Bンカ(バランカ)

 私の人生は揺るぎあるものばかりだったようだ。早期退職と熟年離婚。ある日の夕食後、妻に早期退職の希望を切り出すと、翌日の朝食後に妻から熟年離婚の希望を切り出された。妻が抗わなかったように、私も抗わなかった。そして二つの重要な決定がなされた。仕事と家庭が消え去った。青春時代のバブルと同じように、あっという間に全てが過去になった。元妻が家具や電化製品とともに引っ越すと、私は家に存在する唯一の存在だった。仕事も家族生活も終わったのだが、終わりというよりもスタート気分になるはずだった。ところがスタートラインに立ってもすることがなかった。撃鉄が落ちても、パンという音が聞こえなかった。それでもそのありがちな虚無感はそれなりに想定していた。

 仕事がなくなり、家庭の用事もなくなったので、昼間の予定は皆無だった。夕方になると、仕事をしていたときと同じ気分で酒場に繰り出した。肉体的疲労も、精神的疲弊もなかったが、一杯目の一口目は最高だった。翌日を心配する必要がなかったので、自宅に戻ってからも、二次会気分で広々とした居間の真ん中に座った。私は酒を傾けながら、パンと柏手を打ち、その反響音を楽しんだ。家具など物が全くない居間では、単調な音は反射して戻ってきた。それはまるで京都の天井の龍のように、ビリビリと空気を震わせて戻ってくるのである。そのコール・アンド・レスポンスが私の新生活への第一歩だった。

 私は無職の酒浸りの男になったのだが、二か月で体が酒を拒否した。曜日感覚がなくなり、日にち感覚がなくなり、水曜日か七の倍数かと決めていた休肝日を忘れていた。酒すらも昨日のことになってしまった。仕方がないので、健康的になることにした。健康に気を使っている人、それは会社員時代に最も嫌っていた人種だったのだが、仕事を辞めた今なら色々な面から受け入れることができそうだった。我を通す相手もいなかった。

 健康朝食計画、パソコンがないので頭の中で企画書を作り、上司がいないので勝手に承認し、部下も仲間もいないので一人で実行に移した。サラダと味噌汁と白飯の朝食を作るために、炊飯器だけでなく、鍋や包丁まで買い揃えた。

 ひと月ほどで健康を取り戻すことができた。二か月酒浸り、一か月の禁酒と健康朝食、今後はこのサイクルを繰り返しても良かったのだが、長い会社員生活の反動か繰り返しを良しとはできなかった。

 しかし自然と二巡目はスタートしていた。それでも健康志向のマインドが植え付けられたせいか、元々の適性か、ウーロンハイを好むようになった。緑茶ハイやウコン茶ハイは味も体質も合わなかったので、単に相性がいいのだろう。仕事や家庭や健康、全てを失った末にたどり着いたウーロンハイ、私のルーツはそこにあると確信した。毎日、ウーロンハイを飲みながら、ウーロンハイの向こうに揺るぎないものを探した。色の向こう、匂いの向こう、味の向こう、音の向こう、そして酔いの向こう。私はスタート地点で立ち尽くしていて、今にも座り込んでこのレースを放棄してしまいそうではありながら、とにかく残りの人生は確かな足元にしたかった。私は揺るぎないものを探していた。頭に衝撃が走る撃鉄、それさえあれば勝手に走り出すはずだった。継続は力なりと、健康朝食とウーロンハイの毎日を続けた。

 結果を出したのは、やはりウーロンハイだった。私がウーロンハイからペルーという答えを出したのは、健康朝食とウーロンハイをはじめて三か月がすぎたころだった。それはガランとした部屋での柏手の後の静寂に耐え切れず、白蛇を顧みなかった深夜のことだった。ふと思い立って柏手を打ってみたときのように、私はふと思い立って口笛を吹いてみた。柏手の反響音が返ってきたように、口笛が響いた後に何かが降臨してきた。口笛が空気を振動し終えると、頭の中にダイレクトに何かが戻ってきた。それがアンデス音楽だった。アンデス音楽は口笛と同じレベルで音数が少ないが、どこまでも深かった。私はアンデス音楽に何の思い出もなかったが、ど真ん中で琴線に触れた。人生で初めて、琴線に触れたという表現がしっくりきた。音が遺伝子に直接響いてきた。アンデスの故郷であるペルーはまだ馴染みがないだけの故郷だった。ペルーとウーロンハイの相性は抜群だった。

 空想する時間はいくらでもあった。ペルーの乾燥した空気、定番の干し肉をかじってみる。それはビーフジャーキーと呼ぶにはあまりにパンチが強く、固さも塩辛さも存在感抜群だった。旨味と塩分を弱った都会人の顎でなんとか説き伏せた。それがビーフであるのか、しかも干し肉という文化がポピュラーなのか、その前に空気が乾燥しているのか、私にはペルーの情報がなかった。全てはアンデス音楽からの想像だった。我が家からはインターネット環境がなくなっていたので、手軽に調べる手段もなかった。毎日、ウーロンハイを片手にペルーを想像するだけだった。柏手の反響音だけが調子良く震えた。

 ウーロンハイと妄想ペルーの日々を二か月続けると、ペルーに旅に出るという発想にたどり着いた。妻とは定年退職したら世界一周の船旅に出ようと約束をしていたことを思い出したが、懐かしい気持ちになっただけだった。柏手を打つと、それが撃鉄の音に聞こえた。

 翌日の昼間に旅行会社に行き、南米のパンフレットを手に入れた。期待外れだった。ペルー旅行はマチュピチュ一色だった。マチュピチュは私の考えるアンデスとは違っていた。翌日は図書館に行き、ペルーの本を三冊読んできたのだが、やはりインカの遺跡関連の情報だけだった。悠久の遺跡にロマンを感じるほど充実した人生ではなかった。情報は欲しかったが、無職なのでネットカフェに行く勇気はなかった。全てを失ってもなおプライドが邪魔をすることがあるとは意外だった。数日して、半端な情報を集めるぐらいなら直接、現地に行ってしまおうと思い至った。思考のペースが遅いのを笑えるようになっていた。そして更に二日を過ごしてから、旅行なんて半端なことを言わず移住しようと考えた瞬間、私はアンデスに導かれていると確信した。ペルーへの旅行ではなく移住であれば、心当たりがあった。ペルーは全く知らない国ではなかったのだ。新しいスタートを考えるばかりで、昔のことを忘れていた。全てを失ったせいで、過去を故意に避けていたのかもしれない。

 ペルーで移住といえば絶対にBンカだった。小学生時代、その町から引っ越してきたという転校生がいたのだ。入ってきたのが六年生の秋で、日本に不慣れなその転校生を、当時学級委員だった私は何かと世話をした。その友人からは、現地の言葉ではアホがニンニクで、バカが牛だということを教わった。小学生には最高の豆知識だった。アホだバカだと言い合う中で、私たちは仲良くなった。彼はペルーのBンカから来たと言っていたのを鮮明に覚えている。日本に住めなくなった祖父が海を渡って中古車屋をはじめ、ほとぼりが冷めたので戻ってくることにしたらしい。ほとぼりという言葉を初めて知り、肝心の住めなくなった理由は教えてもらえなかったことも思い出した。

 人生とはつながるものである。ウーロンハイがBンカとは。🅱

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