で無駄話をするというのは、初めての経験だった。
旅行の当日は黒塗りが家まで迎えに来た。車内で受けた女からの電話でまた丁寧な挨拶をもらい、見送りに行けないことを詫びた。私はお土産を持ってお礼に伺うことを一方的に約束し、電話を切った。電話の声からは女房なのか、浮気相手なのかを判断できなかった。
◆
旅行会社の担当がこの国について教えてくれた情報は三つだった。とにかく暑いこと、全ての料理がカレー味であること、怪しい人と親切な人との区別が難しいが全員が親切な人であること。どれもその通りだった。そして私は二つ付け加えていた。一つがスコールの合図である海風、もう一つが紅茶がホットであること。紅茶にアイスの選択肢はない。ただし私が言いたいのは、紅茶がホットであることではなく、こちらの紅茶は冷めた方が圧倒的に美味しいことである。私は緩く冷めた紅茶をホテルのプールサイドで楽しんでいた。私の夏休みは五日目であり、今日は散歩がてらホテルの近所を歩いて女を探した。犬と茶色の牛を良く見かけただけで、目的の女にも、目的外の女にも会えなかった。
ホテルの部屋で雨をやり過ごし、ホテルから線路を越えて海に向かった。果てしなく続くビーチの砂は柔らかく、海の波は激しく勢いがあり、そのコントラストを足と耳で感じることは癒しの頂点である。空はオレンジ色だったが、今日も夕日は雲の向こうだった。とにもかくにも、ターゲットがどちらの女なのか、その謎を解かなくてはならなかった。差出人の名前は書いていなかった。むかし別れた相手に名前を晒してハガキを送るのは躊躇われたのだろう。常識人とすれば、やはり元女房か。しかしハガキというセンスは水商売の香りもする。
夕食前にホテルのラウンジで飲むビールは、南国なのにアルコールが濃く、体が昼間に出し切った汗の分の水分を求めるので、一気に酔う。そもそも、あの女は後妻だろうか。あの押しの強さや段取りの良さは、離婚届をすっと机に置き、平然と首を持って来いと言いそうだった。あの老人なら、生きている妻を死んだ婆さんと言い放ちそうだった。老人は離婚したとは一言も言わなかった。死んだ婆さん=丁寧な後妻=気の強い元女房ではなかろうか。そう考えると状況はシンプルになる。ターゲットが丁寧な妻か、浮気相手の商売女かだとすると、今Bトタにいるなら商売女のはずだった。
夕食はホテルのレストラン、前菜でイカのフリッターを注文したところ、やはりカレー味だった。ハガキの差出人とBトタにいるのが別々の人物ということはあるだろうか。濃いアルコールのせいで警官の変な思考が移ったようだ。丁寧な妻は昔の浮気相手の居場所を知り、そこにヒットマンとして老人を導いたとは考えられないだろうか。その代打で私が差し向けられた。しかしここに商売女がいるだろうか。ここは一級のリゾートではあるが、金の匂いがしなかった。英語の通じないウェイターは、イカを白くてガムみたいだと説明していたほど、洗練されていない町だった。香水をつけた商売女には合わない。男を惹きつける女なら、ハワイやバリ、セブやカリブ、いずれにしろここではない。熱い紅茶と長袖のシャツは、登場人物の中では丁寧なあの電話口の声に良く合っていた。私はホテルの電話が鳴るのを待っていた。🅱
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