Bラバ(ブラチスラバ)

 私の乗った飛行機はブラチスラバ空港を飛び立った。明日、女と映画に行く約束だったのだが、その約束は守ることができなかった。そもそも初めから、まだ破っていないだけの約束だった。私は眼下に遠ざかって行く町を眺めながら、彼女の不機嫌な顔が解けていくのを待った。

 一か月を過ごしたスロバキアの首都、最後の日である今日をどう迎えるかを迷った。永井荷風の本の中にパリでの最終日のシーンがあったのを思い出したが、内容までは思い出せなかった。また記憶の壁が立ちはだかった。私は四十二歳になると、記憶が当てにならなくなった。それは何らかの病気ではなく、老化による「名前が思い出せない」だとか「どこに置いたか忘れた」というありきたりの現象であった。数年前からの肉体的な衰えは笑って話のネタにもできたのだが、頭脳面の衰えには自嘲すらできなかった。私は誰にでも訪れるその衰えに耐えきれず、逃げるように旅に出た。しかし仕事を休むにも一か月が限界で、今日の便で日本に戻る。

 私は町を歩くことにした。旅に出ても何も好転してはいないものの、思い出せないことを諦めることができるようになっていた。ここはパリではないし、永井にもそれほどの思い入れはなかった。

 私はホテルを出ると、厚い雲に感謝して歩きはじめた。この町には曇り空がよく似合っていた。とにかく歩いて気持ちの良い町なのである。私は立ち止まると、淡い色をした壁の建物を見上げた。これぞヨーロッパというような古い建物は、装飾があるわけでもなかったが、つい眺めていたくなる淡いピンク色の壁だった。路上に前衛的な銅像が置いてあった。三角や四角や丸がバランス悪そうでもバランスが取れているようなその銅像は、何をモチーフにしたのかも、何を表現しているのかも分からなかった。学者の私には芸術的センスはなかった。それでも町のあちこちにある適度に枯れた黒と金の芸術品を見ていると豊かな気持ちになることができた。

 小道を上っていくと、次々と小道が続いて行く。大きな通りに突き当たると、私はまた小道を探した。マンホールの蓋についている東西南北の表示でどちらに進んでいるのかを確認した。行くあてはなかったので、方角どうこうよりも上る方面を選択して進んだ。坂は下るより上る方が好みだった。小道を歩いている一歩一歩が、上がりはじめている一息一息が、瞬きの一つ一つが、心地良かった。この町に住みたいとつくづく感じさせてくれる。ときどき立ち止まると、振り返って小道を見下ろし、顔を上げて建物の間の空を見上げた。この町では、体力の衰えは軽い息苦しさにすぎなかった。

 喉の渇きでカフェを探そうと大通りを歩きはじめると、十人ほどの列ができていた。私はとりあえず最後尾に並んでみた。先日は行列に並んで上質なレストランを見つけることができた。周囲の人たちが話しているところでは、映画のようだった。タイトルもジャンルも分からなかったが、地元の映画というのも悪くはない。並んでいるのが年配者や若者だから、アニメということもないだろう。私は映画を見ることにして列が進むのを待った。列の先を見ると、入口で何かのカードを見せていた。私の順番が来たので、カードがないとこの国の言葉で言うと、後ろの老婦人がすっとカードを出して、連れだと言った。どうやら会員制の映画館らしい。私はお金を払い、もぎられて入場すると、その老婦人はすでにどこかに行ってしまっていた。この適度な人と人との距離感が素晴らしかった。この距離感は、それほど多くない人口のせいなのか、西の国と東の国の間に位置する地理的な状況のせいなのか、悲運な国の国民性のせいなのか。とにかく日本人には合うし、私のように人生に疲れている人間には特に染み渡った。

 建物の中は単なるホールで、私の想像した映画館ではなかった。しかしスクリーンがあり、映画はすでにはじまっていた。入口の手際が悪いので、並んだ列の進みが遅かったせいだろう。ところが誰も慌てることなく、皆ゆっくりと席を選んでいた。ロシア映画で、チェコ語の吹き替えであることは分かった。私はその映画を知っていた。既視感ではなく、確実に見たことがあった。しかしタイトルは思い出せなかった。またかと思いながら、私は飲み物を買いにスクリーンに背を向けた。


 映画を見ていると突然にスクリーンが黒くなった。テロだ、そう直感した。その場に伏せるか、避難するか、とりあえず頭を低くした。匂いや音を手掛かりにしようとしたが、両方ともポップコーンのものだった。横の女の子が立ち上がった。そしてスクリーンに向かってジュースカップを投げつけた。テロリストにそんな態度を取るのか。恐る恐るスクリーンの方を見たが、敵はいなかった。そこで客席の電気がついた。

 彼女は大げさに不機嫌な顔をし、再び椅子に腰かけた。座って落ち着くと、次は首をあちこちに向けながら、周囲に座っている人に一方的に何かを話した。私にも何か言ってきたが返事はできなかったし、返事は必要なかった。その女の子は高校生ぐらいで、大理石彫刻で見たことがあるような美しい鼻と目元だった。日本人の私のセンスからするといささかオーバーウエイトだったが、それが若者特有の瑞々しさでもあった。明らかに彼女はこの状況に慣れていた。彼女だけでなく、誰も慌てていなかった。テロではなく、そこそこ日常的な停電というアクシデントなのだろう。

 ジュースを投げた彼女は横の同年代の男にポップコーンを一粒ずつ放っていた。男は困っていた。デート中だろう二人、男はこれからご機嫌をとらないといけないから大変だ。私は青い二人を微笑ましく見ていた。館内放送は早口で聞き取れなかったが、皆が立ち上がっていたので、上映が中止になったことは分かった。電気は復旧しても、映写機は復旧できなかったということか。皆、文句を言いながらも素直に外に出ていくようだった。例の彼女に促され、私も席を立ち、出口に向かった。映画館の出口で入場料を払い戻しされた。映画館を出て、私はどちらに歩き出そうかと迷ってしまった。ランチまではまだ時間があった。ふと見ると、横に座っていた高校生カップルが映画館を出てすぐのところでもめていた。男が大きな声で同じフレーズを繰り返していた。反撃しているようだった。男がしゃべりを休めると、女はポップコーンをカップごとまとめて投げつけた。その刹那、女が男の腿を蹴りつけた。右、左と二回、鈍い音が響いた。男が崩れ落ちるのをこらえていると、今度は腹を拳で突き上げた。男の体はくの字に折れ、地面に転がった。すぐに立ち上がったのは、男としての意地だろう。涙をこらえている目で彼女をちらり視界に入れただけで、正視することはなく、中指を立てて去って行った。

 格闘技経験のない私が見ても、彼女に格闘技経験があることが分かる、そんな美しいフォームだった。ローキックにボディーブロー、オーバーウエイトは伊達ではなかった。勝者は敗者を振り返りもせず、スクリーンにジュースを投げつけたときと同じように、一瞬だけ不機嫌な顔をした。苛立っている若者は健全だ。私は傍観者だったので彼女がこちらを向いていることに気づかなかった。目が合ってしまった。ブラボーと口だけ動かした。

「そのお金、ポケットに戻す前に、わたしに預けない?」

 女はいつの間にか目の前にいた。所作がスムーズなのだろう。私はまだ手にお札を握ったままだった。強盗には素直に従うべきだし、彼女になら渡してあげても構わなかった。いいシーンを見せてもらったお礼だ。どうせ日本円に戻しても大した金額にはならない。私は気持ちよく彼女にお金を差し出した。

「着いてきて。ランチには早いけど、いい店を知っているの」

 まだ名前を教えてもらっていない彼女が話していたのは、英語だった。私は彼女について歩き出し、彼女の真似をしてスムーズに体を運んで横に並んだ。

「地下に降りる階段、バーとだけ書かれた店、目をしかめたくなるほどタバコの煙が充満している。店の奥には、アップライトのピアノがあって、そのピアノの前には、背中を丸めた太った黒人が座っている。男は丸々とした指で柔らかく音を出すのよ」開始十五分ほどで突如終了した映画の冒頭のシーンを彼女が説明した。私も見たことがあり、良いシーンだと言うと、彼女は自分が褒められたように照れた。

「お気に入りの映画なの。何度も見ていて、全部覚えてるの」


 彼女の言ういい店とは、私が泊まっているホテルのレストランだった。私も気に入っていたが、ここに泊まっていて何度も来ていると伝えるのは野暮だった。彼女はお気に入りの席があるようで、そこが空いていないので迷っていた。私が自分のお気に入りの席を指した。一瞬だけ不機嫌な顔をして、その席に座った。

「演奏が終わると、女が寄ってくるのよね。それが恋人。あの恋人の名前、覚えてる?」

 印象的なシーンだった。演奏を終えた男に寄ってくる恋人は小柄なアジア人だった。名前が出てこない、また記憶の壁だった。最近では、名前は半分ぐらいが思い出せなかった。私がため息を堪えていると催促された。

「あの恋人の金髪の女性の名前、覚えてる?」

 彼女の言う金髪女性は、私の記憶の中ではアジア系の黒髪だった。思い出せないだけでなく、記憶違いまであるのか。目の前に彼女がいなかったら、目を閉じでしまいたい気分だった。私はそのシーンを覚えていないとだけ答えた。

「あのグラマーな娼婦を覚えていないなんて、信じられない。私が男なら、彼女がベストよ。彼女の役名と私の名前が一緒なの」

 私が絶対に思い出すからと間を取ったところで、タイミングよく注文していた紅茶が運ばれてきた。

「あの映画と同じぐらい最高よ、ここの紅茶は」

 彼女の興味は紅茶に移ってくれた。しかも紅茶は静かに飲むと決めているようで、ゆったりとしたティータイムを楽しんでいた。私も紅茶を楽しんだ。映画に紅茶、お気に入りのデートコースといったところか。

「猫は二匹までと決めている」と彼女は黒人ピアニストの口調を真似た。

 幸いに、そのセリフは記憶にあった。ピアニストと恋人が二人で歩いていて、女が捨て猫に気づくのだ。箱の中には猫が三匹いる。「猫は二匹までと決めている。選べないなら、置いていけ」黒人のごもごもした聞き取りにくいのに低音で良く響く声は楽器のようだった。彼女の手から猫が逃げ、彼女は猫を追わずに男に寄り添う。もう猫のことは忘れたという顔だ。

「何の話をしてるわけ? からかわれるのって、大嫌い」

 また記憶の相違があるようだった。何しろ、彼女の中での登場人物は金髪のグラマーなのだから。

「退屈させてる? 映画マニアには付き合いきれないって顔よ。帰る」彼女は店を出て行った。私は引き留めなかった。立ち上がって振り返る所作の滑らかさに見ほれ、後ろ姿を眺めながら衝動を行動に移す決断力に感心していた。私にローキックをしないだけの分別を持っていてくれて助かった。彼女の真似をして一瞬だけ不機嫌な顔をしてみたが、様になっているとは思えなかった。支払いは部屋に回してもらった。夜遅くのフライトなので、夜まで部屋を取っていたのだ。

 一旦、部屋に戻ろうかとも考えたが、この町の素晴らしさをできるだけ体感しておきたかったので、森に行くことにした。町外れにある森が最高だった。何しろ今日で旅が終わるのだ。その前に帰国に向けてメールを送っておこうと考えたが、パソコンを開こうとしてやめた。帰国する旨を伝えるだけのメールの文章が、頭に浮かんで来なかったのだ。私は文筆家ではなかったが、論文や授業やスピーチ、そしてネットやメールの文面など、疲れていても酔っていてもスラスラと文章が出てきて、困ったことは一度もなかった。ついに河を渡ったかと、自分に呆れるしかなかった。こんなところに境界があるとは、思いもしなかった。それでも日本に戻ると、また働かなくてはいけなかった。私は大した学者ではなく、トップランナーではなかったが、先頭集団にはいた。一度聞いたことは忘れることがなかったし、その頭の中にある雑多で曖昧な情報の山から本質を見つけることが得意だった。だからこそ成り立つ仕事だった。定年までどころか、定年後も続ける心算だった。

 歩く気分が失せていたので、町外れまでタクシーに乗ろうか迷いながらホテルのエントランスを出ると、彼女が待っていた。

「遅い」とファイティングポーズを取り、私の顔がこわばるとスッと力を抜いた。そして文句を言い足りないという顔をした。「男が女を追いかけないでどうするの?」と言われ、私は素直に謝った。軽くローキックを蹴ってくれれば良かったのにと思った瞬間、彼女のローキックが私の足のところで止まっていた。体は反応できずに顔だけでリアクションをすると「遅い」とまた言われた。

「何で猫が三匹も出てくるの? 一匹でしょ、猫は。間違えてほしくないの。だって、大事な大事な出会いのシーンよ、二人の」」彼女は勢いで席を立ったものの、映画の話を続けたかったのだ。若者の情熱には勝てない。彼女はそのシーンを一人で再現しはじめた。

「あたしのボロアパートでは飼えないの。あなたの家はどう?」と女声で鼻にかけて。「ボロさ加減は負ける気がしない。しかし猫は二匹までと決めている。残念だがすでに一匹は家にいる」と男声で喉の奥から絞り出して。「ちょうど良かった。あなたに任せてもいい?」と女声で。「ちょうど良くない。お前はどうするんだ?」と男声で。「あたしはいつものボロアパートよ。ナナを連れて帰って」と女声で。「ルール変更だ」と男声で。

 彼女が言うには、それから二人は一緒に暮らしはじめるらしい。私は曖昧な返事をしつつ、「ナナ」という名前が分かって気分が良くなっていた。余裕の出た私は反撃の意地悪がしたくて、恋人がアジア系の黒髪である気がすると伝えた。彼女は不機嫌な顔をしたが、すぐにそれが消え、勝ち誇ったような笑顔になった。

「明日、決着をつけましょう。同じ時間に同じ席で、逃げないでよ」そう言って彼女は立ち去った。私は彼女の名前を呼んで振り返らせてから、また明日とこの国の言葉で叫んだ。🅱

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