初恋

 初恋は実らないってよく言うけれど、本当にそうだと思う。現に実ることがなかったのだから。

「初恋」――物心つく前に仲が良かった子。小学校でクラスの女子に人気だった子。中学高校の多感な時期に抱く、あの人ちょっと気になるな……くらいのものではない。距離が近いからなんとなくお付き合いをしてみたこともあったけれど、それらは全部「初恋」とは呼べない。

 心から求めて、喉から手が出るほどに欲して、ずる賢く、自分のものにしようと企んだ、それを指すのだと思う。


 ***


 ギシギシ、とベッドが軋む。甘く掠れた囁き。息に混ざる密やかな微笑。布の中で動く手、足。その度に擦れる薄いシーツ。触れ合う肌。漏れる息……それがフッと、軽くなったかと思えば、苦しげに喉を鳴らす。段々と、細切れに、激しく。それは紛れもなく二つあり、リズムが重なっていく。冷たかったシーツも二つの体温で熱を持つ。逆上のぼせるような喘ぎ。低い音と高い音。

 それは、どちらも耳に馴染んだ音――

 二人の情事を、いつも聴いていた。私が「眠る」その上で、重なる唇と肌を叩く激しい音が鳴る。止まない。ベッドから溢れ出して、私の上にべっとりと滴らせていく。

 彼らの内側から分泌される濃厚な液が、静かな夜の空気を淫靡に変えていく。舐め合って、溶かして、啜って――

 声が、跳ねた。瞬間、「シーッ」と吹きかけるように漏れる息。静寂を促す、低く掠れた微笑が浮かんだ。

「ダメだよ。カナちゃんが起きちゃう」

 唐突に私の名が浮かぶ。彼らの下で「眠る」私が、いつの間にか情事に加わっていく。

 やめて。名前なんか出さないで。そんな風に私を使わないで――その願いは決して届くことはない。

 二人は、それからも激しく求めあった。


「おはよう〜」

 何事もないように、夢子は欠伸をしながら言う。私も支度をしながら「おはよー」とのんびり返す。

「カナ、今日はサボらないの?」

「うん。一限落としたら今度こそマズイもん」

「そっかぁ。あたしは今日、バイトの時間まで買い物してこよっかな。あ、終わったら連絡してよ」

 そう言うと彼女は、シャワー浴びてくる、とキレイな手をひらひら振った。その丁度に、彼がようやく目を覚ます。

「あれ? 夢ちゃんは?」

 起きて第一声がそれか。私は冷たく返した。

「シャワー行きましたよ」

「あぁ、そう……カナちゃんはもう出るの?」

 琢斗先輩は私の様子を見て察する。なんだか、私は「ついで」のようだ。

「一限出ないとなんで。それじゃ、行ってきます」

「うん。気をつけてね」

 ベッドから降りもせず、彼は夢子同様に手のひらを振って、私を送り出した。

 この生活にも、もう慣れてきた。

 実家から家出して途方に暮れていた私を、琢斗先輩が拾ってくれたのは三ヶ月前。

 元々折り合いが悪かった親と揉めたのは、琢斗先輩と出会ってしまったことが原因……いや、彼のせいにはしたくない。

 家に転がり込み、本当は少しの間だけ泊めてもらおうと考えていた。でも、彼が「ずっと居てもいいよ」と優しく言うものだから、私はそれに甘えてしまう。

 でも、これには彼の企みがあった。それは、私も気づいていた。

 私が家出する前のこと。彼と電話している最中、ふと呟かれたささやかな願いに私は息を止めた。

『俺、実は夢子ちゃんが好きなんだよね』

 何の脈絡もなく、そう言い放った彼は照れくさそうで、また寂しそうな音を耳に残した。私は胸の奥で何かがチカチカと点滅するような痛みを覚えていた。

 身体の内が空っぽになるくらいの落胆。声も言葉も忘れてしまう。初恋は実らないってよく言うけれど、本当にそうなのかと改めて実感する。

 そう、初恋だった。自らが進んで欲した甘酸っぱいもの。いつの間に、ここまで育てていたのか分からない。けれど、結局は実ることなく地面へ落下していく。

「へぇ……あぁ、やっぱり。そうなんですか」

 ようやく出した声は震えることもなく、むしろ冷やかすような笑いを含んでいた。

「でも夢子、彼氏いますよ」

『うん、知ってる』

 辛そうに掠れる低音。それがなんだか耳に心地いい。だからなのか、私は挑発的に訊いた。

「え、どうするんですか? 諦めるんですか?」

 いや、本当は私に可能性を与えてほしかったのかもしれない。それに縋っていたのかも。

『うーん……だって、しょうがないよね。でもさぁ……夢ちゃんが、あぁいや、夢子ちゃんが可愛くてさぁ。休憩中とか、俺をからかってくんの』

 私と夢子は同時にファミリーレストランのアルバイトを始めた。琢斗先輩と知り合ったのも同時期だ。彼はバイトの先輩で、私たちを優しく指導してくれた。

 いつの間に差が出来てしまったのだろう。名前の呼び方も、いつの間に変わったのだろう。

 夢子は確かに可愛い。化粧も上手で、スタイルもいい。話し方はふんわりとしていて女の子らしいけれど、慣れた相手には容赦なくズバズバと物を言う。人懐こいが、最初から相手に媚びて接することはしない。考えて物を話すわけでもないから、それが天然だと周囲は評価する。

 あぁ、圧倒的に負けているじゃないか。私は。

 地味で目立たない、パッとしない。話し方だって、接客以外じゃ淡々としているし可愛げの欠片もない。差が出るのは当然。夢子の引き立て役だと言われていそう。

 だから「私じゃ、ダメですか?」なんて恋愛ドラマでよくありそうなセリフを吐くことは出来なかった。

『あぁ、駄目だ。俺、夢子ちゃんが超好き……諦めるの無理そう』

 彼は私の耳元で嘆く。しきりに息を吐き、沈黙する。

 だから――

「そういうの、本人に言えばいいじゃないですか」

 つい、言ってしまった。

 同時に、情けなく、妬いた。友人に嫉妬した。敵うはずもないあの子に、身の程も知らず。

 幸いにも私の汚い気持ちは電話越しに伝わらなかったらしい。琢斗先輩は『うーん』と煮え切らない。

 だから、私はまたも囁いた。それはさながら、悪魔のように。

「夢子、どうも彼氏と上手くいってないみたいだし。奪っちゃえばいいじゃないですか。あの子を」

『え?』

「好きなんでしょう? だったら、夢子を振り向かせるんです。彼氏よりも俺を見てくれって、そうアピールしましょうよ」

 嫉妬の悪魔だと、今なら思う。


 ***


『今、終わったよ。夢子、もうバイト?』

 大学の正門前でスマートフォンをいじる。LINEを送ってみると、夢子はすぐにメッセージを返してきた。

『おつかれー! まだ買い物してる〜。あ、琢斗先輩も一緒だよ♪』

 その文面を見て、私は彼女たちの幸せそうな画を思い浮かべた。

 二人は、まだ付き合っていない。でも、毎夜のセックスは欠かさず行われる。

 私が先輩の家に転がり込んだ翌日、バイト終わりに夢子も先輩の家についてきた。「カナが心配だから」と優しい夢子は私と一緒に琢斗先輩へお願いした。

「カナをよろしくお願いします!」

 しばらくの間だけ泊めてもらうこと。絶対に手は出さないこと。それを夢子に約束させられていた。

 先輩の家にはこれまで何度か来ていた。友達やバイト仲間を集めて何度か家に泊めてもらうことがあったから、大して特別な感情は持てない。それに家を見つけてすぐに出ていくつもりだった。夢子の家にも泊めてもらおうとも考えていた。

 だけど、先輩は優しく私に言う。「ずっと居てもいいよ」と。

 一人暮らしが寂しくて、よく友人を連れ込むんだと先輩は言っていた。だから、私もそのうちの一人なのだ。ただ、私がいると夢子もついてくる。「カナを守らないと」と張り切って。

 それを先輩は分かっていた。私も同じく。そうなることは分かっていた。

 夢子が先輩の家に来るのは、数日置きだったけれどそのうち間隔が狭まっていき、彼女も居座ることになるのはそう遅くはなかった。

 同居生活も、今日でもう三ヶ月。シフトを見てその長いようで短い期間を実感した。

 画面をスライドさせ、またLINEのトークへ戻る。

 十八時までには時間がある……二人と合流してもいいけれど、先輩の邪魔をするのは気が引ける。

『私、先にバイト行くわー。また後でね』

 そう、返すしかない。

 まったく。私は馬鹿だ。一体、いつまでこんなことをするつもりだろう。心に秘めておくつもりだろう。毎夜の情事を、いつまで知らないふりしておくつもりか。何食わぬ顔で居続けるつもりか。

 二人の距離が近くなればいい、そう願いながら、悪意を育てる。醜い嫉妬で固くなった心臓を取り出して思い切り叩き壊したい。気持ちがぐらぐらと相反する。

 でも、もう、取り返しはつかないんだ。

 1Kの部屋。先輩の家は、メンソールの匂いが充満している。それが次第に、ファンデーションや香水で塗り替えられていき、今では女二人の住処となっている。

 先輩は夢子に言われて煙草を控えるようになった。

「煙草くさいの嫌いって言われちゃった」

 そう嬉しそうに話す先輩に、私も笑顔を返す。彼はしきりに私へ報告するのだ。夢子がいない時間帯に。

 私と二人きりでいるのに、夢子ばかり。

 それに、彼は決して私に触れようとはしない。うっかり、ぶつかれば「ごめん!」と慌てたように、まるで脅迫されているように謝ってくる。別に、気にしなくていいのに。

 ――むしろ、その固い指で触って欲しい。首筋を撫でるように、頬をくすぐるように。あの子よりも私は胸が大きいから、抱き心地には自信がある。あの子みたいに細くはないけれど、この柔らかさに顔を埋めてくれたらいい。指の腹や手のひらで掴むように、乱暴に触れて欲しい。爪を立てて、ももにしがみついて、その真っ赤な舌で優しくなぶって欲しい。貴方が欲しい。

 私なら煙草の匂いも気にしないから。貴方が吸ったメンソールを口移しで味わいたい。

 ああ。

 それなのに、全部、あの子のもの。

 取って代わりたい。あの子になりたい。先輩が欲しくて欲しくて堪らない。

 二人が毎夜、重なり合えばそうなるほど、欲してしまう。

 二人の間を引き裂いて、めちゃくちゃにしたい。

 二人が泣いて、壊れてしまう様を見たい。見てみたい。

 二人をコントロールして、どちらも私のものにしたい。

 出来たらいいのに。でも、壊したくない。非情になれないのが悔しい。

 いつまでも、こうして三人で過ごすのも、実は悪くないと思っているの。


 ***


 トレーをふきんで拭きながら、ぼんやりとしていたからオーダーに気がつかなかった。

「おい! 店員!」

 人の少ない時間帯だ。私しかホールにいなかった。

「あ、はい。申し訳ございません」

 客に怒鳴られるのは何度かある。その度に、いちいちへこんで最初の頃なんか、客と社員どっちからも怒られて竦み上がったものだ。

 その時に……あぁ、そうだ。

 ――大丈夫。大野さんなら出来るようになるって。

 バイトを始めてすぐのこと。ぎこちない笑顔に優しい言葉を添えて、私を励ましたのは琢斗先輩だ。私の心が晴れた瞬間。初めてまともに会話した。そんな何気ない言葉が、今でも……黒く染まった愛情の奥底でしぶとく光を保っている。

「はぁ……」

 オーダーを受けてパントリーへ行くと、出勤してきた夢子と琢斗先輩が目に入った。

「お疲れー。あれ? カナ、どしたの?」

 いち早く私の表情を見抜く夢子。まったく、その鋭さは別のところで発揮して欲しいところだわ。

「あー……3番テーブル、ちょっとうるさいお客さんだから気をつけてね」

 私は夢子に忠告すると、琢斗先輩を見た。彼はキョトンと私を見返す。

「……おはようございます」

「あぁ、おはよう」

 バイト中は他人行儀。挨拶を交わして、その脇をすり抜けて私は厨房へオーダーを伝えに行く。

「――ねぇ、夢ちゃん」

「ん? なぁに、先輩」

「……――」

「……」

「――」

 背中に当たる、至福の声。

 先輩、良かったですね。

 私のおかげじゃないですか。こうなったのは。こうなれたのは。あの子と親密になれたのは。私のおかげですよね。私が我慢して協力したのだから、こうして貴方は幸せになった。あんな辛そうな声で私に、あの子への愛を嘆かなくて良くなった。

 毎日、毎日、毎日、毎日、いつも、私の上であの子を抱いて、濃厚な愛を囁いて、その幸福感に浸っている。

 だから。

 もう一度だけ、私にもその笑顔を向けて。優しさを向けて。

 それくらい、ちょうだいよ。私にも、ご褒美を――


 ***


 それを望んでしまったのが、罪なのか。

 私たちの共同生活は急に幕を閉じた。

 壊したのは私じゃない。二人が勝手に壊れただけだ。

「あたし、明日、家に帰るね」

 夢子の震えた声が、夜の世界にふわりと浮かんだ。ベッドの中で、絶頂を迎えた二人の間に冷えた空気が漂う。それを私は床に敷いた布団の中から感じ取る。

「もう、泣かないでよ。お願い、分かって」

 夢子は慈愛に満ちた呆れを囁く。すると密かな啜り泣きが沸いた。

「どうしても? 俺じゃダメなの?」

「うん……ごめんね」

 サラリと、シーツが擦れ合う。

「夢ちゃん」

 先輩の縋るような声が夢子に埋まる。そのくぐもった声を、私は息を潜めて聴いた。


 夢子はあっさりと彼氏の元へ帰っていったという。

 それを、バイトが終わった後、先輩の家で聞いた。いつも彼女を抱いていたあのベッドの上で放心している。そんな弱々しい彼を、私は情けなく感じた。

 同時に、夢子への怒りが沸いた。

 先輩に愛されていたくせに、そんな彼を捨てるなんて……と。私がどんなに欲しても手に入れられない彼の全てを奪っておいて。

 抜け殻のような彼を、私はただじっと見つめた。黙ったまま。沈鬱に。

 傷心の彼を抱きしめるなんて、おこがましくて出来なかった。度胸がなかった。毎夜、醜く欲したはずなのに、手を伸ばすことが出来なかった。

 あぁ、私が彼を壊したのかもしれない。そんな風に思えて、怖くなった。あの子を奪え、と囁いたことを悔やんでしまった。

 あれほど壊れてしまえと望んでいたくせに、いざ目の当たりにすれば嫉妬は臆病に息を潜めてしまった。

「――ねぇ、カナちゃん」

 彼は哀をにじませた声で私を呼ぶ。その甘えた声。泣いて枯れかけた小さな声。

「こっちにきて」

 彼のささくれた唇がそう動いた。

 ダメだ。その誘いにのってはいけない。それなのに、私は軽々しく近寄ってしまう。潤み、よどんだ目を覗き込めば、理性が飛んでいく。

 ギシギシ、とベッドが軋む。

 あの子がいた場所へ、私は横たわる。彼に背を向けたまま。そろりと手が伸び、彼の腕が私の腰に巻き付いた。

 ひやりとした温度。それが段々と、私の体温と混ざり合う。

 指が、服の中をくぐった。手のひらが胸を滑る。ゆるりとした愛撫でに全身が痺れる。動けない。振りほどけない。

 ぬるりとした感触が首筋を伝えば、思わず息を漏らした。

「……大丈夫」

 甘く掠れた囁き。それが耳朶みみたぶに触れた。

 息に混ざる密やかな苦味。布の中で動く手、足。その度に擦れる薄いシーツ。触れ合う肌。漏れる息……それがフッと、軽くなったかと思えば、苦しげに喉を鳴らす。段々と、細切れに、激しく。それは紛れもなく二つあり、リズムが重なっていく。冷たかったシーツも二つの体温で熱を持つ。胸を掴む手が、今度は下腹部へと落ちた。

 もっと。もっと欲しい。貴方を味わいたい。欲しくて欲しくて堪らなくて、気が狂いそうだった。手に入れたかった。

 あぁ、貴方の味がする。透き通るようなメンソールが、私の唾液に混ざっていく。それを飲み込んで私の一部にする。こくりこくりと口移しに取り入れる。

 私の上で、彼はふるりと揺れた。その振動が僅かに痛みを伴う。それでも、苦ではなかった。

 私に覆いかぶさる彼の胸。絶頂が待ち構えていた。

 あぁ、私が欲しかったものが今、私のものになる。全部。何もかも。あんなに我慢していたんだもの。ようやく、手に入れ――

「夢ちゃん、好きだよ」

 残酷な言葉が、耳の奥へねじこまれた。


 初恋は実らないってよく言うけれど、本当にそうだと思う。

 私の初恋それは実ることなく地面に落下し、ぐしゃりと押し潰れてしまった。そこから根が伸び、やがては悪意が芽を出して、蔓を張り巡らせ、大きな葉を茂らせて、熱した心を冷ます。

 今までありがとう。

 でもね、

「さようなら、先輩」

 冷え切った声が私の口から飛び出した。

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