Bドス(バルバドス)

 いつも歩いていた裏通りから表通りに出て、ビジネスホテルのエントランスをくぐった。羽田空港に近い京急線沿い、狭いユニットバスで二年ほどの放浪の汚れを洗い流した。下着から何から全て新品に替えた。明日、パスポートだけを持って、カリブ海に向かう。カッコつけているわけではなく、本当に持ち物が何もないのだ。お金の方は、三十歳目前の男としての生活には不十分だが、一回の貧乏旅行には十分な額を持っていた。



 私は路上生活者の間ではちょっとした有名人だった。都内だけでなく、他県からも私の元に来る人が後を絶たなかった。あなたに路上生活者の友人がいて、その友人が小さめのちゃぶ台を持っているなら天板の裏を見て欲しい。大きく「夏」と書いてあればそれは私の作った販売価格一万円の商品だ。工房や工場があるわけでもないので、寂れた公園の片隅にブルーシートを広げ、ダンボールを敷き、鉛筆を耳にかけ、ノコギリを引き、ノミを打ち、カンナをかける。部品ごとに逐一採寸し、ボロボロの図面を取り出しては寸法を確認する。この寸法の一致が私の心の平穏を生んでいた。採寸し、確認し、その一致の安らぎを味わう。それを繰り返す。図面と現実の一致に、生きた心地がした。社会からはみ出ている現実を消すことができた。コストパフォーマンスなどと世間が騒いでいる中、路上生活者は一万円で私のちゃぶ台を買っていくのである。口コミというやつだろう、人づてに私の元に路上生活者がやってくる。私は元来の労働意欲に低さのせいで路上生活をしているわけで、週に一脚ほどの製造ペースだったが、ほぼそれで需給バランスが取れていた。

 私は会社を辞め、アパートを引き払い、今は路上生活をしていた。その路上生活も二年になろうとしていた頃、私は黒いサングラスをゴミ箱に入れ、別の旅に出ることにした。



 路上生活者の多くは、世間のセンスから言うと、クズのような人たちだ。インテリを気取りながらも、代金の一万円を踏み倒そうと必死なのである。さっきまで持っていた一万円がなくなったと平然と嘘を言う大人に対して、すぐにため息も出なくなった。第一、自分も同じ側の人間だった。


 その老人はアブサンと呼ばれていた。大昔に流行ったアブサンと同じアニス系の酒の匂いを漂わせていたからだ。高齢だったので、敬称が付いているようで都合も良かった。そのアブサンもクズの一人に過ぎなかった。依頼されたちゃぶ台を渡すと、金はないとだけ言った。少し変わっていたのは、代わりに話を聞かせるという。自分の話にはそれだけの価値があると言う。酒でか年齢でか、アブサンとの言葉のやり取りは成り立ちにくく、私の応対は関係なく話が進められた。抗うには断絶しかなさそうだった。そんなとき、雨が降ってきた。路上生活者にとって、雨は一大事である。アブサンは、商品も代金も明日にしてくれと言い残し、慌てて帰って行った。面倒なことになりそうだったのと、今日はその面倒が回避されたことと、その面倒がやがて必ずやってくることとで、私はため息をついた。少しするとアブサンが戻ってきて、前金代わりだとサングラスを渡された。パイロットにだけ着用が許されているあの黒くて大きなサングラス、迷惑でしかなかったが、受け取るしかなかった。それはまだ捨てられていないサングラスだった。アブサンは悪い人間ではないのかもしれないが、面倒なことにはなるだろう。


 翌日、朝からアブサンの一万円分の話がはじまった。昔、写真家だったらしい。写真の束を持ってきた。カメラを持っているところを見たことがなかった。今はもう撮らないのかと聞くと、撮っていると言う。写真を撮るためには、その場所に毎日通う。最低でも一年、そしてシャッターを押す。だから毎日、首からぶら下げる必要などないらしい。一瞬にすべてを閉じ込める。決定的瞬間を気取って一瞬を切り取ると安っぽくなる。路上生活者の写真論は一時間ほど続いた。普段のやり取りとは異なり、熱く論理的で、写真家だったと言うのは嘘ではなさそうだった。その後、やっと本題に入った。写真を見せられ、いろいろなエピソードが語られた。二、三時間、私は熱心なアブサンのファンだった。そして最後の一枚が私のちゃぶ台だった。ブルーシートの背景に雑然と生活用品が積み重なり、真ん中に小さめのちゃぶ台が鎮座していた。アブサンに渡すちゃぶ台は今ここにあるのだから、以前に私の売ったうちの誰かのところで撮ったらしい。いい写真だった。アブサンはアーティスト特有の自信に満ちた顔でその写真を渡してきた。

 太陽がすっかり高くなっていたので、私は昼食に誘った。行きつけの立ち食いソバ屋の軒先で注文し、裏通りのビールケースに腰掛けてすすった。二人は話をしなかった。路上生活者はあまり一般人の近くでは話をしない。裏通りですら私たちには居心地の悪く、完全アウェーだった。ゆっくりと食べる癖がついていても、ソバを食べ終えるのには五分とかからなかった。私は写真のお礼のつもりで無言のまま二人分を支払った。

 アブサンの話はまだ続いた。若い頃は今も有名な写真家たちと同じスクールで学んでいたらしい。血気盛んで野望だけを持った若者が目を見開いてシャッターチャンスを逃すまいとしていた。バブルに乗ってすぐに大金が入るようになり、浮かれた人間たちが騒がしいので日本を離れた。そして二十年ほどで放浪に疲れて日本に戻ってきた。日本で写真家が手っ取り早く金を手にするには、女の裸らしい。ところが開放的な外国が長かったせいで裸への日本的渇望が薄れていた。自然体の裸を撮っていたら仕事がなくなっていった。使い捨てにするならデジタルカメラで十分で、使い捨てにされるのは写真だけでなく被写体もだと、アブサンは大きく笑った。

 私の頭には、さっき見た写真の中にあったビーチと遠くに輪郭だけ映る裸の女が浮かんでいた。アブサンは写真束からその写真を取り出し、先ほどと同じ話をはじめた。

 そのころはロンドンに住み、金持ちのパーティーでファッション雑誌のような写真を撮って生活をしていた。ある日、人づてに聞いたとオファーの手紙が送られてきた。タイプ打ちされた英語にスペルミスがいくつもあったので、リアリティーが見えて、ホテルのコンシャルジュに言伝をして返事を書いてもらった。数日後に届いた手紙にはチケットと札束が入っていた。行き先を確かめることもなく、空港に向かった。イギリスから乗った飛行機はコンコルドだった。二流の写真家でもコンコルドに乗れる時代だった。そしてカルバドスというカリブ海にある見知らぬ町に降り立った。カリブ海は輝いていた。地中海のリゾートが寒々しく思えるほど、カルバドスのビーチは最高だった。

 私はアブサンの写真は認めつつも、カルバドスという国は聞いたことがなかった。コンコルドが聞いたこともない国に飛んでいたとは思えなかった。間違いを追求する気はなかった。与太話の方が我々には合っていた。私は気持ち良くアブサンにちゃぶ台を渡した。



 私は電子機器に強い若者の路上生活者を訪ねた。その若者は路上生活でも外出は少なく、引きこもっていた。若者はホテルの裏口近くでスマートフォンを無線接続し、インターネットの画面を開いてくれた。いくつか検索してみたところ、カルバドスではなく、Bドスだということがわかった。確かにそのカリブ海の町にはロンドンからコンコルドが飛んでいた。驚きだった。日本人には馴染みのない国だが、交通の要所だった。

 若者には、アブサンにもらった二枚の写真をスキャナーで取り込み、デジタル化してもらった。クラウドという場所に保存してもらった。メールアドレスとパスワードさえあれば、いつでもアクセスできる。今アクセスはできないが、将来はわからない。お礼に黒いサングラスを渡そうとすると、拒否された。お礼ならすでにもらっていると、若者はBドスの方の写真をスマートフォンの壁紙に設定していた。🅱

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