第7話


「何やってるんですか、あんずせんぱい。」


 ハンカチの汚れた場所に刺繍してるのと言うと、布端に縫い付けられたチューリップに目を落として、みかんは「すっごい」と大げさに感嘆の声をあげた。

 2年に進級したとき被服部という名ばかりの部活に加入し、もう1年が経つ。熱心に勧誘をしなかった効果か今年の新入部員はひとりもいなかった。形式上、部長である私と副部長であるみかんのふたりのみで構成される被服部ライフは重ったよりも気楽で居心地が良い。その理由はあっけらかんとしていながら他人と程よい距離を保つことのできるみかんの性格にあると思う。神経質で天邪鬼な私の厄介な気性をすぐに察知し、上級生を素直に慕うかわいい後輩を演じてくれる彼女はとても頭の良い女の子だった。尻尾を振られるたび、私にはとてもそんな芸当はできないと感心させられてしまう。


「今日も天気、良くないですね。昨日も一昨日もその前も雨だったのに」


 不服そうなみかんの声に窓の外を一瞥すると、分厚い灰色の雲が空一面を覆い隠していた。今にも大粒の雨が降り出しそうなのを確認して、「今日は傘持ってきたの」と尋ねる。

 天気予報を見る習慣のない家庭に生まれたんですと弁解する調子の良いみかんは、雨が降った日はきまって私の傘に入ろうとする。近所のみかんの家に寄ること自体はそれほど面倒ではなかったけれど、水玉柄の折りたたみ傘はふたりで入るには少し小さいので、きまってどちらかの肩が濡れてしまう。


 「持ってないですよ、今日も先輩を当てにしてますから。」


 生意気な後輩の頭を小突いて、赤い刺繍糸の玉留めにハサミを入れる。糸端の切れるちょきん、という音が耳に心地良い。



「やっぱ降ってきましたねー」

「みかんが雨女なんでしょ。今週3日も雨だったよ」

「もしあたしが雨女なら、毎日雨を降らせたいです」

「どうして」


 だってそうすれば、ずうっと先輩の傘に入り続けられるもん。

 私の傘の柄を持つみかんは同性相手にぶりっこしてそんなことを言った。さっきから私が濡れないように思い切り傘をこちらに傾けてくれている。みかんの着ているシャツの右肩が灰色に濡れていることに気づいて、私は傘を彼女の方へ押し戻した。


「そんなに気を遣わなくていいから。普通に持ってよ」

「いーんですよ。先輩が濡れちゃう方がずっと、私は」

「なに言ってんの、バカね」


 えへへ、と歯を見せて笑うみかんの顔を見上げようと思ったとき、車道を通る車のひとつが大きな水たまりに突っ込んだ。私たちふたりをめがけて飛んできた泥水の感触が顔に当たる。見下ろすと、赤のギンガムチェックのスカートが太ももに張り付いていた。「うわ、最悪」、と低い声でつぶやいたみかんのセーラー服は茶色い泥水に透けて下着の線がくっきりと見えていた。

 目のふちに涙のしずくを浮かべたみかんを放っておけず、家に誘った。玄関の鍵を開けると見慣れた靴が無造作に置かれてあって、私は絶句した。ハルタのローファー、25センチ。その靴の揃え方と女の子にしては大きいそのサイズから履いている人物に心当たりがある。リビングに走っていくと、パパがセレクトショップで買ったパッチワークのソファに腰掛けていたのはももだった。教室では避けるように過ごしているから、顔をまともに見るのは随分久しぶりのことのように感じる。ママと談笑しているももは、私に気づくと「よぉ」、と呑気に手を挙げた。


「おかえり、あんず。さっきももちゃんが遊びに来てくれたのよ。お夕飯も食べていくって。あら、そちらの子はどなた?見たことない顔だけど。」

「被服部の後輩のみかん。ちょっと、お風呂と洗濯機借りるね」


 「おい」と私を呼び止めようとするハスキーボイスを無視してしまう。動揺する心をあの子に悟られたくなくて、脱衣所に向かう足が早足になる。一緒に海に行った後、しばらくの間ももとの距離を置こうと決めて連絡を疎遠にしていた。忙しい、用事がある、勉強しなきゃいけないから。ももの度々の誘いをそんな風に断っていたけれど、鈍感な彼女もようやくいつもと違う私の態度に気づいたのかもしれない。


 「ちょっと、先輩、大丈夫ですか」という声にハッとして、みかんにタオルを渡してやる。心配そうな表情のみかんに、二階の寝室にいるからと伝えて階段を上がっていると、ママとももの楽しそうな笑い声が耳に届いた。

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