Bホア(ビエンホア)
「氷を入れてもらっていいですか?」日系の航空会社で、名札にSUZUKIと間違いようのない日本人の名前が書いてあったのだが、意思疎通までに間があった。怪訝とは言わずとも不思議そうな顔をされながらも、何とかビールのプラカップに氷を二つ浮かべてもらうことができた。
私は氷の入ったビールを傾けた。鈴木さんでなくとも「ビールに氷ですか?」と思いたくもなるだろうが、タンソンニャット空港を飛び立ったばかりなのだから、まだベトナムスタイルでいたかった。
◆
Bホアという街がある。大きな河のある街。その河沿いに飛行機の滑走路があった街。ネット検索でもほとんどヒットしない街。ベトナム戦争時にアメリカ軍基地があったその街は、ハリウッド映画にときどき登場する。例えば負傷して帰国するシーンで、例えば麻薬の密輸のシーンで、暑そうな暖色系の色合いで、砂埃のなか軍用機が発着している。映画を見た誰の記憶にも残っていないであろう、誰の目にもとまっていないであろう、そんなシーンの舞台となった街。アメリカの歴史的に見れば、そこそこの要所ではあるが、そこそこである。私はいま、そこに向かう電車を待っている。日本円で数十円の切符を持って、ホーチミン駅でボーディング待ち。風の通り抜けない駅舎は、日陰であることを忘れてしまう。
ベトナムでは、観光客は電車には乗らないらしい。ホテルでコンシェルジュにBホアへの行き方を尋ねると、車を手配すると言われた。大切な場所を訪ねるのに、車で乗りつける野暮はできない。電車に乗りたいと言うと、タクシーの便利さ、安さ、快適さを丁寧に説明された。電車に乗りたい、私は電車が好きなのだと伝えた。特に好きでもなかったが、私は電車が好きだと繰り返した。他人と意見が対立したときに一気に片をつけるには、好きだと言い切るのが一番だ。結局、会社では一度も成功しなかったが、ここでは成功した。南国らしくない頑固さのあるコンシェルジュから、電車の発車時刻と三十分で着くという情報を手に入れた。何をしにBホアに行くのかを聞かれなくて助かった。説明が面倒だった。
戦争中にたどり着いたその街に向かうために、電車に乗り込んだ。車内は大音量の音楽と、改めて感じる暑さ。少しの格闘の末、最後は力任せで窓を開けた。窓と窓枠は元々の立てつけも悪く、塗装を押し破るほど錆が出ていた。高温多湿では錆を気にしていてはきりがないのだろう。気候的にも工業化に向かない土地なのだ。
入ってきたのは生温い風だったが、それでも涼しかった。
近くの大学生らしき男女二二のグループがこちらをチラチラと見ていた。気になるが、気にしなかった。ここは日本ではなく、私は現地人には見えないはずだ。異国人がいて気になるのは自然な反応だった。怖くないこともないが、どちらかと言うと怖いのは彼らのはずだった。それに大学生はどこの国でも同じで、人畜無害な華やかさを広げていた。その大学生グループの一人がこちらに歩いて来た。窓を閉めろということらしい。閉めるのか、こんなに暑いのに。やっと開けたというのに。違うらしい。窓を開けたら金網を下げろという。日本の電車の日よけのような感覚で、金網がついていた。それを下げると、OKという感じで親指を立てた。虫よけにしては目が粗すぎ、カブトムシがぎりぎり防げるかどうかという大きさだった。何のための金網かと聞くと、外から物を投げる人がいるという答え。金網越しの風景というのはあまり気分の良いものではないが、ここでのルールに従うことにした。視界は良好ではないが、少なくとも風は入って来る。
以上のやりとりはすべてジェスチャーとお互いの言語で行った。英語は使わなかった。人間、何とかなるものである。あの戦争のときも何とかなって今がある。
電車が走り出すと、ゆっくりと路面電車並みに民家の間を走って行く。確かに物を投げられる距離と速度だった。実際に投げられることはなかったが。
Bホアまで何駅かは知らなかった。駅にも車内にも路線図はなかった。車内放送があるのかもわからない。スピーカーからは大音量の音楽が続いていた。コンシェルジュによると三十分ぐらい、地図によると大きな河を渡ったらすぐ、情報はそれだけだった。二十分すぎにそれらしい河を渡ったが、その後すぐに駅がなかったので違ったらしい。そしていよいよ大きな河を渡ると、駅に着いた。大学生グループにBホアかと尋ね、そうだと教えてもらった。無事に到着した。音が割れた音楽はずっと続いていた。電車を降りると、その音から解放された安堵があった。
駅には南口しかなく、駅前ロータリーからはまっすぐな目抜き通りが伸びていた。南口という表記はなく、ロータリーとは単なる道路の行き止まりだ。
バイク屋とカフェがちらほらと並んでいた。そこを進む以外に道はない。バイクタクシーの客引きもいなかった。カフェにはWiFiの文字がある。想像したほど田舎でもなかった。ここが終戦を迎えた町。町を身体中で感じようと深呼吸をするも、南国での深呼吸は息苦しいだけだった。
◆
ある日、ポストに手紙が届いていた。達筆な宛名から裏を見るまでもなく、祖父だと分かった。知り合いにそんな立派な字を使う人は一人だけだった。そこには手紙のほかに一枚の地図が入っていた。河沿いの基地から丘の上に教会が見える、そんな地図だった。
祖父の手紙は達筆さの割に要領を得ない内容だった。会社を辞めた私への気遣いだけが溢れていた。手紙の最後に、時間があるなら地図の街を訪れ、話を聞かせてほしいと書いてあった。気分転換に旅に出ろということらしい。地図に添えられたエピソードはヘビーなものだった。何しろ、十代で戦争に行き、あっさり船が沈没し、何日も漂流し、何とか命は助かった。そしてそこが地図の街、Bホアだったと。
◆
手元には記憶に任せて書いた地図がある。Bホアという地名、大きな河、河沿いの基地、丘の上の教会。簡素だが、すべてが書いてあるような気がする地図だった。ただし、そこには暑さが記されていなかった。はじめに記すべきだ。最大の特徴は暑さだ。
まずは河に向かうことにした。人間は暑いと自然と水を求めるようだ。十五分ほど歩き、現代の地図によると河まではもうすぐだった。日陰で立ち止まると空腹に気づいた。暑くねっとりとした空気に負けじと、油の匂いが漂っていた。オープンエアーの定食屋が目の前にあり、迷うことはなかった。ベトナム語だが写真つきのメニューだった。肉野菜炒めとビールを注文した。首を振らない大きな扇風機が、その大きさから想像できないほどの微風を運んでいた。汗は生ぬるい風で乾いていった。
ジョッキが運ばれてきた。ジョッキには、その半分ぐらいの体積の大きな氷が入っており、店員がそこに瓶からビールを注いでくれた。氷入りの飲み物はだめだと思いつつ、ジョッキを傾けた。暑さには勝てない。さっぱりとしたビールは、汗で失った水分を補ってくれる。
日本人は我慢強いというのは思い違いだ。例えば砂漠の国で各国からの技術者が集まってビルを作っているとき、日本人の弱さが出る。衛生状態の良くない土地では氷は全く信用できないので、信頼できるおいしい飲み物は熱いコーヒーだけ。冷房の効いていない部屋、言葉の通じない会議、数週間の予定で来ての数ヶ月の滞在、全く進まない工事、帰国の目途すら立たない。レストランで注文するミネラル水もかろうじて常温ではない程度の冷えである。電気の安定供給は世界的には常識ではない。そんなときに目に入る氷の入った水のグラス、あっという間に浮いてきた表面の水滴。その極限状態で、一番はじめに氷入りの飲み物に手を出すのは日本人だ。自分は大丈夫だ、きっと当たらないと言い聞かせ、冷たさを選択する。今風に言うと、危機管理能力が低い。そしてほぼ百パーセントの確率で極度の腹痛に見舞われる。数日間の地獄だ。しかし死にはしない。そう、死にはしないのだ。死にそうになるだけ。戦争とは違う。
店員が水色のバケツとトングを持ってうろうろしている。バケツにはいっぱいの氷、氷を配っているのだ。見ると、ジョッキの中の氷はほとんど溶けていた。有難く氷をもらった。
風が止んだ。優雅な動きの扇風機が完全に止まっていた。あのゆっくりとした風でも効果があったことを知った。厨房の奥からも店員が出てきて何やら揉めていた。どうやら停電したらしい。しかしちっとも静けさがなかった。喧噪が止まない。騒がしさが電気仕掛けでないのだ。
三・一一の震災後に電力不足から実施された計画停電のとき、日本は静寂そのものだった。友人と集まって騒いでみたが、深い夜空に飲み込まれた。日本は電気仕掛けばかりで、アンプラグドでは飲み会すらままならない。
◆
「いま何階?」上の方から声が聞こえた。踊り場にセンスのない十二・十一という表示があった。訓練とはいえ、みな真剣に取り組んでいる。三・一一を経験したためである。三十二階からの停電想定での避難訓練には、リアリティーがあり、当時を思い出すと言葉も少なくなるのだろう。
私の険しい表情の理由は違っていた。私は砂漠の国への長期出張でその地震を経験していない。私はこの上なく不機嫌だった。それほど降りやすくもないが、スペースを節約できるサイズの階段を降り続けながら、自分に苛立っていた。高層ビルの階段は裏方であり、階段室として隔離されている。それが法律で決まっている。有事の際以外には目に触れないそこには最低限の機能以外は求められていなかった。ケミカルな匂いと無機質な色合いと無関心な白色の灯り、すべてが絶望的だった。絶望的だと知りながら、小銭を稼ぐために、日本中や世界中にこんな階段を有した建物を作ってしまっていた。
三十階分を降りたところで、首に下げた携帯電話が鳴った。建設現場からだったので、通話ボタンを押した。階段室は声が反響するので、金属製のドアからビルの表側に入った。低層階は商業施設だった。生気のある空気に圧倒され、会話を忘れた。
電話を終えた私は、残りの二階分はエスカレーターを使って外に出た。外ではまだ雨が降っていなかった。雨が降っていないだけの日だった。失ってはいない熱さに安堵し、その日の夜に辞表を提出した。ワープロで打ち出したが、署名だけは手書きにした。
私は階段が作りたくて建築業界に入ったのだ。階段アーティストになりたい。それはタイタニック号にあったような階段であり、神社へと続く階段であり、路地裏のらせん階段であり。断じてビルの非常階段ではなく、安全のためのインダストリアルな手すりのある階段ではなかった。
◆
電気は復旧しないままだった。店員は文句を言い合っていたが、それ以外には不自由はなかった。オープンエアーでは、電灯も不要だ。電気などなくても、スムーズに会計もできた。アナログのたくましさだ。
やたらと数字の桁が大きい支払いは、それが日本円でいくらかを考えるのを諦めさせてくれた。高いだの安いだのという感覚から解放されていた。戦争という有事だった当時も、そんな感覚はなかったはずだ。
信号がないので、街が停電していても何も問題ないようだった。そもそも街自体が停電しているのかが分からなかった。それほど電気仕掛けのものがなかった。ただバイクだけは豊富だった。
ほろ酔いと蒸し暑さは相性が良い、そう言ったのは誰だっただろうか。いまそれを実感している。もちろんアルコールで体はだるいが、足取りは重くなかった。気分良く歩いていると、呆気なく教会を見つけた。十字架とマリア像、間違いようがなかった。戦争の興奮か、終戦の興奮か、息苦しかった。気持ちを落ち着けるために深呼吸をして、脳に酸素を送った。アルコールの隙間をぬって走り回った酸素がクールダウンさせてくれた。
確かに教会だが、どうも新しかった。門が開いていたので、敷地内に入り、建物に近寄ってみると一九八五年からと書いてある。終戦は一九四五年だから、当時のものではない。建物の中に入って誰かに聞こうとするも改装中で、しかも昼休みのせいか、工事の残骸だけで誰もいなかった。
教会のある場所は、昔からずっと教会のはずだ。教会の門を出ようとすると、正面の道が緩やかに下った先に河が見えた。ここから河が見えるということは、河から丘の上に教会が見えるはずだった。正に地図の通りだ。
逸る気持ちを抑えることなく、真っ直ぐに道路を下った。早歩きの風が汗を乾かし、また汗が出て、日陰になればまた汗が乾いた。
河は普通に河だった。そこには地図にある基地はなかった。少なくともベトナム戦争当時まではあったはずなのだが。河はメコンの泥色で、浮き草がやたら大きい。日本で金魚鉢に入っているものと同じ形だが、大きさが全く違っていた。終戦を求めて旅してきたのだが、のどかな風景だった。
河沿いは公園になっていた。飛行機の滑走路を公園に変えたのだと勝手に想像する。その公園を歩いた。南国らしい大きな木が並んでいた。緑があり、木陰があり、ベンチがあり、若者のカップルがいて、普通の公園だった。基地の跡を探すが、何も見つからなかった。これが映画のシーンであれば出会えるはずの、当時を知りそうな老人もいなかった。ベトナム戦争の跡形がないのだから、第二次大戦の跡形はもっとなかった。しかし何度か公園から丘を見上げると、建物の隙間から教会の十字が見えた。地図の通りだった。それは一九四五年のままだった。
体力の消耗が激しかったので、ホテルへはタクシーで戻った。
ホテルから空港へのドロップの車は、他の客との乗り合わせだった。乗り合わせたのは日本人の家族だった。その乗り合わせた家族が、父親が氷入りのジュースを飲んでしまった話をしていた。やはり日本人は我慢強くないのだ。
空港は薄暗かった。お土産を選んでいる日本人を眺めながら、ボーディング待ち。手元には、七十年前の記憶を頼りに書かれた地図がある。河と基地と教会、その通りの街だった。
あの日、まだ十代だった祖父の帰国とはどんなものだったのか。日本語しか話せないのに、どうやって助かったのか。どうやって助かったことを知ったのか。ひょっとして何も知らないまま帰国の飛行機に乗ったのか。いや、当時は船だ。終戦とは安堵なのか落胆なのか。
いろいろと想像しようとするも、暑さですぐにもやがかかる。私にとってはベトナム戦争当時の麻薬密輸と同じだけ遠い話だった。その当時の祖父は、映画の中のデンゼル・ワシントンと同じだけ遠い。
地図には書いていなかったが、当時も暑かったんだろう。🅱
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