Bスト(ブカレスト)
足に何かを感じた。地面に固いものが当たるコツという音がした。何かが飛んできていて、足にそれが当たったのだ。またコツという音がした。足元から顔を上げると、老婆が次を振りかぶっていた。私と目が合うと、何かを怒鳴った。老婆は大きく目を見開いていた。言葉は解さずとも、あまり好ましくない感情を抱かれていることは容易に想像できた。後ろに誰か私以外に敵意の対象がいるのではないかと思ったが、老婆の視線は見紛うことなく私に向けられていた。老婆の罵声に、私は混乱した。パニックというほどではないが、むき出しの敵対心に応対できなかった。
老婆という単語から想像するように、ここは日本ではなかった。ここはルーマニアの首都である。ドラキュラのモデルとなった人物の像があるこの通りは、観光地であり、繁華街であり、明るい場所であり、加えて今は晴天の昼間だった。私はそこで老婆に固いパンを投げつけられた。私はもちろんその老婆とは初対面であり、半袖のシャツとジーンズの目立つとは言い難い格好をしていた。パンを投げつけられ罵られることに心当たりがなかった。老婆は背が低く、顔の彫は深く、色白だが日に焼けていて、完全な白髪は後ろで束ねていた。特に鼻は高く、鼻の頭ではなく眉間のあたりの高さが際立っていた。服はとにかく色あせていた。老婆は左利きで、投げつけられたものはパンだった。右手に持った透明のビニール袋は四十五リットル型でスーパーの袋よりは遥かに大きく、そこにいっぱいのパンが入っていた。あまりに大量で、遠目からではパンだとは思いつかない。それでも足元に転がっているそれは乾ききったパンである。老婆はパンを集めているらしい。日本のアルミ缶かビール瓶と同じセンスだと理解した。お金になるのか、自ら食すのか。とにかくそれが生活を支えている。それを投げてきたのだ。
老婆の鼻筋が通っていたことで、ある光景を思い出した。岡山の駅ビル、指輪のある男と指輪のない女、男はジャケットを着ているがタイはなしで休日と仕事の中間という身なりだった。女は化粧よりは仕事に精を出すタイプ、鼻筋が通っていることが、美人方面でなく取っつき難さ方面で目立っていた。耳には大きな金色のイアリングが下がっていた。単語だけではない文章になった二人の会話、ボストンバッグを各人が持っていること、京都や広島ではなく岡山、そんなことから不倫旅行であることが容易に想像された。男は五十後半、女は四十前半から半ばといいったところか。指輪を外す勇気はないが、紳士な体で女は求める男。立ち位置を気にしているふりの女。お盛んなことでと言いたくなる程度の二人だ。しかし女が乾杯のときに「今日は本当に楽しかった。どうもありがとう」そう笑顔でお礼を言ったのだ。そこは駅ビルのお好み焼屋で、手にしているのはハッピーアワーで半額の生ビールである。男が無口なためか、女は過度に明るく振舞っていた。すべての状況が冷静に感謝を伝える雰囲気ではなかった。私はその平穏に対して、幸せの悪さしか感じなかった。映画のシーンとしては最高だったが、日常としては最低だった。老婆にパンを投げつけられるのも、映画としては悪くはないが、日常では遠慮したかった。
パンを投げつけ罵倒するのは余程深い憎悪のはずなのだが、すぐに消えたようだった。老婆は私の方に寄ってくると、転がっている自ら投げたパンをしっかりと回収し、私が戸惑っている間に背中を向けて歩きはじめていた。パンを拾う間、私には見向きもしなかった。覚束ない足取りの老婆の体が左右に揺れているのを眺めながら、私は岡山で感じた底知れぬ悲哀を取り下げていた。今は高ぶっていないだけで、岡山の彼女も深く大きな思いがあったのかもしれない。覚束なくとも歩いていたのだ。たまたまそこを目撃しただけなのかもしれない。そして老婆はもう一度振り向いて私を罵り、また体を揺らして歩きはじめた。それにしても、私の何がそんなに気に入らないのだろうか。🅱
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