Bベイ(ボンベイ)
彼女はとにかくバランスが良かった。見惚れるほどの美しさはその体形だけではなかった。短めのジャケットの裾の広がり、パンツのポケットとヒップの位置、後ろで結んだ髪の毛、靴のヒールの高さ、セルロイド枠のメガネ、大きなピアス、すべて彼女に合っていた。しっかりと重力を意識しているのだが、重力から解放されたような存在の仕方だった。
彼女はチャトラパティー・シバジー空港へ向かう飛行機の搭乗待ちの時間から私の退屈を消してた。彼女の方は退屈を持て余し、慌ただしく立ったり座ったり、売店を冷やかしたりしていた。
彼女にもバランスが悪いものが三つあった。一つは足元に置いてあるボストンバッグ、彼女が持つにしては大きすぎた。もう一つは携帯電話、彼女の小さな顔に対してスマートホンは大きすぎた。「コレカラ飛行機、問題ナシ。時間通リ飛ブミタイ。空港着イタラ電話スル」なぜだか片言のフリをした日本語だった。最後の一つがワインボトル、彼女はコルクを抜いたワインボトルを持っていた。電話を切ると、直接ボトルに口を付けた。華奢な腕には重く、小さな口はその飲み方には不向きだった。案の定、顎まで滴が伝った。まだ拭き取られていない赤色だった。
雑誌の表紙みたいだなあと思い、彼女が雑誌で見かけるモデルであると気づいた。モデルだと分かると、片言日本語もワインボトルもカッコよく感じてしまう。
人生に疲れてインドに向かう私は、遠くと彼女を眺めていた。
彼女ばかりを見ている不審な男という現状を避けようと彼女から目を離すと、同じく不審な男を見つけた。彼女にビデオカメラを向けていた。被写体は彼女ではない可能性もあったが、少し見ていて彼女であることを確信した。気持ちは分かるが、ビデオはルール違反だ。
私は男に近寄り、ビデオカメラを叩き落とした。男はその間も彼女を見ていた。そして手を滑らせて落としたかのように、自然にカメラを拾った。「自分だって見とれてたくせに」と口だけ動かして去って行った。
人生を諦めてみると、マナーとかルールとか基本的なことが気になるらしい。そして始終悩んでいると、咄嗟に行動する前に考えなくなる。これが話に聞く「死ぬ気になれば何でもできる」ということか。悪いことを咎めただけ、大したことをしたわけではない。岐路に立つとつい大げさに考えてしまう。
ひっそりと行動したつもりが、彼女が振り向いてしまっていた。
「彼は気にしなくていいのよ、別に。いつもいる善良なストーカーだから。でもお礼は言っておくわね、ありがとう」サングラスのようにメガネをはずして目線を下げた。お礼とは思えない横柄な態度、さすがモデルと勝手に褒めた。
「隣、いい?」そう言うと、ワインもボストンバッグも電話も持たない彼女が横に座った。
「さっきの電話、聞こえてた?」
片言の日本語のことだろうか。
「恥ずかしい。バカみたいでしょ。事務所から言われてるの、外では何も話すなって。どうしても話すときは下手な日本語で話せって。派手な格好して片言の日本語で話してたら、外国人に見えるからって」
外国人には見えない。片言も上手ではない。
「インド行き? 仕事?」
私は言葉に詰まったが、彼女が続けてくれた。
「私は撮影。いま契約してるデザイナーが、民族系に力を入れてるの。ここんとこインド行ってサリーばっかり」
搭乗案内が流れ、私は自然と彼女のバッグを手にした。ワインボトルは彼女の手に渡ってしまった。
「ありがとう」
空港の乾燥した空気には、彼女の固い声は良く響いた。
待っている間に想像した通り、機内は人がまばらだった。
「あたしの席は一番後ろ、悪いわね」
私は自分の席を通り過ぎ、彼女のバッグを一番後ろの上の棚に収納してお役御免となった。
私は彼女から十列ほど前の窓際席、横どころか周囲に人がいなかった。十時間弱、快適な旅になりそうだった。
「ご一緒させてくださいな」そう聞こえたときには、彼女は横に座っていた。
「あなた、一人旅のようだし、ここ空いてるでしょ? どうせ空いてるわよ。いつもガラガラなのこの飛行機。わたしに一人旅をさせないでよ。ネットに書かれたら困るから」
男と一緒の方がネットに書かれそうなものだが。
「それは書かれてもいいの。一人でインドに向かう女って、ちょっと耐えられないキャラだから」
彼女は私のテーブルを勝手に下ろし、ポケットから出したものを広げた。殻のままのピスタチオだった。
「割ってくれない?」そう言って彼女は自分の爪を見せた。そして彼女がタバコを取り出したのには、心底、驚いた。「吸う?」と言われ、ノーと答えた。
「酒もタバコもなしじゃあ、いい政治家にはなれないわよ」
私は酒も飲むし、タバコも吸う。
「じゃあなに、遠慮? 遠慮ばかりじゃあ、いい政治家にはなれないわよ」
私は政治家を目指していない。
「できる男はみんな政治家を目指すものでしょ。あなたには、ぜひ政治家を目指してほしいわ」
政治家にいい思い出でもあるのだろうか。
「あっても言わない。それがルールだから」
いい女だと思った。
「遅いわよ、それを言うのが。普通は初対面で言ってくれるわよ」
そういう意味ではなかった。
「もちろん分かってるわよ」
そう言いながらライターを擦ったところで、私と客室乗務員が同時に止めた。
「分かってるわよ、禁煙でしょ」
そして乗務員には私も注意された。テーブルを戻せと。まだ殻のままのピスタチオは彼女のポケットに戻った。
彼女は一通り騒いで満足したのか、背筋を伸ばして正しく座っていた。モデルの美しさは座ったときに出る。その半重力感の中で、どう線を出すのか、崩すのか。
「唇フェチなんだ」
特にそんなことはなかった。
「気づいてないだけで、そうよ、絶対。あなた、わたしの口を良く見てるから。個人的な趣味だから、恥じることはないわ。私も気に入ってくれれば嬉しいし」そう言って唇を突き出した。確かに魅力的だったが、フェチではなかった。私は口の動きで何を言っているのかを当てるのが得意だった。声の聞き取りずらい機内では、無意識に口の動きを見ていたのだ。
「すごい才能ね。政治家になって役に立つかもしれないわ」
読唇術が政治に役立つとは思えなかった。そもそも人生に役立たない能力だ。
数日前、遠くで上司が話しているのが見えた。「彼には任せられない」その直後だった。私の企画による仕事が私に回ってこなかったのは。
「それで暇になったからインドに行くんだ。そんな仕事なんて辞めちゃいなよ。男なら政治、国政よ、絶対」
飛行機は無事に離陸した。
「グラスもらえる?」
乗務員はプラスチックのカップでいいかと言うと、彼女はノーと言った。
「カバンの中にあるから、取ってくる」
そう言って立ち上がったときに、ワインボトルが落ちた。床に赤黒い染みが広がった。私は立ち上がろうとして、シートベルトに妨げられた。その一瞬の遅れが事態を大きく左右させた。
「お静かに願えますか」と男が寄ってきていた。「勤務中ではありませんが、警察官をやっております」とワインを拭いている乗務員に説明していた。
「気にしないで、まだワインはカバンの中にあるから」自由人は二人を無視していた。
「あなたの席はもっと後ろの方とお見受けした。ここは是非自分の席に」
何か変な日本語だった。彼女の腕をつかむと後ろに運んでいった。彼女は騒ごうとしたが、私が人差し指を口に当てて合図を送った。有名人は騒がない方がいい。
「お騒がせしました」と乗務員に頭を下げられては、その後に行動する隙もなかった。
恋人をさらわれた気分で、政治家になり損ねた気分だった。ピスタチオが彼女の座っていた座席に落ちていた。拾って割って食べた。後ろを向くと、彼女が手を振っていた。手を小さくあげて答えた。それは政治家っぽい態度のように思えた。彼女もそう思ったのか、「じょうでき」と笑っていた。
落ち着いたところで、今度はストーカー男が横に座ってきた。私の隣の席にどれほどの魅力があるというのか。
男は彼女の残したものを漁っていた。それをどう咎めていいのか分からない。何も見つけられないと分かると、私に動画を見せてきた。一番後ろの席の彼女を撮影したものだ。ストーカーも甚だしい。いや、彼女が呼びつけたのだろう。
「たすけて」と彼女の口が動いたのは見逃さなかった。「けいかんは、にせもの、たすけて」はっきりと見えた。
シートベルトの外れるカチッという音が私の頭の中に響くと、スイッチが入った。腕力には自信がなかったが、そういったことは関係ない。行動を起こすとはそういうことだ。
◆
これが政治家を目指したきっかけだった。まさに出会いと偶然だった。仕事に行き詰まり、行きつけのバーでジンを飲みすぎ、翌日にそのジンの名前の由来となったBベイ行きの飛行機を見つけ、その搭乗待ちで彼女を見つけた。「仕事に行き詰ったのも、あなたの才能のおかげ」と彼女は言った。
◆
彼女の席に向かった私は、二つ離れて座っていた警官を無視する態度だけで、そのまま彼女をエスコートして席に戻ることができた。男は本当に偽の警官で、彼は彼なりの正義感からの嘘だったらしい。今は私のボディーガード兼秘書をやっている。とにかく機転が効く男だ。
彼女は救出できたが、飛行機は引き返すことになった。計器のトラブルと説明された。機内が騒がしくなったが、彼女と私の騒がしさは、他の人とは別物だった。
「もう帰るだけなんだから、肩の力を抜いて、飲みなさい」
成田までの二時間ほどの帰路では、私はピスタチオを割り、彼女は政治論を話し、二人でワインをこぼした。「もうすぐ着陸になります」と宴は終わった。静かになった機内でも私は彼女の唇から目を離せなかった。
「明日の便で、また会えるわね」
明日は乗らない、インド旅行は中止にした。
「だと思った。あなたはきっといい政治家になるわ。政治家になったらまた会いましょう」🅱
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