第6話


 私は何も変わらないのに。変わってしまうのはいつも周りだ。勝手に近づいてきて、勘違いして、いつのまにか離れていく。性格が悪ければいいのか、男漁りが好きならいいのか、人を傷つけることに抵抗がなければいいのか。あなたたちがそう考えているような女の子になれるものならなりたい。私がそういう女の子なら、きっともっと、生きることは楽なはずだから。

 屋上に行ったけど、柔道部で練習中のももの姿は当然、そこにはなかった。降り続く小雨は、私の白いセーラー服を淡々と濡らしてネイビーのキャミソールを透かした。太ももに張り付く重たいプリーツスカートがやけに苛立たしく思える。ねずみいろした頭上の空を見上げる。涙みたいな大粒の雨が落ちる。スローモーション再生みたいな時間感覚だった。

 何だか全てがバカバカしくなって、私はその日を機に、家から出ることをやめた。熱い湯に浸かってさくらんぼ柄のネグリジェに着替えてダージリンの紅茶を淹れたら、身体が動かなくなっていた。

 出版社で編集をやっているママは仕事が忙しくてほとんど家に戻ってこない。親から干渉されない私は、存分に家の中に引きこもっていられた。ロクに食事もせず、勉強にも手を付けず、ファッション誌を読んだり、お気に入りのアイドルのDVDを再生したり、ハンカチに刺繍をしたり、好きなことに没頭する毎日を満喫した。

 人間と関わりたくなかったから、携帯電話は水を張ったシンクに沈めた。スマートフォンの画面が真っ黒に落ちたとき、ももの顔が浮かんだ。お菓子を頬張る彼女の笑顔を見ることができなくなるのは、少し寂しいかもしれないと思った。


 ももが私の家にやってきたのは、引きこもり生活をはじめて1週間目の月曜日だった。

 締めきったままのカーテンから差し込む光がまぶしくて目がさめる。それが朝日なのか夕日なのかは枕元に置いてある時計を見るまで気づかなかった。短針は3の位置を指していて、ああ学校がそろそろ終わる時間だなと思った。まっとうな社会から隔絶されてしばらく経つのに、私の意識は自分がいた生活から中々離れていかない。

 顔を洗った水滴をタオルで拭っていると訪問者を知らせるベルが鳴った。しばらく鳴り止まないので、二階の階段から外を見渡せる小窓を除くと玄関に見慣れた制服を纏った女子生徒が立っているのが見えた。スカートのポケットに手を突っ込む怠そうな立方を見て、すぐにももだと気が付いた。

 ももは中々帰ろうとしなかった。立ったり座ったり表札の近くにもたれかかったりして、私が玄関の扉を開けたがるときを待っていた。それはまるで私とももの根比べだった。暗くなった道路をオレンジ色の街灯が照らすようになってもまだ、ももは私の家の前にぴったり張り付いていつまでも離れようとしなかった。

 隣に住む家に飼われているぬいぐるみのようなチワワが、半分欠けた月を見上げてワンと鳴いた。小窓の外を覗き込む私の目と、頭上の半月を仰ぐももの目が合ったのはそのときだった。子どものときにママが読み聞かせてくれた童話の絵本の中に、こんなシーンがあったことを思い出す。ももは私の方へと高く手を差し伸べて、顔をくしゃっとさせて笑った。


—塔から助け出してくれる王子様が、あんずにもいつかきっと現れるわ。

 髪の毛をやさしく撫でてくれたママの優しい声が耳の奥に聞こえる。


 「こっちに来いよ」、声は聞こえなくても、ももは確かにそう言った。私はももの待つ扉の前まで駆けて行った。階段を一段飛ばしで飛び降りる。頬が熱い。体の中からエネルギーがこみ上げてくるのがわかる。どうしてだろう。どうしてこんなに胸がどきどきするんだろう。


 閉められた扉に右耳を当てると、その様子を見ていたかのようにももは「おはよう」と言った。「なんで分かったの」と言う声がついとんがってしまうのは、天邪鬼な私の性格のせいだ。ももの前で素直になれたことなんて一度だってなかった。甘えるのが下手で強がってばかりの私は、ももに自分の話をしたことがない。

 扉をこんこん、と叩く音に耳を傾ける。厚みのある扉を隔てて、もものあったかい体温を感じる。柔らかい猫っ毛が肩のあたりではねる様子を想像して、目を閉じた。


「学校、来いよ。お前がいねーと、さみしーんだよ。あたしは。なんか嫌なことあったらさ、あたしを呼べよ。いつだって、何処へだって、飛んでいってやるからさ。」

「私の王子様に、なってくれるの?」

「いいよ。なってやるよ、なんだって。だから明日は来いよ。」


 何なら迎えに来てやるよ、という明るく言うももに「バカじゃないの」と返す声が少しだけふるえた。本当は扉を開けて今すぐももの顔が見たかったけれど、不細工な泣き顔を見られたくなくて我慢した。


 ももはずるい。こんな風に人の心を平気で踏み荒らして、自分と相手の境界線も引かずに近づいてこようとする。ももは気づいていないだろうけど、ももを自分の飼い犬にしたいと本気で考えたことは片手では数え切れない。私にとってのももは、普通の女友達なんかじゃなかった。もしも私が男だったら、ももの彼氏だったら、あの子を自分の部屋に閉じ込めて永遠に外へ出さないだろう。

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