Bトク(ウラジオストク)

 欧州へ船で入ると、入国のスタンプには船のイラストが入る。多くの人が目にするのは飛行機のスタンプだが、船や車のバージョンも存在する。ロシアはどうなのだろうか。すぐに答えは出るはずだ。何しろ私の乗った船は、鳥取の境港からロシアのBトクに向かっていた。

 冬の甲板は風が体の中まで刺さる。それでもタバコを諦めるほどではなかった。日本海の大きな揺れとニコチンの相性は抜群だった。強風と高波の音の中でも、空気を吸い込んだときのちりちりと燃える音ははっきりと聞こえた。タバコを辞めない理由を聞かれると、「祖父が国鉄職員で、その借金の返済」と答えることにしていた。今のところ酒を辞めない理由を聞かれることはないので助かっている。船の中には免税店があり、ウイスキーとタバコには不自由しない。

「退院祝いにはカニを送ってやるから、ここに住所を書きな」と渡された手帳には、既に私の名前とカニの送り先の住所が書いてあった。また名前と住所を書くふりをした。「若いんだから、カニを食って精をつけろ」

 病院裏の喫煙スペースはいつも私とその男の二人きりだった。男は八十を超えているぐらいだろうか。態度や発言は豪快だったが、その動きは年齢相応にゆっくりだった。

男はスポーツ新聞を読み終えると、「ほら、やるよ」と渡してくる。「どこも悪くなさそうだけど、入院か?」私は事故の話をし、男は入院している奥さんの話をし、男の気分が乗っているときには続けてカニ漁の話をする。男は北の方でカニ船に乗っていたらしい。男はカップ酒を取り出し、一口飲んでから、「あんまりうまくねえな」と残りを灰皿に流す。タバコをくわえて火を探し、私がライターを差し出すと、「いいや」と吸わずに灰皿に捨てる。そして男は「女房のところいってくる」と出ていく。男は二、三時間で戻ってきて、また新聞を読みはじめるはずだった。ここ四日間、一日に何度か、男と私は同じやり取りを繰り返していた。

 私は深呼吸でもなくゆっくりと呼吸を繰り返した。呼吸を意識することのほか、やることがなかった。枯葉が風で地面を転がる音が聞こえる。病院裏の秋景色、酒臭い喫煙所、検査以外での社会との断絶、絶望的な二十四才だ。

 私は検査のために入院を続けていた。自転車に跳ね飛ばされ、頭を打ち、救急車で運ばれた。何度か目を覚ましたが、二日間ほど眠っていた。はっきりと状況を把握したときには愕然とした。女の家に居候をさせてもらい、コンビニでアルバイトをしている人間にとって、二日の空白は致命的だった。加えて事故で携帯電話が壊れてしまっていた。彼女ともバイト先とも連絡の取り方が分からなかった。喫煙所の男が「手紙を書け」と、典型的なダメ老人の割にまともなアドバイスをくれたが、いざ書き出してからあまりの下手な字に嫌気がさし、ため息とともにすべてを諦めることにした。


「そうか、良かったじゃねえか」

 他に報告する相手がいなかったので、喫煙室で男に明日の退院を報告した。二人はカップ酒で乾杯をした。いつものように一口では捨てなかった。それにしてもいつもポケットにカップ酒が入っているのは驚きだ。

「これからどうするんだ?」

 決めていなかった。いいことも悪いことも、全く当てがなかった。

「羨ましい話じゃねえか。旅にでも出ろよ」

 そう言われても行く当てがなかった。

「当てがあるのは旅じゃなくて旅行だろ」

 そうですねと素直に受け取った。真っ当なことを言う。

「カニを送ってやるから、ここに住所を書きな」

 このやりとりも最後だと思うと、感慨深いものがあった。いつものように彼女の家の住所を眺め、手帳を返した。

 奥さんの容体を尋ねると、男は首を横に振った。

「今の女房が死にそうだってときに、前の女房のことを思い出してるんだから、俺はつくづく外道だよ。いい女だったし、若かった。女の匂いまで覚えてるよ」

 酔ったのか、最後だからか、いつものやり取りとは違っていた。

「彼女にとっては、私が初めての日本人だった。いや、若いのが想像するそっちではない。いや、それもそうなのだが」と男は話しはじめた。

 男は二十代のころ、ソビエト領での密漁により逮捕され、何日か大陸側に拘留された。拘留とはいっても、昼間は街を出歩くことができた。寂れた軍港だったが、軍人相手の店がいくつかあった。そのときに店にいたのが、後に前の女房になる女だった。

「彼女が日本語で話しかけてきたときは、驚いたよ。完璧にソビエトの顔なのに、完璧に正しい日本語だから。とにかく驚いたよ。彼女は日本人に会うのも、日本人と話すのも、初めてだって言うから、また驚いた。聞いたら、子供のころから日本軍の無線傍受の仕事をしていたらしい。だから一度も日本人に会ったこともないのに日本語を話せたわけだ。彼女は初めて日本語を無線越しではなく生で聞き、初めて会話をしたって、顔を真っ赤にして喜んでた。向こうの人間にとって日本語は特に難しいらしく、学校全体で勉強して、彼女だけがその仕事に就いたらしい。その日はずっと彼女と話した。そして明日も来てくれと約束をさせられた。その強引さに、俺も強引さで応え、日本に連れ帰って結婚した。ところが彼女は日本語を話せても、日本文化への理解は皆無だった」

 私たちはカップ酒一杯ずつで大いに酔っぱらった。ささやかだが、有難いお祝いだった。

 男はカップ酒がなくなると、「買ってくる」と喫煙所を出て行った。私は男を待たずに病室に戻った。まだもらっていない新聞はもらっておいた。

 船は経由地の韓国へ向かっていた。境港から東海へ、字だけではどちらが日本でどちらが韓国か判別できない。しかし目的地は圧倒的に異文化なことが分かる地名、Bトクだ。カップ酒男が拘留され、後の前の女房に出会った町だ。

 癖でネットに接続すると、女からメールが入っていた。私宛にカニが届いて困っているらしい。これまでの家賃だ、と返信した。入院してからは連絡できていなかった。私が事故にあったことも知らないはずだ。

 カニに添えられていた手紙の写真が返信されてきた。

「忘れるなよ、悪い女は抱いたときにビワの匂いがする」

信じられないほどの悪筆だったし、私にはビワの匂いが分からなかった。🅱

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