Bリン(ベルリン)

「本物?」

 一センチぐらいのコンクリートの破片が二山に積まれていた。そこにはドイツ語でBリンの壁と書かれていた。単なるコンクリートの破片にしか見えなかったが、本物でも単なるコンクリートの破片にしか見えないはずだ。日本だったらそのまま立ち去っていただろうが、外国では一言声をかけるのがマナーだろう。だから本物かどうかをドイツ語で尋ねた。露天商の男は色あせた紙を二枚差し出してきた。それは成分表だった。一枚がBリンの壁のもの、もう一枚がこの破片のもの、それで同じだと言いたいらしい。証明の方向性が間違っているが、彼の誇らしげな顔に反論はしなかった。

「買う人、いるの?」

 それはあなた次第だと言われた。気の利いた返答だった。壁の上に乗った民衆がツルハシを振り下ろすシーンが頭に浮かんだ。遠い東の果ての日本人ですら記憶している歴史的な破片というわけだ。

「では二つもらうよ」

 ロシア語の新聞紙に雑に包んで渡されたコンクリートの破片が、本物である確率は限りなくゼロに近かった。しかしどこか信じる気になっている自分がいた。それは交わした言葉がドイツ語だったからだ。今ほどドイツ語を理解できて良かったと思った瞬間はなかった。モスクワでドイツ語を話す人間に悪い人間はいない。例えこの壁が偽物であっても、騙されたとは感じない。そもそも露天商とはそういうものだ。私はガマの油の話を思い出していた。


 壁屋は、翌日もそこで店を開いていた。店主が若い女に変わっていた。

「売れてる?」

 私にドイツ語で話しかけられたことで意外そうな顔をした後、それはあなた次第だと言われた。これがこの店の定型文らしい。

「それは昨日も言われた」

 言い訳をする男は女にもてないと返された。

「では二つもらうことにしよう」と私は変な意地を張った。しかし私がたった二つしか買わないからか、彼女は嬉しそうな顔をしないどころか、少し首を傾げて怪訝な顔をした。あまり愛想の良くないこの土地でも、際立った接客態度の悪さだ。それでもこの破片を買うのは四つまでだ。私は金をポケットから出しながら、四つの破片をどうしようかと思案をはじめた。モスクワ土産にBリンの壁、見た目は普通のコンクリート片、どうにもなりそうになかった。ホテルに置き去りにする案が浮上した。

「昨日の男は?」

 ここは彼女の店で、昨日いた男は昼食時の店番らしい。

「実は昨日も二つ、買ったんだよ」

 彼女は激怒した。それは私に向けられているわけではなさそうだったので、彼女の眉間に寄った皺をほほえましく眺めていた。若者らしいボキャブラリーの貧困な罵詈雑言の後、大きく深呼吸をして私に笑顔を向けた。感情を平常時に戻したようだ。男には一個も売れなかったと言われたらしい。あなたにも悪いことをしたと謝られた。あなたも騙されないように注意した方がいいとアドバイスをくれた。

「モスクワでドイツ語を話す人間に悪い人間はいないはずだったんだけど」私はそう慰めた。彼女もそう思って男に店を任せた。それがこの有様、授業料だと思うしかないとまた眉間に皺を寄せた。

「ずっとこれを売っているの?」

 昔は隕石を売っていたが、成分が違うと訴えられ、商売を取り上げられた。それで今は成分表を持ってベルリンの壁を売っている。

「隕石? 月の石ではなくて?」露天商なら偽物の月の石の方が合っていた。月の石がどこで手に入るのかと怪訝な顔で言われた。

「隕石だって手に入らないだろうに」

 この国ではあちこちに隕石が落ちている。郊外に車を走らせれば、どこまでも続く平原があり、そこを四駆車で走りながら不自然な地形を探せばそれが隕石の落下した際にできたクレーターであり、そのクレーターの真ん中には隕石がある。

「私は見たことがない」

 興味を持つかどうかで、見つけられるかどうかが決まると彼女は誇らしげだった。彼女は石が好きだと言う。鉱物学の学位を取るのが目標らしい。どんな石なら売れるだろうかと相談された。

「どんな石に興味があるの?」と質問に質問で返してしまった。

 水に入れると薄青く光る石、ブラジルの奥地で採れるらしい。でも飛行機に乗れないから取りに行けない。それが放射能によるチェレンコフ光ならこの国にもありそうな気もした。

「病気なの?」

 体の丈夫さだけが取り柄だと、彼女は細い腕の力こぶを見せた。石は重いから、飛行機の重量制限に引っ掛かる。石を扱いたい彼女はユーラシア大陸からは出ることができない。変な現実感を持っていた。

 話しているうちに昼を過ぎていた。彼女の昼食の間、私が店番をすることになった。私を信用してくれるのは有難いが、彼女の将来が心配になった。私の反論を待たずに彼女は早足で出かけて行った。私は彼女に変わって山の反対側に座った。

 五分ほどすると、若い男がやってきた。西のやつか東のやつかと英語で聞かれた。私が戸惑っていると、偽物めと冷笑された。彼女に代わっての店番としての仕事はそれだけだった。彼女は三十分ほどで戻ってきた。

「残念ながら売れなかった」と伝えると、彼女は疑うこともせずに残念さを顔に出し、若い女にだけ許されるような大げさなため息をついた。まだ売れてないだけの石、彼女はそう呟いてから、コンクリート片をスーツケースに入れはじめた。もう店じまいにするようだ。今日は波が良くないからと帰っていくサーファーのようだった。

 コンクリート片はスーツケースに満杯になっていた。彼女には持ち上げることができないほどの重さだろう。それでも壊れないスーツケースは、さすがドイツ製と言わざるを得ない。よく見ると、彼女は二つの山を別々のスーツケースに入れていた。

「まさか東と西で分けてるの?」

 彼女は呆れた顔で、手を動かしながら、壁について説明をはじめた。東の壁と西の壁、壁は二枚あった。その二枚の壁の間にどちらでもない空白の空間が存在していた。壁の物理的な断絶よりも、その二枚の壁の間にある空白による断絶が絶望的だった。その絶望を埋めるために、二つをセットで売っている。私は無知のビギナーズラックで、偶然にも二つずつを購入していたのだ。気にもとめていなかったが、恐らく両方の山から一つずつ渡されたのだろう。先ほどの彼女の怪訝な顔は、二つしか買わないことに不満を感じていた訳ではなかった。やはりモスクワでドイツ語を話す人に悪い人はいなかった。自分の無知を彼女の無愛想に転化したことを密かに詫びた。私は壁が二枚あったことすら知らなかった。記憶の中にあるツルハシを振り下ろすシーンがどちらの壁なのかも分からなかった。その記憶の中のシーンですら、今は崩壊当時のニュース映像ではなく、後日のカップ麺のコマーシャルのパロディーで、華奢な有名俳優がツルハシを振り上げてよろけていた。

「似たような話が日本にもあるよ」と私は自分のミスを取り繕おうと、日本の寿司の話をした。軍艦巻きを説明し、海苔を説明し、酢飯を説明し、最後にウニを説明し、最後の最後にオスとメスを一つずつ載せる話をした。話し終えると、彼女は壁を詰め終え、スーツケースに腰掛けていた。

「退屈させてしまったね」

 そんなことはないと首を振ってから、柔らかいものには興味がないと笑った。その後、派手な色合いには興味があると、取ってつけたようにフォローした。

「これから実物を見に行こう。貴重な体験をさせてもらったお礼に寿司をご馳走させてくれないか」幸いに、モスクワには日本食屋が溢れていた。

 彼女は信じられないという顔をした。私はちょっとしてから、彼女がランチを食べたばかりだったことに気づいた。

「まさかディナーまで断りはしないよね?」

 私たちはドイツ語でディナーでの再会を約束して別れた。🅱

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