Bベッラ(ベン・ベッラ)
世の中には箸の下手な人が増えていた。そこには二つの理由があった。一つは日本人が下手になった。もう一つは外国人が使うようになった。日本の先行きを憂うべきか、箸文化の浸透を喜ぶべきか。いずれにしろ私は日本の未来を語る立場にはなかった。単なるアルバイト店員だった。ただし箸の扱いには自信があった。加えて言うなら、まだ政治家を目指していないだけのアルバイト店員だった。
私の働く空港内の寿司屋には、今日も朝から箸の下手な連中が押し寄せていた。もちろんときどきは例外もいて、その例外の一人が今ちょうど暖簾をくぐって入ってきた。男は私と同じ二十五歳であり、職業は政治家秘書。私は政治家の秘書という職業がどういったものかを知らないが、上司である政治家を先生と呼び、海外に出かける際に「鞄持ち」として付き添っているのを知っていた。その男とは、多いときは月に何度か顔を合わせるので、友達になっていた。
男はカウンターの端に座り、グラスビールを注文した。
「先生は?」私はいつもの調子で声をかけた。ラウンジでマッサージを受けているらしい。「束の間の解放ってやつですね」
私は友達になる前から、その男のことを知っていた。その政治家秘書の男は高校生時代、高校生の出るクイズ番組の決勝で私の通っていた高校と戦っていた。私はテレビでそれを見ていたので、男の顔と名前を覚えていたのである。二度目に店に来たときに、気軽に名前で呼びかけてみた。男は驚き、縦書きの名刺を渡して堅苦しい自己紹介をした。私がクイズ番組で見て覚えていたという話で謎解きをすると、人の顔と名前を記憶することは政治家にとっては素晴らしい才能だと言われた。「政治家を目指してるの?」と私が聞くと、男はイエスやノーの返事ではなく、日本の未来のことを語りはじめた。「立派なご意見で」と茶化したくなるような内容だったのだが、そうさせない迫力があった。説得力というやつだろうか。
政治家秘書が手を挙げたので注文かと近づいていくと、奥のテーブルに座っている南米系の人が誰だか知っているかと聞かれた。その座の中心にはラフな格好だが気品のある男が座っていた。知った顔だった。
「ペドロさん」そう私が教えても、政治家秘書はピンとこないようだった。「どこの誰だか、教えて差し上げましょうか?」ペドロには箸の使い方をレクチャーをしたこともあり、ときどきメディアでも目にしていた。
「南米じゃなくて、中米ね」と国名と元環境系の大臣という役職を教えた。自動車修理工場のアルバイトからの成り上がりで、車好きの親日家だとも付け加えた。
政治家秘書はおしぼりで顔を拭くと、緩んでいた顔を一旦引き締め、目尻を下げてそのテーブルに向かった。男は滑らかに頭を下げ、握手を交わし、英語ではない言語でやり取りをはじめた。恐らくスペイン語であろう。男は以前にはロシア語とタイ語を話していた。タイ人の友人がいて、大学でロシア語を選択していたらしいが、それだけの理由で話せるとは、素晴らしい言語力だった。相手とコミュニケーションを取りたいだけだと男が言っていたのは、謙遜としか聞こえなかった。
男は二、三分の立ち話の後、正式にテーブルに招待されたようで、ペドロの正面に座った。完全に溶け込んでいた。箸の上手な政治家秘書には感心するばかりだった。まだ鞄持ちではあったが、日本の未来は悪くないと思わせてくれた。
政治家秘書が合図をしたのでテーブルに向かうと、瓶ビールの追加注文の後に私を紹介した。「知っているよ。私の箸の先生だ」とペドロは英語で言い、不器用に箸を動かした。その後に政治家秘書が私について何かを続けて話していた。ペドロは大きく頷いて、何かに感心しているようだった。
「君も政治家を目指しているのか」私はノーと否定させないペドロの眼力に戸惑った。「そう言われてみると、Bベッラに似ている」
誰ですかと即座に返そうとして踏みとどまった。私以外の全員が感嘆の声で、納得していた。年長のペドロの言うことだから接待的に同意しているという雰囲気ではなかった。政治家秘書も頷いているので、中米ローカルな人物ではなく、世界的な偉人か誰かなのだろう。
「Bベッラ、アルジェリアの初代大統領だよ」とペドロが英語で解説してくれた。
顔や名前を記憶するのは得意だったが、それは興味がある対象として観察した結果であって、政治家には興味がなく、接点があるとしてもこの店だけだった。知らない人物の顔が分かるはずはなかった。私は苦笑いでビールを取りに戻った。
追加のビールを運ぶと、私もグラスを勧められた。政治家秘書が日本では仕事中の酒は認められていないと断ったが、「ここは日本の島の中ですが、空港内は日本ではない」とペドロが押し切り、私は一杯だけもらうことにした。アルバイトなので、例え叱られても気にもならなかった。
「素晴らしい若者と出会うことができて、私は嬉しい。今日を私たちのはじまりにしよう」ペドロの唱和でグラスを掲げた。聞き取りやすいクリアーに英語の、熱さのこもった乾杯だった。熱いことを言う大人に、熱いことを私に向けて言ってくる大人に初めて出会った。全員がグラスを空にしていた。私は軽く頭を下げて仕事に戻り、しばらく上の空だった。ゆっくり息を吐き、顔の火照りをうっちゃろうとしていた。グラス一杯で酔うはずはなかった。
私はこの乾杯で政治家を目指すことにした。顔と名前を記憶する能力を生かそうとしたわけではなく、ましてBベッラに似ていると言われてその気になったわけでもなかった。この人と仕事がしたい、この人のいる世界に入ってみたい、素直にそう思ったのだ。笑いたい奴は笑え、俺を信じる奴はついてこい。🅱
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