今夜、君色に染まる

 ――夏の終わりが近づくと、僕はまた、彼女の姿を探して涙を流す。


 あれは、中学生の頃だった。

 進路が決まらず、なかなか受験にも本腰を入れられない僕は親に反発しては家出を繰り返す日々を送っていた。

 僕を理解する者などいない。孤独な人間。ちっぽけで、地面を這う蟻と似たそんな存在なのだと。

 行き着く先は決まって学校だった。

 まだセキュリティも甘く、フェンスや校門を乗り越えれば忍び込める、そんな時代のことである。

 校舎内にはさすがに入り込めるはずがなく、校庭をうろついては行き場のない怒りや悲しみ、悔み、そんな熱を持った感情を沈める。

 しかし、この日はどうにも熱は引かなかった。抑えきれない。どこかにぶつけたい。自暴自棄になる。夏のせいか。いや、それだけではないはずだ。

 街灯が照らす、校庭の隅にあるプールが目に映る。

 あぁ、あの冷たくて心地よい水の中に体を委ねれば、どんなにいいだろうか。熱は引くかもしれない。

 フェンスで仕切られているが、易々と侵入を許してしまう甘さに今は感謝する。

 キラキラ光る水面は孤独な僕を手招きしているようだった。街灯だけでなく、月明かりが水面を照らし出す。

 覗きこめば、闇色に染まった水に僕の歪んだ顔が浮かび上がる。ツンと、塩素の鼻をつく匂いすら、今の僕には心地良かった。

 掌で歪んだ顔を撫でる。あぁ、また歪んだ。心を表しているように思える。

 ユラユラと危なっかしい、そんな思い……

「あぁ! 見つけた! こんなとこにいたのね!」

 静かな、静かな夜の世界に聞き覚えのある声が響いた。

「しずく……」

「もう! 散々探したんだからね!」

 学校の外にそびえるフェンス越しに、その娘はいた。

 黒く艶めかしい綺麗な髪の毛なのに、本人は邪魔だと言い張って切りすぎた前髪を晒して闊歩する。

 今は多分、風呂上がりなのだろう。ラフな半袖のパーカーに、七分丈のスウェット地であるズボンを履いている。女の色気なんてゼロに近い。

 彼女は走って校門まで回りこみ、数分後には僕の視界に舞い戻ってきた。プールのフェンスをよじ登り、わざわざ僕の目の前までやって来る。

「ほら、帰ろう? おばさん、心配してたよ」

「いいよ。あんなクソババァなんかに会いたくない」

「コラ! そんな言い方しないの!」

 まるで姉のような言い方だ。しずくはいつも僕を弟のように扱う。同じ年で、同じ誕生日、血液型も同じ、星座だってそう。それなのにだ。

「いいよ。今日は。もう、帰らない。あんな家」

「そんな我儘言わないでよ……」

 僕が頑として動かないので、しずくは参ったと言わんばかりに困った顔をしてみせた。

「しずく」

「何?」

「僕、もう……疲れた」

 プールサイドに胡座を掻いて、僕はふてぶてしく言った。闇色の水面は時折、光を反射させているが目に映るのは歪んだ僕の顔だけだ。

 傍らでストンと、小さな衝撃を感じる。僕はチラリと目線を動かした。しずくが膝を抱いて座り込んでいる。

「そう……分からなくはないわよ……それはね」

「しずくに分かるなんて思わなかった」

「失礼だぞ」

 月明かりを浴びたしずくの白い指が僕の肩に触れる。

 ツン、と爪で突かれているが、僕の肌が少しへこんだだけで特に何も痛みはない。とは言え、僕の心は突かれただけで壊れそうな程に脆かったが……しずくの前でメソメソと泣いていちゃ、また弟のようにぞんざいな扱いを受けるだけである。

「何があったの? って訊いても言ってくれないんだよね?」

 さすが。僕のことをよく分かっている。

「うん。言いたくない」

「はぁ……しょうがないなぁ」

 しずくはようやく、乾いたプールサイドに尻をつけ、サンダルを脱いだ。

 ユラユラと歪む僕の顔の上に、彼女の白い足が撫でるように水面を掻き回す。パシャン、と飛沫を上げて、わざとらしく足をバタつかせた。

「うぅーん、暑かったから丁度良かった」

「そう?」

「うん。ほら、冷たいよ」

 そう言ってキラキラの水を両手ですくい上げると僕の顔を濡らした。

「うわぁっ……おい……普通、顔面狙うかよ」

「えぇ? だってそんな顔してるからさぁ、少しは熱も冷めるでしょう?」

 お見通しなわけだ。

 しずくは、いつもそうだった。

 無邪気に笑って、僕の不安を押し込める。

 決して全てを消し去ってくれるわけではなく、心に僅かなモヤモヤを残してくる。

 そのはっきりしない、もどかしい感情を残して、その姿形を僕の瞳に残して、彼女はいなくなってしまった。

 もし世界に神様が存在すると言うのなら、あの娘を創りあげたのは、どんな公式の解でも、考えて考えて解き明かした答えなんかよりも遥かに上回る程の正解だったと思う。


 ***


 連日の重ねに重ねた塾三昧の日々に、やはり嫌気が差してしまった僕は、この日も家を飛び出した。

 父親の怒号、母親のすすり泣きにはウンザリだ。

 僕の人生なんだ。僕が決めたっていいじゃないか。何故、あの人たちに全てを決められなくてはいけないんだ。

 どす黒い感情は塊になって僕の口から吐き出されていく。

 ――くそ、くそ、くそ……っ!

 やってられない。もういい。こんな日々が続くのなら、パッと消えてしまってもいいじゃないか。

 いつもの、学校へ向かう。足が無意識にプールへと運んでいく。


 何時間経ったのだろうか。

 夜もとっぷりと更けて、空は黒々と闇色に包まれている。月明かりだけが光源になっており、揺れる水面に反射していた。目が眩みそうだ。

 だが、それが心地いいと感じられる分、僕の熱は大分引いたのだろう。

「あぁ、やっぱり。またここにいたのね」

 しずくの声が背後から聴こえた。

「来たんだ」

 分かっていた。彼女が僕を探しにくることくらい。だから、この言葉の不自然さに気づいて苦笑してしまった。

「帰ろう?」

 同じセリフを何回聴いただろうか。

「いやだ」

「またそんなこと言って……」

 しずくはおもむろに着ていたパーカーのジップをシャッと開くと、温もりを残したその布をプールサイドに放った。

「え? ちょ、しずくっ?」

 吃驚して声が裏返る。

「何よ。ちゃんと水着、着てるわよ」

「いいいいや、そういうわけじゃなくて……なんで……?」

 いつもと違う展開について行けない。しずくは学校指定の紺色の水着姿で、僕を見下ろしていた。

「あなたがいつまでも駄々をこねるから、私だって飽き飽きしてたのよ。熱が引くまで私は泳いでいるから」

「意味が分からない!」

 静かな、静かな夜の世界に僕の声が響き渡る。しずくは自分のふっくらとした唇に人差し指を押し当てた。

「静かにしないと、誰かに見つかったらどうするの?」

 誰のせいでそうなったと思っているんだ。あぁ、いや、僕のせい、なのか。

 パシャン、と白い足が水面を撫でる。授業で言われる通り、彼女はきちんと足先から水を掛けていく。

 僕はその姿を見ることは出来なかった。見られるわけがなかった。

「何? 体育の授業でいつも見ているでしょ? こんなの」

「いや……でも……さ」

「昔はよく一緒にお風呂に入った仲だって言うのに……どうしてそんなに意識するの?」

 しずくの声は呆れにも似ていたが、どこか面白がっているようだった。負けた気分になる。腹立たしい。

「そんな昔の話なんか覚えてないよ」

「へぇ? 覚えてるんだ。やっぱり」

 何故そうなるんだろう。覚えてないと言っているのに。

「覚えてない」と言い張る、ということは「覚えている」と暴露していると言っても過言ではないことに、この頃の僕は気づかなかった。

「よし。水にも慣れたし、泳ぐぞ!」

 意気込みが素晴らしく、気がついた時には大きな飛沫を上げて彼女はプールの中へ潜った。

 腕時計を見ると、只今の時刻は夜中の一時。

 こんな時間に外へ出歩くしずくの両親は一体、どう思っているんだろう。幼馴染の僕を探しに家を出て、心配されないのだろうか。

 確かに、昔から両親は仕事で忙しく、僕の家にしずくを預けていたが、だからと言ってこんな夜更けに中学生の女の子が出歩くのは良いはずがないのだ。まず、両親がこの事を知っているのかどうか疑わしい。

 放任な家庭環境が分からない、僕にとっては頑張っても想像力は働かない。

 今や、疑問だけが僕の脳を支配していた。

「ねぇ、しずく」

 優雅に綺麗なフォームでクロールを披露する彼女に、僕は少し声を張って呼んだ。

「こんな時間だけど、大丈夫なの?」

 しずくは動きを止め、鎖骨辺りから上を水面から覗かせた。プルプルと頭を振って、髪の毛に滴る水を僕の顔面に飛ばしてくる。

「どんな時間なの?」

「いや、だからさ、もう1時だよ。両親は心配してないの?」

「それをまさかあなたから言われるなんて思わなかったわ」

 うん。僕も人のこと言えない気はしていた。でも僕は男だし、しずくは女の子だ。心配の量はその性別の差で遥かに変わってくる。

「ないよ。実を言うとね、私も……同じなんだ」

 寂しそうな声は水の清らかな音のせいで掻き消されてしまう。荒れた水面が、彼女の声を吸い取ってしまうかのように。

 しずくはゆっくりと、水の抵抗に逆らって僕の近くまで来た。

 その艶めかしく滑らかな黒髪が、月明かりを浴びて輝く。

 切りすぎたはずの前髪が眉の下まで重たく伸びて、彼女の額に張り付いている。睫毛に水滴がくっついているのが、よく分かるほどに彼女は僕の近くまで来ていた。水の抵抗を最大限に使って、僕の目の前まで……

 唇が触れた時、僕の視界は彼女の黒く澄んだ瞳の色だけになった。


 ***


 交わしたキスの後、僕としずくはお互いに顔を見せることが出来なかった。

 初めてのその行為は、自分がまだ中学生なのだということを忘れ去ってしまう。

 しずくとはただの幼馴染のはずだった。

 確かに、昔、お風呂も一緒に入った仲だけれど、それは性別なんてものを感じることのない幼い頃の記憶であり、酷く曖昧な、ノイズの入った映像に過ぎない。

 ぼうっと考えるには鬱陶しい、太陽の熱が火照った体にまとわりつく。

 塾からの帰り際、あの時の余韻に浸っていたせいでテストの点がすこぶる悪いことに落胆しながら、家の戸を開けようとズボンのポケットをあさっている時。丁度、隣の家から見覚えのある黒髪の少女が出てきた。

 紛れも無い。しずくだ。

「あ……お、おかえり」

 目を逸らす。多分、彼女もそうだ。声が上ずっている。

「ただいま」

 家が隣同士だということをこれほど恨めしく思ったことはない。キスの感触が蘇り、顔から火が出るほどに熱かった。しばらく無言が続いたが、お互い動こうにも動けず、その場に立ち尽くしたまま。

 なんとか話題を探そうと躍起になり、僕は乾いた口を開いた。

「……どこか行くの?」

「えっと……うん。そう。今から映画を観に行こうかなって……」

「そう……一人で?」

「うん」

「え?」

 思わず顔を上げた。真っ赤だっただろうが、そんなことはどうでも良かった。

「一人で?」

 もう一度訊いてみる。彼女は首を縦に振った。

「一緒に行く子がドタキャンしちゃって……お金も勿体無いから一人で行こうかなって……あ、どうせなら一緒に行く? 暇でしょ?」

 しずくは映画のチケットをちらつかせて、僕の顔を見た。

 途端に彼女の白い肌がみるみるうちに赤くなる。キャミソールから顕になっている細い腕までも、赤に染め上げている。

 そんな彼女の姿を見ると、自分の熱が意外にも引いてしまい、むしろ気が楽になってしまった。悪戯を思いついた子供のように、ニヤリと笑みが溢れてしまう。

「いいよ。どうせ暇だし」

「え? ほんと? 良かった!」

 しずくの綻ぶ顔に、思わず胸が締め付けられる。僅かな、それもごく短い締め付けは、今までに感じたことのないものだった。

 こんな顔をして笑うんだ。幼馴染のくせに、そんなことも知らなかったのか。僕は一体、彼女の何を知っているのだろうか。


 映画館の暗がりのおかげで、僕は彼女に「顔が赤い」と茶化されることはなかった。

 二人でどこかへ行く、なんて小学3年生の夏休みに近所で遊ぶ以来なく、並んで昼日中の道を歩くこともない。何もかもが初めてなのだ。

 ――初めて。

 その単語を脳裏に浮かべた途端、僕の胸は益々締め付けられた。

 何を考えているんだ、僕は。しずくなんか、別に興味なんてないのに……

「どうしたの?」

 隣に座るしずくが僕の顔を覗き込む。サラサラと長い髪の毛が僕の腕を触った。

「何が?」

「いや、だって、ずっとソワソワしてるし……映画館来るの、もしかして初めてだったり?」

「ば、馬鹿言うな!」

 思わず大声を出した。幸いなことに映画はまだCMの段階で観覧者が少数だったのもあり、注目を浴びることは比較的無かったが、それでもマナー違反なので周囲の人間には会釈して謝りの姿勢を見せる。

 しずくはと言うと、驚いたように僕を見ていた。

「ただの冗談よ……」

「うん。ごめん」

 長く息を吐いて落ち着かせる。

 考えないようにしよう。それが一番いい。どうして、あの時キスをしたのか、ということも奥深くに仕舞い込んで……

 上映開始の合図か、仄かな電灯すらもジワジワと消える。

 映画の内容は恋愛の感動モノで、僕にはこれっぽっちも良さが分からなかった。

 お互いにすれ違い、喧嘩しつつも最終的には付き合うことになるのだが、気持を確かめ合ったと同時に、女の子の方が事故で死んでしまう。そんな悲恋だった。

 でも、画面の向こうにいる女優や俳優の演技は確かに良かったと思う。それだけしか分からない。

 周囲にはすすり泣くような、水っぽい音が聴こえていたが、僕にはやっぱり分からなかった。

 隣を見てみる。

 しずくは……やはり涙ぐんでいた。無意識なのか、左右の肘置きを陣取っていた僕の腕に手を触れる。

 熱を感じた。その熱は徐々に僕の指先まで伸びる。指と指が絡みつく。振り払うことは出来なかった。

 この広く、暗い世界に二人だけでいるような気持ちになった。同じ体温を感じる。それだけで、胸は更に締め付けられる。

 平凡な映画の内容なのに、少しの感動すら湧かなかったのに、しずくに触れられるだけで涙腺が緩んでしまった。

 僕はそれを隠すため、目を瞬かせ、一滴も零すまいと瞼に力を込めた。


 映画館から出ると同時に、僕たちは酷い夕立に遭った。散弾銃のように降り注ぐ雨が、目の前でけたたましく音を立てる。

「うわぁ……ひどいな……」

 唸りを上げる水飛沫に僕の声はどうやらしずくの耳には届かなかったようで、何の反応も示さなかった。

 何故だろう。目を、その瞳を輝かせて地面を叩く水飛沫を眺めている。

「シャワーみたいだね」

 そう言って、僕が止める間もなく彼女は踊るようにステップを刻むように、雨の世界へ足を踏み入れた。

「しずく!」

「いいじゃない。暑いんだし、丁度いいわ」

「だからって……」

 風邪でも引いたらどうするんだ。馬鹿なのか。

 仕方なく、しずくの後を追って僕も雨の中へ踏み出す。

「フフフッ。どうせすぐに止むわよ。ただの夕立だもの」

 何が面白いのか分からない。しかし、楽しそうにはしゃぐ彼女の姿を見て、僕は息を止めた。

 雨に染まるしずくは美しく、僕の瞳にその姿を焼き付ける。昨夜の映像が鮮明に蘇る。

 何故だろう。

 今の彼女は無邪気に笑う子供のようなあどけなさを振りまいているのに、昨夜の、哀を浮かべたキスと重なってしまう。

「あのね」

 散弾銃の雨を掻い潜るように、高く澄んだ声が僕の耳を通り抜ける。我に還って僕はようやく身体の自由を取り戻した。

「あのね、私…………」

 雨は残酷だ。何も、その言葉を伝える為に止まなくて良かったのに。雨に紛れてしまえば良かったのに。耳障りな音を探して、しずくの言葉を消そうとする自分がいる。突き刺さった槍が毒を含んでいたようで、ジワジワと僕の心を蝕んでいく。

 ――私、夏休みが終わったら引っ越しちゃうんだ。遠くの街へ。

 一緒にいるのが当たり前だったからか? 昨夜、キスを交わしたからか? 彼女のことが好きだからか?

 何故、こんなにも重たくのしかかってくるのだろう。

 そして「好きなんだ」と自覚した事に気づく。酷い。こんな言葉で自覚なんてしたくなかった。僕の、僕だけの世界が止まってしまった。残酷な事実に身震いする。認めたくない。

 何故? どうして?

 どんなに鮮やかな色ですら、混ざれば全て黒になる。 

 色々な思いが混じり、ぶつかり、僕は立ち尽くすだけしか出来なかった。


 別れの時間は刻一刻と迫ってくる。もう、進路や家のことなどどうでも良かった。

 また家出してしずくの気を引こうか、なんて幼稚な思いつきもすぐに消しては浮かべ、消しては浮かべ……随分と無駄に時間を食い潰していた。

 今生の別れではないのに、ただ、彼女は引っ越して遠くの見知らぬ地へ行くというだけなのに、妙に気を落とさずにはいられない。言い聞かせても僕の頭や心はそれを受け入れない。

 あぁ、またそうやってウジウジと思い悩む事が不甲斐ない。

 僕は一体、どうしたいのだろう。付き合いたい、という気持ちはどこにもない。探しても見つからない。

 ただ、一緒にいたいだけだった。それだけで良かった。同じ毎日を繰り返すだけで今は、まだ幸せでいられるのだ。

 僕は、冷たい部屋の中に閉じこもってぼんやりと天井を眺めながら、そんなことを考えていた。

 しかし、その暗い思考は一瞬にして吹き飛んでしまう。

「やっほー!」

 最大の悩みの種である、しずく本人が明るい声で堂々と僕の部屋へ押し入ってきた。

「なんだなんだ。そんな浮かない顔をして!」

 ――誰のせいだと……。

 しかし、そんなことは言わない。そっぽを向いてあからさまに不機嫌な顔をしてみせる。

 彼女は僕の目の前に透明な袋に入った何かをぶら下げて振った。

「そんなあなたにプレゼントを与えましょう!」

 やけにしずくはテンションが高い。目の前に提げられたその袋と中身を見て、僕は呟く。

「花火?」

「線香花火!」

「見たら分かるけど……それに、そういうつもりで言ったんだけど……」

 僕の発言をわざわざ訂正してくるしずくに、僅かな鬱陶しさを声に現す。

 それでもしずくはめげない。

「ね、今日さ、花火しようよ。ほら、今まで夏祭りとか花火大会とか、一緒に行ったことないし……」

「それなのに線香花火でいいの?」

 しずくの言い訳がましい声色に、僕は眉をひそめて訊く。

「しかも……なんで僕と? 他の友達とか誘えばいいじゃん。もうすぐ引っ越すんだし……」

 嫌な言い方だ。改めて自分の小ささが分かる。

 やはりしずくは、苦笑いを浮かべた。頼りなく眉を下げ、無理矢理の笑顔を僕に向ける。

「わ、私……もう、友達には会わないから……決めてるの。お別れが寂しいから、ね」

「何それ」

「別にいいじゃない……ほら、もう! やるって言ったらやるの! 晩ごはん食べたらね、絶対だからっ!」

 しずくは花火の袋を僕に押し付けて、慌てるように口走ったかと思うと僕の部屋から出て行った。

 冷たい部屋に取り残された僕は、呆気にとられたまま荒々しく閉められたドアを眺める。

 チラリと花火の袋を見やった。

 赤、青、黄色、色とりどりなコヨリの束が透き通った袋から僕をジッと見つめている。素直になれ、と説教じみた声が聴こえるようだ。

「……うん。そうだよな」

 もう、時間はないんだ。いつまで誤魔化しているつもりなんだ。

 古い木の机に載せている目覚まし時計を見る。カチカチと規則正しい時を刻むその秒針を目で追いかけながら僕は、約束の時間を待つことにした。

 その日、僕は「初めて」彼女の唇に触れた。

 彼女からではなく僕から。

 パチパチと弾ける線香花火の光は、風船のように膨らみ、徐々に重みを増していく。

 滴が落ちるように、その光は固いアスファルトへ吸い込まれる。その際に光を失って、残るのは仄かな煙の匂い。

 その匂いが鼻を通り抜けた時、その瞬間、僕の唇は彼女の唇を求めていた。

 夜の闇が手伝ってくれたこともあり、僕としずくは瞳を潤ませて、最後の時間を惜しむことにした。


 ***


 線香花火のようにあっという間に燃え尽きて消えてしまった、あの大切な時間を思い返しながら、僕は彼女を見送った。

 そして夏休みが終わると同時に、彼女の家はバラバラになった。どうやら、両親の離婚が決まっていたらしく、しずくは母親に引き取られていったらしい。

 その話をしてくれたのは勿論僕の母親で、ウワサ程度の情報に過ぎなかった。

 十五年間……実際は、お互いを認識し合ったのが物心ついた時期だから正確な年数は分からないが、それほど長い時間、彼女と一緒に過ごしたことは間違いない。

 当たり前のように毎日顔を合わせていたので、しばらくはいつもの癖で何の気なしにしずくの姿を探していた。

 学校へ行く時も、帰る時も、塾へ行くときも、家出して夜の街を彷徨う時も、いつだって心の中にはしずくが潜んでいた。

 だから隣の空っぽな家を見る度に、冷水を被ったような、そんな錯覚に陥ってしまう。

 あぁ、もう彼女はいないのだ、と。

 当たり前だった日々はとうに過ぎ去ったのだ、と。落胆している自分が毎日、その場所に居座っていた。

 連絡先は、勿論知っていた。だから、電話しさえすればいつでも彼女の声を聴けるはずなのだ。

 しかし、僕も彼女もそんなことはしなかった。

 何故だろう。

 気恥ずかしさがあったのだろうか。違うな。そうじゃなくて……電話をして彼女の声を聴いたりしたら、会えない寂しさともどかしさと苦しさが押し寄せてきそうだったから。

 触れ合えない、目に映らないという事実を突きつけられて、それを認めるのが怖かったのだ。

 そうやってしばらくはセンチメンタルに、さも自分は物語の主人公を気取って、中学生活を終えた。

『今度ね、そっちに遊びに行くんだ』

 唐突な連絡は、親の言うとおりに進んだ高校へ通うようになって四ヶ月が過ぎた頃だった。

 アルバイトをして、コツコツとお金を貯めて、わざわざ会いに来ると言い出したしずくに、僕は案の定、舞い上がってしまった。

 久しぶりに聞く声は相変わらずで、たったの一年ぶりだというのに幼い頃を思い出すような懐かしさに駆られる。

 思春期の一年、というのはとても長い時間だ。

 色々な事があり、彼女が引っ越した当時のおこがましい哀愁は漂っていなかったように思う。

 しかし、どこかふと、頭に思い浮かべるのはしずくの笑顔で、やはり僕は彼女の事が忘れられないのだと改めて思い知った。

 約束の日は、週末の休日。

 待ち遠しく、その日を夢に見て、浮足立って、僕は彼女との再会に臨んだ。


 しかし、彼女は来られなかった。

 来なかった、のではない。来られなかった。

 だって、彼女は……のだから。

 そう。約束の日、事故に遭ったという。

 待ち合わせの時間に遅れるから道路を横切り、右折してきた車に轢かれたのだという。なんともフィクションじみた、ありそうでないような事実である。

 慌てなくても良かったのに。

 いつまでも僕は待ち続けていたのに。

 今だって、まだ待ち続けているのに。

 彼女がいなくなった世界は、無色だった。僕の目の前からいなくなっただけでなく、世界からもその存在が消えてしまったのだ。

 何故、僕は最後のあの日に彼女を抱きしめなかったのだろうか。会いたくて、触れたくて堪らなかったはずなのに、どうして、どうして僕は……。

 ポケットに突っ込んだ手を握りしめ、僕はあの約束の日になると、決まって中学校のプールへ足を運ぶ。

 家出を繰り返していた僕と彼女が心を通わす救いの場所である。

 毎年、毎年、僕はあのプールへ忍び込んでは彼女が迎えに来てくれるのを待ち続けていた。

 でも、しずくは来てくれない。分かっている。それくらい、頭では理解しているんだ――





 ***


 深夜バスの揺れが止まると同時に、僕の思考が動きを止める。

 さて。

 この追憶もここで終了となりそうだ。

 約五時間かけて、僕は故郷に帰ってきた。

 高校を卒業して大学へ進学すると同時に僕は、この地に寄り付くことはなかった。

 まさか、結婚の報告をするために帰ってくるなんて、町を出たばかりの頃は思わなかったが。

 あれだけ、彼女が僕の心を支配していたのに、時間というものは本当に残酷なものだ。感傷に浸ることも許さないのだから。

 それだけ僕の感覚が鈍くなってきたというのだろうか。いや、そんなことは僕の心と過去が許さない。

 既に日付が変わっており、少々の熱はあれど、昼間の都会の暑さなど微塵も感じない程に涼やかな夜だった。

 駅から一直線に行くと、例の中学校、母校が見える。静かな月夜はあの頃のように僕の心を現す闇そのものだ。

 真っ直ぐ実家へ帰るはずだったのに、僕の足はピタリと止まった。

 目線の先にあるのは月明かりに照らされてキラキラと光りを放つプール。手招きするようなあの水面。フェンス越しに見えたのはそれだった。

 僕は何も変わらない。心をあのプールに置き去りにしたまま、身体だけが成長してしまっている。

 それも今日で終わり。心を取り戻さなくてはならない。その為に帰ってきたのだ。

 深夜のプールはあの頃と同じで誰もいないが、それでも、十年も経てば簡単に僕を受け入れてくれるわけがなかった。

 探しても見つからないのに、それでもまだ僕は無意識にしずくを探してしまう。だからだろうか。水面に、しずくの姿が浮かんだ気がした。

 いつの間にか頬を伝う涙で、僕の唇が濡れる。あの時、しずくがしたキスも濡れていた。

 あれは、彼女の涙だったのだろうか?

 今となっては知る由もない。やはり、彼女があの時にしたキスは分からない。

 涙で滲んだ世界が、彼女の色に染め上げていく。透き通った水のように透明なのに、色鮮やかで、褪せることはない。

 誰よりも綺麗で、美しくて、儚い思い出。

 決して楽しいだけではなく、むしろ息苦しいものだったけれど、それでも大事な思い出だ。

 あぁ、あの記憶が蘇りそうになる。冷たい水が全身を包むような感覚がして、僕は我に還った。

 もう、これで終わりなんだ。これが最後だ、と僕は言い聞かせた。

 彼女の色に浸るのはこれがなんだ。

「……もう、僕は君を探したりはしないよ」

 敢えて口にしないと決心が鈍りそうだった。頬も唇も湿らせたまま、僕は呟く。

 待っている。君をいつまでも。でも……

「もう探さない。そう、決めたんだ」

 あの日、彼女がキスをした二十五時が過ぎた頃、僕はようやく家路へと向かった。

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