Bウィー(バダウィー)

 散々迷ったが、花束は持たずに成田空港へ向かった。電車の窓から見える青い田んぼばかりの風景をやけに日本的だと感じた。空港への道のりとはそういうものらしい。この青々とした風景に心を打たれている私は、果たして砂漠の民になることができるのだろうか。青さが直接に脳に匂いを感じさせ、さらに吸い込んだ空気には彼女の甘ったるい香水の匂いがした。



「またナンバーズを買ってきたの?」私の後ろのテーブルから女の声が聞こえた。

「うん。ナンバーズじゃなくて、ロトだけど。まだ当たっていないだけのロトよ」別の女の声が聞こえた。どちらの声も二十五歳の自分と同じぐらいの年の声だった。

 私がその広場に面したオープンテラスのカフェにいるのも、彼女と同じ理由だった。広場の反対側にある宝くじ売り場で、昼食がてらにロトを購入するため。春の心地良さが期待を膨らませてくれていた。

「今どきネットでも買えるよ、きっと」

「そういうのって、野暮なのよ」

 後ろからなので声だけが聞こえている。その声と「野暮」という単語が、女の声と不似合だった。女の顔や服装が気になったが、すぐ後ろなので振り返るわけにもいかなかった。

「昔の男の影響なんでしょ?」

「そう。ハリウッド映画で、警官が自分の警官番号で毎週、くじを買ってるってシーンがあったの」

 先ほどの「野暮」という言葉がしっくりこない感じが頭から離れていないせいか、「ハリウッド映画」という表現もどこか彼女らしくない気がした。

「だから社員番号で買ってるんでしょ。何回も聞いたわよ」

 私は衝動に抗えず、振り向いた。二人のうちロトを買っていないであろう方の女と先に目が合った。私は一瞬で冷静さを取り戻し、その先に視界を進められなかった。ロトを買っている肝心の女は、私の真後ろであり、そこまで体を捻ることはできなかった。不審者枠から外れる努力は無駄と判断し、振り向いたときと同じ勢いで体を元に戻した。背中に感じる視線に打ち勝つために、体を石にした。

「いつまでその映画マニアの男を引きずってるわけ?」女が会話を再開した。不審者は瞬時に視界から削除されたようだ。

「そのシーンを見つけるまでは忘れられない。知らないんだもん、映画のタイトルを」

「まじで? 聞けばいいのに」

「聞きそびれた。だってまさか急に別れるとは思わないでしょ」

 昼から躊躇なく男と別れた話をする淡白な感じは、春に混じって感じる甘い香水と合っていた。

「じゃあ私は先に戻ってるね」ロトを買っていない方は、興味なさそうに答えて去って行った。

 今日ほど背中の先を意識したことはないだろう。私は暫く時間をおいてから、立ち上がった。そのとき最大限にさり気なく女に視線を向けた。タイミングが悪かった。彼女も席を立とうと、腰を上げはじめていた。彼女と目が合ってしまった。どうしていいのか分からず、しばらくそのまま固まっていた。あまりに私が凝視しているせいか、彼女も中腰のまま固まっていた。不自然で唐突だが話しかけるしかなかった。私も同じ理由から社員番号で買い続けている、高額当選経験はゼロだと付け加えた。

 彼女は中腰のまま上目使いで止まっていたが、動作を思い出したようにすっと立ち上がり、こちらに近寄ってきた。取り戻しかけた冷静さが、甘い匂いとともにまた消えた。

「実は、私はあります。当たったこと。誰にも言ってませんが」と人差し指を唇に当てた。適度にレトロな仕草だったが、彼女のルックスでおしゃれに見えた。私は立ち上がってしまったので、その先に自然に会話を続けることができなかった。名刺を渡しながら、映画のシーンが知りたくなったら遠慮なく連絡してくださいと言い残し、彼女のリアクションを見ることもなく立ち去った。一歩一歩が後悔だった。

 後ろからコツコツとしたヒールの音が聞こえ、甘い匂いが先に届き、少し遅れて彼女が視界に現れた。まだ仲良くなっていない二人だった。



「吊るしじゃないスーツね」私の脱いだ上着を従業員に預けながら、彼女がそう言った。それは広場のカフェでの再会から二日後、私がときどき行く和食屋でのことだった。割烹と書かれた気軽に入れない店だった。

 広場で彼女が私を追いかけてきたのは、私の名刺にあった名前に心当たりがあったからだ。私はその場で近日ある同窓会に誘われたが、小学六年の数ヶ月間だけいたクラスにはほとんど思い出はなく、丁寧に断った。「じゃあせめて、あたしと食事でも。和食が食べたい」

 その元学級委員の彼女は転校生である私のその学校での唯一の記憶だった。

「あまりに想像通りのエリートになっちゃって。嫌味なほど整ってるわよ。メガネをしてないだけが救い」

 彼女は私の想像通りではなかった。想像とは異なった自信に満ちていた。その理由はすぐに分かった。

「研究室にこもりっきりよ」去年まではスイスの大学院にいて、いまは日本の大学にいて、日々、白衣を羽織って実験に明け暮れているらしい。そうは見えなかった。艶のある毛先と整った眉毛からは、身なりに無頓着な姿が想像できない。メディアでたまに見かける理系女子は、美人でも美人を気取っていても、総じて洗練されていない印象だった。彼女はその対極にいた。

「素敵な社会人がご馳走してくれるって言うんだから、今日ぐらい着飾らないと。デートに着飾ってこない人って嫌いでしょ。一張羅よ」

 一張羅、また不自然な言葉づかいだった。変な物言いは理系女子独特のものなのだろうか。文系の私には未知の世界だった。

「お箸の持ち方、上手になったでしょ?」



 引っ越しの多かった子供時代の私は、友人を作ることよりも街を走り回ることに精をあげていた。自転車のタイヤが一年と持たないほど、飽きることなく走っていた。その新しい街には東京ほどの繁華街はないが、海があり、丘があり、細い路地があり、適度に人もいた。あるとき日が暮れてから私が家に戻ると、私の家のソファーに彼女が座っていた。「遅いから先に食べたわよ」と母親は笑った。「ご飯を用意してる間に、彼女を送ってきなさい」と私は夜の街に放り出された。

「家の前で待ってたら、おばさんが入りなさいって。ご飯もご馳走になった」彼女はボソボソと下を向いて話し、いつもの快活さがなかった。私はまだ疾走したテンションが体に残っていて、今日走った道の話を興奮しながら話した。彼女は不思議そうな顔をし、それでも口元は小さく緩んでいた。

 丘の上にある私の家の周辺は大きな家が並んでいた。海側の平地には、古い町並みというよりも、あまり裕福でない町並みが広がっていた。

「ここで大丈夫。もうすぐそこだから、ありがとう」と彼女が言うので、私は彼女を家まで送らなかった。当時、探偵気取りだった私は、彼女が平屋のアパートに入っていくのを電柱と壁の間から確認した。彼女は鍵を自分で開けていたので、家には誰もいないようだった。電気が付いたことを確認して、「ミッションコンプリート」と口にしてから、家路に着いた。


 転校してきたばかりの私の相手をしてくれたのはいつも彼女だった。通る声に快活な態度、勉強も運動も得意、分かりやすい優等生だった。ただし見た目の可愛さほど男子の受けが良くないようだった。その理由はすぐにわかった。服装や髪型に感じた清潔感は、質素さからだった。彼女の貧しい家庭を女子が蔑んでいた。そして小学六年の男子は、早熟な女子のいいなりだった。そこは地価の高い街だけに所得の多い家庭が多かった。家が裕福でない彼女は居場所を探せずにいるようだった。学校で頑張ることが抜け出す道だと考えているようで、すべてに全力だった。

 私たちは仲良くなったが、私はすぐにまた転校することになった。私の転校が決まると、彼女は家に食事に招待してくれた。いつものお礼だと言った。彼女はときどき我が家で食事をしていたからだ。

「あたしが作るから、大したものはできないけど」

 日曜日、お邪魔しますと入った彼女の家には他に誰もいなかった。片付いているというよりは、物が少ない家だった。それは外見からの想像通りだった。

 私が最後の晩餐だと言うと「そういう変なことを聞くのも最後ね」と会話は弾まなかった。小学生二人はサラダとカレーを黙々と口に運んだ。想像以上に美味しかったことが、彼女の家庭環境を物語っているようで、私は美味しいと言っただけであまり褒めなかった。

「すごく上手に食べるのね」彼女は慣れない手つきでサラダをフォークで食べていた。我が家はマナーには厳しく、私はフォークにも慣れていた。「お箸も上手だもんね」彼女はそう言いながら外国人のように短く持った箸に持ち替えてから、フォークよりは幾らか上手にサラダを食べ終えた。

 食事が終わりしばらくしてカレーの匂いが薄れていくと、彼女から甘い匂いがしていた。匂いを求めて大きく息を吸い込んだとき、それを彼女に見透かされたようで、また一層、会話に困った。

 テレビがついていた。現代アメリカ映画だった。主人公が警官を偽物だと見破って、先に撃ち殺した。

「いきなり殺したね」と彼女が言うので、私はなぜ警官が偽物だと分かったのかを説明した。主人公は偽警官に今日のロトの当選番号を聞き、偽警官はそれに答えられなかった。自分の警官番号でロトを買わない警官などいないらしい。

「将来、映画監督にでもなるの?」私はノーと答え、彼女の将来の夢を聞いた。旅立ちと別れの二人には適切な話の展開だった。

「決めてないけど、早く自立したい」彼女は決意を固めているようだった。私は応援も茶化すこともできなかった。

 そのまま彼女は私の家まで見送りに着いて来た。最後に学級委員としてクラスの寄せ書きを渡された。すでに荷物は運び出され、母親と車だけが待っていた。

「今度、会うときまでにお箸の練習しておいて。じゃないと美味しいものを一緒に食べに行けないから。あと髪と靴は綺麗にしておくこと。それと安易に自立するよりも、理系に進むこと。科学は絶対に裏切らないから。料理が上手だから、実験もうまくできるよ、きっと」素直でない私は言葉を探して必死だった。「生意気なこと言わないの」と母親は笑っていた。軽口が続かなかった。言葉が途切れ、私は車に乗り込んだ。


 これが彼女が広場で話していた急な別れだったようだ。



「イスラエルって知ってる?」先に来てビールを飲んでいた彼女が私におしぼりを渡しながらそう言った。そこはいつもの和食屋だった。

 Bウィーという砂漠の民がいるところ。行ったことはないが、映画で見たことがあった。

「現代の情勢不安よりも、映画の世界が優先するとは。砂漠の民、またカッコいいこと言うわね。まあ研究者なんて砂漠の民みたいなものかも。一緒にどう? 着いてこない?」それが彼女の本題だった。私が返答に困っていると、彼女が「ごめんなさい」と何かを謝った。また私か困っていると、彼女の種明かしがはじまった。

「王子さまを探したの。あなたのことよ。SNSですぐに見つかるかと思って」私はネットの世界には興味がなかった。

「そうなの。探しても探しても全く見つからなかった。それで意地になって、探偵まで使ったの。知ってた? 今って探偵に頼むのにいろいろ面倒なの。ストーカーかを疑われたわよ」

 探偵が私を探していたとは、彼女の奇妙な提案以上に衝撃だった。そして私の周りで変な寸劇があり、彼女は強引に再会してきたということか。

「どうしても劇的に再会しなくてはいけなかったから。相手は王子さまだから。それで演劇をやってる知り合いにシナリオを頼んだの。ついでに言うとその知り合いって広場で会ったときにいた彼女。出演もお願いしたの」不自然なことば使いは理系のせいではなく、脚本があったせいだった。今のこの瞬間もひょっとしたらその寸劇の最中なのかもしれなかった。

「あなたの助言通りに、理系に進んで、いまが大きなチャンスなの。どうしてもイスラエルに行って、バイオの研究をしたいの」そこにどうして私が関係してくるのかが分からなかった。

「チャンスなんだけど、踏み出す勇気が持てないの。そういうときはあなたなの。会って背中を押して欲しかったの。だから探したの。感謝を伝えたかったし、リベンジもしたかったし」と彼女は箸を器用に動かした。

「一緒に来てほしいの」

 私はプロポーズをされた当事者でありながら、冷めていた。コツコツと硬質なヒールの音が響く歩き方以外にも、彼女の多くに惹かれていた。私の助言を実現し、探偵まで使って再会してきた彼女である。しかしあまりに映画的であるせいか、不思議と冷静だった。会話が途切れたとき、甘い匂いがした。彼女の体温が上がり、香水が香ってきたのだろう。私は匂いを全て体に取り込もうと大きく息を吸い込んだ。彼女の甘い匂いは、あの小学六年のときと同じく甘すぎだった。彼女は今日も毛先が整っていた。私の勝手な理系女子のイメージからすると、あまりに頻繁にカットしていた。私と会うためにセットしているのだとすると嬉しい限りではあるが、それも違う気がした。彼女の自信に満ちた顔は、何かを振り切った顔で、それは研究者としての熱意というより、人生の瀬戸際での開き直りに感じた。

 真実がどうであれ、私は好奇心に流されようとしていた。私が着いていくとして、一体何を持っていけばいいのだろうか。

「パスポートだけでいいわよ」

 花束とかはいらないのか。

「カッコ良すぎるからやめて」

 私が断ったらどうするのだろうか。

「断られたときのことなんて考えてない」

 大げさに再会した割には、淡白な言い方だった。私は「お金が必要なの」と彼女が言い出すのを待っていた。映画ならそういう展開になるはずだった。🅱

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