Bローニャ(ボローニャ)
まだ騙されていない私はイタリアへ向かう飛行機の中にいた。友人曰く、これは空巣の古典的な手口らしい。もうどうしようもなかった。体の真ん中がヒリヒリし、ウーロン茶に浮いた氷が解けて舌に苦みを残していた。女に騙される際のぞくぞくはきっとみなさんにも分かるだろう。フリーフォールでの体の内側が外側にひっくり返るようなあれである。一方で、ニヤつきを隠すのに必死だった。異性に興味を持ってもらえているということで沸き立つ生物としての本能だった。何かを期待する青い気持ちは、フリーフォールと同じようなぞくぞくだった。私はこの二つのフリーフォールの起伏を楽しんでいた。
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アルコールが入るとすぐに眠ってしまう私にも飲みたくなる日はあった。しかし飲むと酔うよりも先に眠ってしまうので、不完全燃焼で翌朝を迎えてしまう。そんなときの朝起きての不快感はアルコールに増長されて最悪だった。だからそんな夜にはスカートの丈の短い女の子のいる店にいくことにしている。二十五才男子の健康的な性欲に頼るのである。これが実に上手くいく。酒と女を同時に求めてみると、全く眠くならない。浴びるほどとはいかないが、人並み程度、思考を諦める程度にはアルコールを飲むことができた。昨日がそんな日だった。二日酔いになるほどは飲めなかったが、それでも朝食は二日酔いに効くと言われるピンクグレープフルーツとシジミの味噌汁を用意していた。昼間はソファーで横になり、アルコールというよりも過剰な水分による怠さに脳みそを解放した。独身会社員の週末の過ごし方としては、まずまずだった。そして夕暮れどきに活動を開始しようとした矢先にメールが届いたのである。
「ベリー上野店のユカです。本名は園間(ソノマ)、カリフォルニアのワイナリーと同じ名前ですので、以後お見知りおきを」
梅雨だというのに晴天の土曜日のことだった。
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ベリーという店に行ったのは初めてだった。指名する相手もいなかったので、歩いて席に向かうときに目の合った女の子を呼んでもらった。「選ばれたという優越感、しかも実際にフロアーの中から選ばれた。それが女を気持ち良くさせる」と既婚の友人から教えてもらっていた。真偽のほどは不明ではあるが、記憶にない男からの指名に戸惑いながら「初めまして、ですよねえ?」と会話が自然に繋がるので、悪くはない方法だった。
ところがその日は違った。「初めまして」とはっきりと言い切ったのがユカだった。私の方が驚いていつもの状況を話すと、「変な小技を使わないで、次からはあたしを指名すればいいじゃないですか」と前置きしてから、記憶術が得意だと言った。記憶力が良いわけではなく、動物に置き換えて記憶している、だから「記憶術」らしい。何か問題を出せと言われ、思いつかずにいると、メールアドレスと電話番号を聞かれた。私が一度言うと、もう覚えたから、近いうちに連絡すると言われた。どのような動物に例えたのかを聞くと、彼女は企業秘密だと笑った。珍しいスタイルの接客だった。
そして翌日の今日、意外なことが二つあった。一つ目は近いうちに連絡が来たこと。彼女の顔と脚はこちらの記憶には残っていたが、私の顔が彼女の記憶に残っているとは思えなかった。私がどうして上客と映ったのだろうか。彼女の短い丈のスカートの前での無力さを見抜かれたのだろうか。そして二つ目が彼女の記憶術が本物だったこと。クラブでの新手の会話術かと思っていた。ひょっとしたら接客のプロかもしれない。
「ソノマとは。ワイン好きに響く偽名だな。時代に合ってる」そう友人にコメントされた。私には合っていなかった。「そういうすれ違いを操るのが女で、それに抗えないのが男だ」と友人は笑った。
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ある日、台風で早めに仕事を切り上げた日、酒を飲みたくなった。彼女にメールで今日の出勤を聞いたところ、返信が不思議だった。「今日は低気圧が来てるから、気分が良くないの。気圧が高いときにして」
真意が読めず、店に行くことにした。彼女は私の横に座りながら「嫌がらせ?」と不機嫌だった。クラブで仕事の話をして興味のない相槌をされるのには慣れていたが、彼女はあまりにも無口だった。台風でガラガラの店内の雰囲気にも押され、すぐに帰ることにした。
「楽しめた? だから言ったのよ、来るなって」帰りのエレベーターを待っているとそう言われた。返事に困っていると、彼女は突然しゃがみこんだ。私は太ももから視線を外そうとしていると、「ラッキーペニー」と銅色の小さなコインを拾い上げた。アメリカの一セント硬貨だった。「あなたのおかげ。いいことあるかも」と十円玉よりも小さなそのコインを手のひらに乗せ、運を逃さないようにか手のひらが赤くなるほどしっかりと握った。
家に着くよりも先に彼女からのメールが届いた。店が暇なのか、やけに長文だった。「今日はありがとう。でも自分の直感なんて信んじてはダメ」とはじまり、よく分からない水の鑑定士のエピソードが続いた。水の味は微かなもので、人間の体調の影響が大きい。人間の体調は日々、浮き沈みしている。だから水の鑑定士は一度で判断せず、日を改め、四季を変え昼夜を変え、コップや飲み方を変え、長いこと付き合ってから水の良し悪しを判断する。「何日も通って、やっと本質が見えてくるの。直感なんて何の価値もない」と締めくくられていた。不機嫌だったフォローだとは推測したが、意味不明だった。
友人は「足繁く店に来いってことだろ。回りくどい女だな。理系か?」と言っていた。「だいたい日本でアメリカの硬貨が落ちてるか? 不自然だろ。まあ策士ではあるが、可愛いところはある。騙されてやれよ。それが水商売の女との正しい付き合い方だ」
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「朝食ときましたか。判断が難しい」と友人は言った。「それにしても、珍しく一途だねえ。同じ店にもあまり行かない男が」私も自分でも意外だった。好みというよりも条件反射的に、いつもの店でいつもの女を指名していた。「男と女は、好みがどうとかよりも、惰性とも揶揄されるルーチンが大切だからな」
ある晴れた日、仕事の失敗を何とかリカバーできた祝杯として、彼女に会いに行った。
「いつもよりピッチが早い気がする」私は明日、休暇を取る予定だった。「なら安心ね」高気圧のおかげか、今日は上機嫌だった。話題は二日酔いから朝食に移った。彼女は変な朝食論を展開した。「ランチやディナーなら、それほど好意を持っていなくても付き合いで一緒に食べることもあるわけ。サラリーマンの懇親会みたいなものよ。でも朝食は違う。いきなり朝ごはんに誘ってくる人はいないけど、いても絶対に断る。朝から会いたい人はそういない」それから政治家が本当に重要な打合せは夜の料亭ではなく、自宅での朝食会でやるという話につながった。その与太話に感心したということは、私は十分に酒に酔ったということだった。
帰りのエレベーター前で、彼女はまたしゃがみ込みんだ。私は怪しみながらも、目は反射的に彼女の太ももを追った。彼女はそのまま顔だけを上げた。「ラッキーペニー」と手のひらを広げたが、そこには何もなかった。策士なのか無邪気なのか、どちらでも同じことだった。エレベーターを降りて駅に向かう中、艶かしい足の記憶が薄れはじめるとアルコールの眠気が濃くなってきた。
そして数日後に彼女から朝食への招待を受けた。「ラッキーペニーのお礼をしたい」とメールには書いてあった。私が迷ったのは一瞬だけだった。朝食のことを散々語られた後だったので嬉しい限りではあったが、私の彼女への興味は朝というよりも夜だった。幸いその日は出張で東京にはいなかった。仕事を変更するほどではなかった。
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「朝食の次は旅行か。判断が難しい」と友人は言った。
その日、世間の多くの人は夏休みだった。私も彼女も仕事だった。私は飲めないくせに暑気払いの一杯を求めた。高気圧のおかげか、彼女は上機嫌の日だった。朝食の件を詫びようとすると、ここではその話はするなと目で制された。私の苦笑いは、客が気を使っていることと、二人だけで共有した秘密への揶揄だった。
「こういう店って、夏休みは地方からの観光客で賑わうのよ」彼女はそう言いながら他のテーブルに移っていった。代わりに来た丸顔のユリでも、私は暑気払いを楽しんだ。そのとき、この店は基本的に「ユ」が名前についていることに気づいた。戻ってきた彼女にそれを言うと「気づくのが遅すぎる」と真顔で驚かれた。他の人には興味がないからと言って機嫌をとり、暑気払いを終えることにした。
来週の夏休みの予定を尋ねられたのは、帰りのエレベーター前だった。私はノープランとだけ答えた。
「だと思った。朝食がダメなら、旅行はどう? また連絡するね」と見送りは終わった。今日は私のラッキーペニーはなかった。
翌日、メールで綿密な旅行計画が送られてきた。彼女の言う旅行とは国内旅行、それも東京近郊の温泉宿だと想像していたが、行き先はイタリアのBローニャだった。「住所を教えて、全部やっておくから。お金のことも心配しないで、済ませておきます。ロミオとジュリエットの舞台、小さい頃からの憧れなの」私は断る状況にはなかったし、彼女はいつもの持論と同じで私の返事など求めていないようだった。
友人は「すごいな、商売女に貢いでもらうとは。一流のホストかヒモか、どっちかになれるよ」と笑った。「でもロミオとジュリエットって、結ばれない二人の話だからね。回りくどいメタファーかもな」
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出発の前日、彼女から電話があり、キャンセルが伝えられた。仕事が休めないらしい。残念ではあるが、どこか安堵もした。しかし私は旅行にいくらしい。
「折角の夏休みだし、一人で楽しんできなよ。チケットは明日、見送りに行きがてら渡すから」
私は混乱するしかなかった。結局、彼女のおごりでイタリア旅行に行くわけである。店に行って指名しているのは私の方で、それも足繁く通っているというほどではなく、収支から言えばマイナスだろう。
友人も当然に否定的だった。「行くべきではない。住所を聞かれたんでしょ? 典型的な空き巣の手口だよ、それは。海外旅行中にゆったりと盗みに入る」私の一人暮らしのアパートには、金目のものはクレジットカードぐらいで、それは当然、旅行に持っていく。通帳と印鑑は実家に置いてある。「いきなり帰ったら知らない奴が住んでて、鍵を変えられてるとか? そんな小説があった気がする」例え部屋を占拠されても、賃貸だから解約するだけだ。「目的が見えない。どす黒い巨悪とか、国家の陰謀とか?」
◆
成田空港に向かう私は半信半疑どころか、すべてを疑っていた。一泊分ほどの荷物とパスポートだけの軽装で、キャンセルの連絡が来るのを待ちながら在来線に揺られた。綺麗な脚の女は大抵が悪女で、だから私は騙される子羊側の人間だった。予定のない夏休みで、大して失うもののない私は、騙されることを肝試しやお化け屋敷のように考えていた。
私の感覚など全く当てにならない。彼女が言っていたように直感など信じるべきではなかった。彼女は空港の駅の改札口で待っていた。自分でも信じられないほど遠くで彼女を認識することができた。やはり私の求める彼女は朝ではないなと思いながら、手をあげた。
「荷物が少なくない?」高気圧のせいか、彼女は上機嫌だった。
男の一人旅、服がなければ買えばいいし、買えなければ着替えないまでだった。
「嫌味を言われても我慢しますよ、今日は」
長いエスカレーターを乗り継いで出発ロビーに向かいながら、チケットと旅程を渡された。添乗員と客という二人だった。店の外で会うのは初めてだった。ジーンズとTシャツの彼女は味気なかった。そのシンプルな身なりと整いすぎた眉毛とネイルは、芸能人でなければ水商売でしかありえなかった。
搭乗までには時間があったので、二人で並んで席に座った。
「久しぶりに広い空間にいる」
私は彼女に倣って見上げた。空港のロビーは天井が高かった。
「仕事を辞めるの。今日が最終日」
私には帰ってきても飲みに行く店がないことになる。
「別の店とか、別の女とか、いくらでもあるわよ」
そうだねと上を見たまま答えた。先日のユリを思い浮かべようとしたが失敗した。
「そこは否定すべきでしょ」
そうだねと上を見たまま答えた。
「帰ってきら、朝食でも一緒にどう? 和洋中、どれにする?」
和と答えた。
「かしこまりました」
朝の彼女はいつもの艶はなかったが、香水が薄い分、いい匂いがした。体に見とれない分、いい女に見えた。交わされた会話の雰囲気に反し、私はまだ騙されていないだけの男だった。何一つ疑問がクリアーになっていないまま、騙されにBローニャに向かうのである。
私は天井を見上げながら、ラッキペニーを拾っている彼女を思い浮かべながら、彼女の言っていたことを二つ思い出していた。「一度、同棲や居候をはじめると、もう戻れない。抜け出すには、別の誰かのところに転がり込むしかない。悪循環のはじまり。簡単に泊めてくれる人って、簡単に捨てるのよ」そしてもう一つ。「縦鍵はダメ、すぐに代えなよ。縦鍵のピッキングならあたしでもできるわよ」私は代えなくてもいい、特に取られるものはないと答えたはずである。
「独身なんだから、ありがたい限りだろ、帰ったら女が家にいるなんて」という友人の声が聞こえた。🅱
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