Bレス(ブエノスアイレス)

 一番遠くまでのチケットを買い求めました。気取るつもりなどなく、本心から遠くに行きたくて、旅行社の人に一番遠くまでと伝えると、勧めてくれたのは地球の真裏のブラジルではなく、その少し先のアルゼンチンでした。社交ダンスが趣味の私には、そのタンゴの町は魅惑的でした。「きれいな空気」という意味の町の名前も気に入りました。


 エセイサ空港に向かう機内の空気は秋のようで落ち着きません。感情を顔に出さないことや周囲の状況を把握することには慣れているので平然としていますが、飛行機に初めて乗った白髪の男、それが私です。

 春の空気は膨張していき、自分も膨張していきます。自分の感覚が広がっていき、周りの空気を体全体で感じることができます。だから春は実感しやすいのです。夏の空気は濃く、いつまでもそこにとどまります。だから夏は実感しやすいのです。冬の空気もまた濃くとどまり、実感しやすいのですが、秋は対処に困ります。空気の中にいても接点が持てず、実感がなく、他人事なのです。孤独と不安です。空っ風という言葉が的を射ています。

 新しい一歩を踏み出すとすれば秋だろうと常々思っていました。人は孤独とは折り合いをつけられますが、不安とは折り合いをつけられないのです。

 機内の秋の空気は旅立ち気分を盛り上げてくれています。

「犯人は執事である」誰かがそう言いました。探偵小説の世界が現実になったのです。そして私は執事だったのです。

 事件が起きたのは夏のことでした。屋敷で飼っていた犬が泡を吹いて倒れたのです。そのまま死んでしまいました。獣医の所見では熱中症の一種だろうという判断だったのですが、家の人たちは毒殺ではないかと疑っていました。泡を吹いたとき目は見開いたままだったのですが、確かにその目の奥からは熱中症よりは毒殺を想像したくもなります。そして疑われたのが執事です。屋敷中で最もひっそりと行動することに長けているのは、執事でした。


 犬が吠えているのが聞こえました。そちらを向くと、中学生になるお嬢様が私に携帯電話のカメラを向けていました。

「やっぱりあなたが犯人よ」そう無邪気に言われました。ご存知でしょうか、犬アプリというものを。顔を撮影すると、顔のわずかな色の変化から血流を予測して、そこから体の反応を見ることができるハイテクです。嘘発見器のように、体に変化や異変があると、機械の犬が吠える仕組みです。顔に出さないことが仕事の私も血流までは操れません。動揺の連鎖に、犬は吠え続けました。

 私は犬と相性が悪いのです、本物でもアプリでも。泡を吹いて死んだ犬も、いつも私に向かって吠えていました。

 表舞台に出ることのない執事は匂いに敏感です。匂いは距離や時間を超えてしまいますので、特に注意をしています。匂いがプラスでもマイナスでも好ましくないので、日頃から薄くコロンをつけています。もう何十年も同じコロンを。そうしますと、コロンの中の揮発しない成分が体に蓄積されていくのです。揮発しない成分は総じて苦み成分で、尖った匂いなのです。うっすらですが、犬にはその苦さが分かるようで、犬は良く私に吠えていました。


 秋になって新しい子犬がやってきました。相変わらず私は犬とは合わないようでしたが、お嬢様はそれを笑ってくれていました。

 そんなとき私の昔の写真が出てきました。家族写真の端にうっかり写ってしまっていたのです。主の写真に入ってしまう愚行よりも、人の目を引くものが写っていたのです。その若かりし私はとにかく太っていました。自分で見ても全くの別人に見えます。特に痩せたことで目が大きくなっていました。

「芸能人でもないのに整形なんて怪しい」お年頃のお嬢様の無邪気さには、老人は歯が立ちません。執事は再び闇を探られるようになりました。まだ悪事が露見していないだけの男では、執事は務まりません。私は自然とお暇を頂くことになりました。季節が秋だったのが幸いでした。躊躇はありませんでした。

 執事とは前時代的です。企業であれば退職しているはずのこの年齢まで勤めることができ、退職金までいただけた私は恵まれていたと言えるのでしょう。

 記憶の限り、レストラン以外で給仕される側になったのは初めてです。飛行機は乗客を目的地に運ぶだけでなく、機内でもてなすものだと初めて知りました。ある種の同業者なのです。執事は時代遅れの職業ではないようです。これだけの大勢の人、それも多様にわがままな人を相手にしている乗務員には感心するばかりです。

 執事には犯罪者に適した素質があります。それは気配を消して目立たないことです。飛行機の乗務員にはそれがありません。存在は積極的で、笑顔は印象的ですらあります。表情や振舞は表舞台の人のものです。記念写真に入ることが許されている側なのです。「犯人は客室乗務員である」とは誰にも言われないはずです。まだ吠えていない犬を気にするのは執事だけです。🅱

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