Bノバ(ボサノバ)

 毎年言うのだか、今年の夏に足りないものは健康的な女と雨上がりの虹だ。今手元にあるのは、あまり健康的ではない女と、まだ上がっていない雨だった。女は多くの面で上等だったが、雨のせいで不機嫌だった。不機嫌と不健康が私の夏の理想から遠くても、夜は品数の多い夕食を作って私の帰りを待ち、朝はその日に私が着ていくシャツにアイロンを当て直す女であれば、夏の理想は二の次にしてもいいだろう。今年の夏は何かが足りないどころか、いろいろなものが溢れていた。



 彼女が不機嫌なのは雨や湿気ではなく、水そのものの存在だった。彼女は特に金属と水が交わることを恐れていた。金属が水の邪悪なパワーを吸い取り、ため込むらしい。反論が面倒なので彼女が私の部屋に住みついてからは金属製品の使用を極力放棄した。科学よりはオカルトに近い話だったが、彼女には科学の素養があった。私には理解できない数式や実験器具を駆使し、部屋の片隅の瓶の中でハチミツを発酵させ酒を自作していた。食前酒としての一杯と食後酒としての一杯だけと、私の飲酒は厳密に決められていた。彼女の自作酒は仄かな甘さとパイナップルのアレに近い舌に感じるチリチリが美味だった。彼女の言うケミカルとエッジを全く感じない味、加えて酔いも最高だった。とにかく内側から染み出すように酔うのである。麻酔がゆっくりと効いてくるようにアルコールに弛緩されていく感覚は、ソファーに座り天井を見上げていると重力から解放されるようだった。自然のアルコールの素晴らしさを分子の絵で説明されたが、学生時代の理科の授業と同じで、何も理解できなかった。「皮肉なものよね、人間は水なしでは生きていけない。あなたにも私にも体いっぱいに邪悪が内在しているの。アルコールだけが水の邪悪を和らげてくれる」と最後はいつものオカルト的な話で終わった。到底、納得はできなかったが、雰囲気は理解はできた。


 彼女が不健康なのは肉体的側面ではなく、精神的側面だった。彼女は初対面でファーレンハイトと名乗った。「みんながそう呼ぶの」と言うので本名を尋ねると、戸籍がないから本名も意味がないと言う。だからクレジットカードもなく、結婚もできない。この国を出ることもできない。「存在証明は今のあなただけ」と言われた。一週間を越えてもまだ私のアパートから帰ろうともしなかったので、自分の家に帰らないのか、仕事に行かなくていいのかと尋ねると、「記憶喪失なの」と言われた。私は戸惑いで沈黙し、彼女はその先に話すことがないから沈黙し、この話はそれで終わった。



 私は自分が担当して食材を卸しているホテルには、月に一度ほど営業と視察がてらパーティーの手伝いに行くことにしていた。結婚式や謎の授賞式や謎の講演会で、アルバイトたちに混じり食事と飲み物の準備をし、運んだり片付けたりをする。たまには体を動かすのも悪くはない。

 初めて見たときの彼女はロビーの長椅子に座っていた。その日は金曜日で幾つかのパーティーが開かれていて、私はあちこちの扉を開けては会場に出入りしていた。彼女は胸元と太ももの露出が多く、手首のアクセサリーも多かったが、体にフィットしたスーツ姿であり、仕事とも結婚式とも判別できなかった。何度、眺めてみても同じ横顔で、退屈しているのか、体調がすぐれないのかも判別できなかった。私は水をお持ちしましょうかと声をかけた。いま思えば最も言ってはいけない言葉だった。「結構です」と信じられない剣幕で返された。およそ一時間ほど彼女はそのまま座っていた後、私を見つけると寄ってきて「お水を貰えますか」と頼まれた。私は彼女にグラスに入れた水を手渡した。彼女は僅かに一口だけ飲むと、顔をしかめてグラスを突き出し、私が受け取ると立ち去った。

 それから一時間ほどして私が仕事を終えて帰ろうとすると、外は予報通りに雨だった。さっきの彼女が遠くに見えた。傘を持っていないようで、エントランスから続く屋根伝いの端で困っているように見えた。私は静かに近寄りそっと傘を開いて彼女の上に掲げた。ホテルで言えば傘を借りられると教えると、「この傘がいいの」と傘の柄に手を添えて歩き出した。この漫画のような安いシーンについて、今なら解説できる。私の傘は金属部分が少なく、芯の棒は木製だった。客先に行くときには絶対にビニール傘と折りたたみ傘は禁止、会社の変な営業方針に従っているうちにこだわるようになった傘が功を奏したわけである。

 最寄りの地下鉄駅に向かいながら、私は続かない会話に困っていた。今日は何をしに来ていたのか、友人の結婚式か、仕事か、酔って気分が悪くなったのか、仕事は何をしているのか。全てに返事がなかった。仕方がないので自分の仕事の話をして間を埋めた。駅へ下る階段の直前で、彼女は自らをファーレンハイトと名乗った。あまりに唐突な自己紹介で、あまりに馴染みのない名前だった。彼女はコミュニケーションが得意でなく、それでさっきもパーティーに馴染めなかったのだろう、それでも人との関係には興味があり、傘に入り名乗る程度には私に興味があると勝手に理解し、これから飲みに行かないかと誘った。「私、ビールもワインも苦手なの」とまた会話を続けにくい返事だったが、ある程度予想していたので、「私もビールは好きになれないんです」と意気投合してみせた。地下鉄の入口を通り過ぎようと歩みを進めると、彼女は傘をしっかりと握ったままついてきた。手首のアクセサリーがプラスチック製なのにはこのときに気づいた。

 私たちは強くなった雨に押し出されるように手近なチェーン店のバーに入った。二人で悩みに悩んだ末、モヒートを注文した。彼女はまた一口だけで顔をしかめた。「ケミカルでエッジの効いた味がする」私はこれに同意する術を持たなかったが、続かない会話はお互いの手探りの結果だと思えば楽しかった。まだ虹を用意できていない空だった。

 別れ際に私が教えた連絡先は、メールアドレスでも電話番号でもなくアパートの住所だった。それは私なりのささやかな抵抗だった。しかし「明日、晴れてたら遊びに行ってもいい?」と彼女のペースを乱すことはできなかった。私は翌日の晴れを約束した。「約束ね」と彼女は真顔で去った。

 翌日、朝の八時にインターホンが鳴った。彼女がダンボールを一箱持って立っていた。何を持ってきたのかを尋ねると、「本物のお酒を作るから待ってて」と昨日は一度も見せなかった笑顔だった。箱から器具やら瓶やら蜂蜜やらを取り出し、自作酒ができたのは、四日後だった。


 梅雨も終わり、彼女は褐色で上機嫌になっていた。私が仕事に行っている間、窓際で日光浴をしているらしい。私が仕事を終えて帰ると、海やプールよりも雑誌のグラビアで見かけるような水着にシャツを羽織った格好をしていた。男としてその格好へは一言の文句もなかったが、一日の終わりに対峙するには健康的すぎた。

 気温が高くなり発酵が早くなったそうで、酒の製造ピッチが上がり、厳密な一杯ずつというルールはなくなった。それでも彼女は一口だけで、いつも顔をしかめた。邪悪と戦っている彼女は大変そうだった。

「ここに来る前、ずっとブラジルに住んでいたの」また突発的な告白での新展開だった。返事を必要としていないことは分かっていたので、気楽に聞いていた。彼女はそれからポルトガル語の素養を全く感じさせない発音でアントニオ・カルロス・ジョビンを口ずさんだ。彫りの深い顔立ちはラテンを含んでいると言われると納得できた。肌の露出が多い服や水着を選ぶことや、勝手に押しかけて住みつく気軽さには、ラテン気質が染み付いていると取ることもできた。しかし彼女は記憶喪失のブラジル人ではなかった。一緒に暮らしていれば、それぐらいは分かった。


 珍しく外出していた彼女が夕立にあってずぶ濡れで戻ってきた。自ら雨の中に立っていたかのような濡れ方だった。不機嫌を通り越したのか、青白い顔で震えていた。彼女は毎日、シャワーを浴びているので、水に濡れること自体はそれほど嫌悪していないはずだった。しかしそんな内容の会話を交わす必要はなく、私はタオルとドライヤーを持ってきて、少し荒っぽく水分を彼女から取り除いた。その間、彼女は泣いていた。しかし涙は出ていなかった。ブラジルの話をし、下手なジョビンを歌い、「虹を待っていたの」と最後に言い訳をした。


「寒い、発酵が遅い、台風が来る」夏が終わろうとするころになると彼女は始終不機嫌だった。台風が直撃した夜、酒の中に綿のようなカビを発見した。それを風呂場で流しているとき、彼女の中で何かが極まったようだ。私が様子を見に行くと、座り込んで静止した。呼吸だけは忘れていないようなその状態は、あの日、ホテルのロビーで見た横顔だった。何度か声をかけると、「船でこの国を出る予定なの」と切り出してきた。船とは何時代の話かと思う。お互いの手探りは最後まで続く。🅱

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