25時の光

 遠くでパパンという、熟れた実が弾けるような、水が飛沫を上げるような、夏の夜の空に撃ち込まれるような光が上がる。

 それに目を奪われてしまえば不思議と足はそちらに向かっていく。

 だから、僕は――


 ***


「ねぇ――」

 それまで本の世界から帰ってこなかった一沙かずさが、少しかすれた声で言った。

「今日さ、夏草の森で花火が上がるよ」

「……は?」

 シャープペンをトントンとノートに打ち付けていた私は顔を上げてみる。少し日に焼けた肌が目の前に。一沙はぼんやりとした目を小説の下から覗かせていた。

「花火。上がるんだよ。夜中に」

「そんな英語の直訳みたいな言い方しなくても分かる」

「日本語が通じて何よりだよ」

 一沙はそう皮肉っぽく言うと、喉の調子が悪いのか顔をしかめて咳払いした。最近、声変わりしたらしい。もともと声質が高いわけでもなかったから違和感はないけれど、なんだか先に大人へ近づいてる感じがして、私は置いてきぼりの気分だった。だから、一沙が喋るたびに何かカンに障る。

「花火って……いつまでも子供みたい。あんなの一瞬じゃん。パッと散って終わりだよ」

れんは本当にかわいくないよね」

「名前が蓮の時点でかわいい要素は一つもない」

「どっちかと言えば、僕の名前の方が女の子っぽい」

「そうだよ。それなのに男だし。声が変わったからますますアンバランスじゃない? 変なの」

 言い過ぎた、なんてことは微塵も思っちゃいない。私はかわいくないから許される。そう思っていると、彼は口をつぐんでしまった。

「……何、怒ったの?」

「花火、一緒に見に行ってくれたら許す」

 そう冷たく返しながら、一沙は小説を机に置く。わざとらしく、私のノートの上に。数式を解いていたシャープペンの近くに。

 タイトルは「25時の光」。

「これさ、面白いの?」

 立ち上がる一沙に訊いてみる。

 柔らかい文庫本。淡い水色の飛沫が散ったような装丁。細い明朝の文字が横に並んでいるだけの、なんだか素っ気ない本。

 同年の子たちは漫画風のキャラクターが描かれた、いわゆるライトノベルを読んでいるのに一沙だけは静かに無表情で、でも目の奥を輝かせて文字だらけの世界を追いかけている。確か、ジャンルは青春。主人公の男の子がいろんな局面に立たされて、それでもガムシャラに頑張るっていう。

「……面白くはないかな」

 私の手にある文庫本を、彼はいとも簡単に否定した。

「じゃあなんで読んでるの」

「うーん……見た目がカッコイイから?」

 装丁のことだろうか。お世辞にもカッコイイとは思えないんだけど。

「よく分かんない」

「僕がこれを読んでるっていうその格好が、ほかの連中と違って大人っぽく見えるだろ」

「何それ」

 呆れたのは一沙がふざけているからだ。本は本なのに、そうやって線引するのはなんかムカつく。

「じゃあ、なんだ。この本は一沙のお飾りってこと?」

「そういうことにしといて」

 ふふふ、と小さく忍び笑いをする一沙。その仕草は幼い時と変わらずで、大人びてしまった彼とは不釣り合いに思えた。

「それで、花火は見に行ってくれるの?」

 話を逸らしたのに無理やりに戻してきた。私は本をベッドに放り投げて、一沙の手から遠ざける。そして、ノートに目を落としてそっけなく言う。

「行かないよ」

「じゃあ、さっきの言葉は一生許さない」

「いいよそれで」

「………」

 黙り込む一沙の顔を思い浮かべてみる。薄い唇をきゅっと結んで、薄い眉をひそめて私を睨んでいる。そうに違いない……ほらね。そういうところは昔から変わらないのに。何を急に背伸びしているんだろう。私を置いて大人になることの方がよっぽど許されない。

「――蓮」

 掠れた不安定な音が、影と一緒に私の頭に近づく。

「迎えにいくから、ちゃんとついてきて」

「ついてきてって……何、怖いから?」

 おどけて言ってみる。すると、一沙はため息を落としながら「あぁ、そうだよ」と仕方なさそうに返した。

「じゃ、僕は帰るね」

 私から遠ざかって、彼は部屋を出ていこうとする。

 こうして学校帰りに私の家に立ち寄るのはいつからだったか。一沙のお母さんが仕事で帰りが遅いから私の家に預けられる。それが日課になって、中学二年になった今でも無意識に足を運んでいる。

 階段を降りていき、「お邪魔しましたー」と気だるそうに言う彼の声が耳に届いた。


 一沙は、本当に午前0時に家へ来た。私の携帯電話に連絡を寄越して。

『降りてきて』と、私の拒否なんて聞き入れようともせずに一方的に通話を切ってしまう。

 なんだよ、あいつ。意味が分からない。大体、こんな夜中に花火が上がるなんて嘘も甚だしい。寝たふりをしていようか、とも考えてみるけれど窓の外を覗けば、見慣れた薄色のポロシャツがある。

 あぁ、待ってるし。しかも、私の部屋は電気が点いてるから起きていることはバレバレだ。

 私は、お母さんの部屋に届かないよう慎重に部屋の戸を開けた。そろりそろりと階段を降りて玄関のドアも静かに開けて、閉める。鍵がかかる音までは二階に聴こえない……かもしれない。そうやって少しの緊張感を味わいながら、目の前で佇む一沙を見やった。

「お母さん、大丈夫だった?」

 言葉とは裏腹にまったく心配していない軽々しい口調だ。

「大丈夫なんじゃない? でも、バレたら絶対に怒られるんだけど」

「その時はごめん」

 無責任だ。でも、不思議と私の顔は締まらない。少し、緩んでしまう。夜の匂いを鼻の奥に取り入れれば、どうにも気分が浮ついていく。暗さのせいで一沙が私の表情を読み取ることはなかった。それは私も同じで、一沙がどんな顔をしているのか分からない。

「じゃ、行こっか」

 そう言いながら私の手首を掴む。途端に、彼の熱が私の体温に混ざった。夜のせいか、それがなんだかくすぐったくて……気持ち悪い。でも、振りほどくことはせずにそのまま一沙に引っ張られて歩く。

「別に、手引かなくても良くない?」

「だって怖いし」

「怖いくせに夜中に外出るとか意味分かんない」

「なんか面白そうだったんだよ」

「矛盾」

「肝試し的なやつ。あれだって矛盾だよ。怖いけど楽しい、みたいな」

「……何それ」

 ただの幼馴染なのだから、一沙が私の手を掴むという行為が本当に気持ち悪い。でも嫌じゃなくて、心地は悪いけど、次第に「まぁいっか」という諦めが胸の中を巡った。

 夏の夜は昼間より温度は下がっているけれど、あちこちから聴こえる見えない虫の声は耳障りで昼間の熱気を連想させる。うっとうしい。

 この近辺は大きなマンションや一軒家が多い。そこから少し外れたら、昔ながらの溜池や木が見えてくる。地面は固いアスファルトだけど、あんまり整備は行き届いていない。

 夏草の森、とは小学校の遠足なんかで使われるだだっ広い公園のこと。家が近所なら普段でも子供が出入りするし、私も少なからず「穴場」みたいなものは知っていた。かくれんぼに最適な茂みがある。その奥には広くて静かな湖が――

「湖から花火が見えるんだよ」

 突然、黒の視界に彼の声が浮かぶ。前を行く一沙は少し振り返って私を見た。

「ねぇ、その花火ってさ、なんでこんな夜中に上がるの? 本当に花火が上がるの? なんでそれを一沙が知ってるの?」

 思わず矢継ぎ早に訊く。でも、一沙はクスクスといたずらに笑うだけで答えてくれない。だから私の機嫌は悪くなる。

「大体、花火を一緒に見たい、とか。本当に意味分かんない」

「分かんなくていいよ、別に。ただ、一緒に見るなら蓮がいいなって思っただけだし」

 何よそれ。そんなことを恥ずかしげもなくサラリと言ってしまうのが、無性にムカついて仕方ない。

「私のこと、好きなの?」

 そんなバカな質問をしてしまう始末だ。

「好きだよ?」

「それは、何? 友達として?」

「ほかに何かある?」

「……こいびと、みたいな」

「そういうの、僕は分かんないや」

 私も分かんないけどさ。

「うーん……でも、森山とか橋本が、女子の胸がどうの、誰なら付き合えるかなんて話してる」

「一沙のクラスの?」

「そうそう。あいつら、中学に上がった途端にそうやって言いだすもんだからさ。それまで女子なんか興味ねぇって言ってたくせにね。僕はまったくそういうの考えてなかったから、疎外感みたいなのはあるよ」

「ふーん?」

「急に色気づいちゃってさ。僕がいつまでも子供、みたいな言い方をしてくるんだ」

「一沙だって声変わりして背も伸びたじゃん」

 私よりも大人になってきたくせによく言うわ。

「ううん。そりゃ、体は成長してしまうけれど僕の中身は変わらないよ。自分のことを『俺』って呼べないし、お母さんのことも『おふくろ』って呼べない。大人になれないんだ」

「何その基準」

「でもさ、そういうことだと思うよ。大人になるって」

 そういうものなのか、大人って。

 私の中で「大人」というのは、なるべくしてなるものだ。とにかくハタチになれば大人の仲間入り。その年齢を越えさえすれば、どこまでも自由になれるはずだ。

 そんな風に考えていると、一沙が「あ」と声を上げて、何やら付け足すように言った。

「でもね、僕らはそれの準備中なんだよ。だから、子供でもないんだ」

 それはなんだか少しだけムキになったような言い方だった。それがどうにも、夕方の私と重なって見えてしまう。

 なんだ、一沙も同じなんだ。ちょっと見た目が変わっただけで中身はそのまま。

 私は、腕を掴む一沙の細い手首を触って握った。彼の肩が少しだけ上がる。

「……くすぐったい」

 文句が飛んできた。今度は私がクスクス笑う。

「一沙だって私の手首握ってるし」

「……蓮が急に指を伸ばすから」

「びっくりした?」

「した」

 ふふふっ。思わず笑い声を漏らした。

 夜は、信号も眠ってしまうらしい。それを知ってなんだか得意げになる。赤が点滅したままの信号を振り返りながら、私たちは無人の道路を歩いてどんどん夏草の森に近づいた。

 それまでに一沙はいろんな話をしていた。普段はここまでおしゃべりじゃないのに。彼もまた夜の世界に高揚しているみたいだ。

「光ってさ、見ていると近寄りたくならない?」

「やだ、虫みたい、それ」

「でも生き物は大体そうだよ。光に集まるものなんだ」

「私はこの夜の暗さにちょっとワクワクしちゃうけど。なんか、ほら、いけないことをしてる感じで」

 いけないこと、というか。なんだか大人になった気分。後でバレたら叱られるって分かっていても、今この瞬間は「自由」だ。

 私の言葉をどれほど汲み取ったのかは分からないけれど、一沙は面白そうに笑った。

「そうだね。後でバレたら怖いのに、どうしてだろう。なんかおかしくって笑えちゃう」

 普段はあまり感情を出さない一沙が、こうも楽しげでいるのは見ていて新鮮だ。

「だからさ、深夜に花火が上がったらそりゃあもう近づきたくなるわけで、どこで打ち上がってるんだろう? って好奇心が湧くよね」

「ふうん? それで誘ったんだ」

「うん」

 それにしても、どうして花火が上がることを知っているんだろう。訊こうと口を開きかけると、それを遮るように一沙が先に言った。

「僕はね、蓮。最近ちょっとだけ寂しいんだ」

「え?」

 歩調が少し鈍る。それまで逸るようだったのに、急にずしっと重くなる。

「寂しい、の?」

 お母さんが家にいないから? でも、それは前からだった。一沙の両親はいつも忙しくて、私の家に泊まることもあったけれど小学校高学年になればそれもなくなった。ただ、放課後は欠かさず私の家に来ているけれど。

 すると、彼の背中が小さくゆっくりと言った。

「寂しいんだ。なんか、無性に。変な気分」

「それがよく分かんないんだけど、私は」

「分かってよ」

 足が止まる。そして、一沙は振り返る。その顔は険しい。段々と口角を締めていき、泣くのをこらえるような表情へ変えた。

 でも、私にはやっぱり分からない。分かってあげたい気持ちはあるけれど、口は全然素直じゃないし頭も悪いんだろう。一沙の考えていることや感情が分からなくて黙り込んでしまう。

「……人ってさ、死んだらどこに行っちゃうんだろうって考えることがあるんだよ」

 また歩き始めた彼は、ポツリとそんな悲しいことを言い出した。

「なに、それ」

「うーん……なんか、さ。一人で本を読んでいると考えるんだよ。僕がもし、明日死んでしまったらこの僕の思いや感情は、一体どこにいっちゃうんだろうって」

「………」

「なんて言うんだろう。アニメや漫画で死んだ魂がどうとか、輪廻転生とか、幽霊とか、あるだろ? それに泣ける映画で、死んじゃった人の思いは生きている、残された人たちの心に生き続ける、みたいな。あるだろ?」

「ある、ね……何? そういうの観て感化されちゃったの?」

「僕は影響を受けやすいんだよ」

 その言葉は少しだけ、ふざけた調子を含んでいた。一方で、私はなんだか胸の奥が痛い。キリキリと痛む。締め付けられるような痛みは鈍くも、確実に私を苦しめていく。こんな夜中に「死んだあと」の話なんかするから怖いのかもしれない。

 一沙は段々とまた口調も滑らかに調子を取り戻して言った。

「でもね、影響を受けたけれど、僕の答えはそれとは違う。生まれ変わるとか、生きてる人の中で生き続けるとか。違うかなぁって。ただ、自信はないんだけれど」

「答えって?」

 ドキドキと、全速力で走った後のように心臓が忙しなく体の中で脈打つ。そんな私に構うことなく彼は静かに鋭く言った。

「何も残らない」

 その言葉に、息を飲んだ。

 どうしてか私はそれを聞きたくなかった。怖いのかもしれない。分からないけれど確かに恐怖を感じていた。目の前で私の手を引いていく一沙が、どこか見知らぬ場所へ行っていなくなってしまうみたいな、そんな焦燥が背中を走ってぞくりとする。

 耐えられず、彼の手のひらを掴んだ。そして指先を這わせてまた強く握る。一沙はチラリと私を振り返った。

「怖かった?」

「なんか、そんなこと言うから」

「ごめん」

「ううん……」

 なんとなく、空気が冷えた。風が少し冷たかっただけかもしれない。ノースリーブから飛び出す私の腕は少しだけ鳥肌が立っている。本当ならうだるくらいの蒸し暑さなのに。

「別に怯えさせたかったわけじゃないんだ。ごめんね、蓮」

「もういいってば」

 手を離したい衝動に駆られた。でも、彼もまた私の指を握り返して離さないからそのままで。一沙の手のひらは熱い。私の手も熱い。だから、この温度差が気持ちの悪いものに思える。

「……あ、見えてきた」

 夏草の森の、外側をしばらく道なりに歩けば、茂みの中にぽっかりと小さな穴がある。子どもたちがよく出入りするヒミツの通路のようなもので、私も一沙も幼い頃はここから入って湖の方へよく行ったものだ。

「ここ、まだ入れるかな」

 一沙が笑いながら言う。私も少し口元を緩ませる。空気が徐々に元の温度に戻っていく。

「無理に決まってんじゃん。一沙の肩幅じゃもう入れないし」

「蓮もちょっと太ったしね。やっぱり無理かぁ」

 私は間髪を入れずに一沙の背中を殴った。

「太ってない!」

「そう?」

 殴られても彼は痛みに顔を歪めることなく、涼しげにチラリと私の胸元を見る。そして、軽薄に笑った。

「さいってー!」

 非難を浴びせれば驚くだろう。けれど、一沙はどこ吹く風で私の手を引き、別の入り口を探す。

「何も僕だって興味ないわけじゃないんだよ。疎いってだけで」

「ほんと最低」

「しょうがないだろ。つい見てしまうんだよ」

「もういいから! 言うな! 何も言うな!」

「はいはい」

 あしらわれている気がする。でも、手を振り払うことはなく私は一沙に連れられるまま湖のある茂みの奥へと足を踏み入れた。深まっていく濃い黒の葉っぱや茂みをかき分けて、どんどん前を進んでいく。

「そろそろ上がるかな……」

 湖の水面を眺めながら、私と一沙は並んで座った。もう手は離していて、熱はひとつ分だけ。ここらへんは虫がいないらしく、静かでゆったりとした熱気が私たちの肌をなめる。

 私は首元をパタパタ煽いだ。首筋は少しだけじっとりと汗ばんでいる。それは一沙も同じらしく、彼はこめかみから一筋に汗を垂らした。それを拭い取る。

 私は暗い夜の空をぼんやり眺めて口を開いてみた。

「花火、上がんなかったら絶対に怒られ損だよね」

「怒られる前提なんだ」

「まぁね。鍵をかけた時に音がしちゃったからさ、多分、気づかれてる」

「そっか……僕も一緒に怒られたら良かったね」

「一沙は逃げる前提なんだね。ほんと最低なヤツ」

「怒られるのは嫌だからね」

「はぁ……」

 ずるい。でも、ノコノコとついていった私が悪いのかも。それに、この時間はやっぱり楽しくて後のことなんかどうでもよくなる。

 一沙とこんなに話をしたのは久しぶりだった。それに、一沙の考え方みたいなものを知れた。今までは、昨日観たアニメどうだった? とか、漫画の続きどうなるんだろう? とか、明日は何して遊ぶ? とか。中学生にもなって、いつまで経っても私たちは子供のままでいたから、ちょっと大人びた話をするなんてことは今までにない。それに、いつも生暖かくて緩やかだったから、あの刺激物のような、ひんやりとした空気が忘れられずにいる。

「……さっき言ってた『死んだあと』のことって、なんで急に」

 言ってみると彼は「うーん」と唸る。その低音は、どうしても調子はずれで上手く通らない。それが嫌だったのか、一沙は顔をゆがめて咳払いした。

「まぁ、実はね。僕が読んでた小説にそんなことが書いてあったんだよ」

 なんだろう。「25時の光」ってタイトルの。それだろうか。

「簡単に言えば、いろいろと災難な主人公が悩みながら、自分の信念を見つけていくって話なんだけどさ。あんな涼しい水色の表紙なくせに、中身はとても暑苦しいんだ。でね、主人公が言うんだよ。『どんなに死にたくてもそれは一時的にどうしても感じるものであって、僕らはそんな危ない罠から逃げ続けなきゃいけない』って」

 語る一沙の目は、本の世界を追いかけるようにキラキラしている。私はそれをじっと眺める。そして、率直な感想を述べた。

「どうしても死にたくなる、ってなんか物騒だね」

「うん。でも、人間にはそういう局面が絶対にあるんだってさ。それはどっか別の本で読んだ気がするけど。その危ない罠にハマったら死んでしまう。でも、人って必ず死んでしまうものだろ? それが早いか遅いかだけで。それでも、ただただ生きていかなきゃいけないんだって、そういうことが暑苦しく書いてある」

「へぇ」

「興味なさそう」

「そんなことないよ」

 なんだか現実的じゃないから実感が湧かないだけ。死ぬ、とか。

 私はまだ葬式に出たこともないからその感覚がよく分からなかった。だから返事は素っ気なくなってしまう。

「そう。じゃあ続けるけど」

 一沙は疑心を向けながらも語り続けた。

「だからね、僕も今そういう局面に立っているんじゃないかなって思うんだ。漠然と寂しいって思うから。不思議だよね。顔や心は笑っていても、急にふと水を浴びたような冷たさに襲われる。友達と話してても、こうして蓮と一緒にいてもなんだか僕だけが取り残されている気がして、なんか……」

 一沙は言葉を止めた。私が彼の手を握ったから。

「蓮……?」

 そう呼んで、私の顔を覗き込む。彼の目は、暗がりでもはっきり分かった。

「泣いてるの?」

 私が一沙の表情を知れるのだから、彼もまた私の涙に気づく。あふれる涙を私は止めることが出来ない。そのまま流れるに任せておく。水っぽい鼻をすすって、喉の奥を痙攣させて。溢れ出して止まらない。

「なんで泣くの?」

 一沙は慌てるでもなく静かに訊く。

「だって、一沙が、そんなこと言うから……死にたい、って言いそうだったから」

「でも、そう思えてしまうんだよ」

「やめてよ」

「うーん……」

 ようやく一沙の顔に焦りが浮かんだ。

「ごめん」

「許さない。一生許さない」

「そんな風に思ってくれて、僕は嬉しいんだけどな」

「絶対、許さないから」

 一沙は黙り込んでしまった。湖には私のしゃくりあげる音だけが広がる。

 早く花火が上がればいいのに。そうすれば、大きな音でこの情けなさが軽減されるだろう。キレイでパッと散りゆく夏の花を見ていれば、「悲しい」が「楽しい」に戻るだろう。

「……そろそろ花火が上がる、かな」

 気まずそうに言う一沙。私は返事もせずにまだ鼻をすすっている。

「今から上がる花火はね、毎年この日、この時間に上がるんだよ」

「へぇ」

「それでね、その花火を見たら、光に目を奪われてしまうんだって」

「何それ」

「迷信? みたいなものだよ」

「それも本で読んだの?」

 訊けば彼はすぐに口を開いてくれる。でも、その言葉は大きな爆発音によってかき消されてしまった。

 しゅるる、と上に伸びて、パンッと開く音。それは轟いて湖畔を揺らす。水面に映る光の線はまばゆくて、音と光に思わず肩をびくつかせた。

「本当に花火が……」

「上がったね」

 一沙は得意げに言った。

 花火は後から後から、上へと放たれていく。それがたくさん重なっていけば、光が私の目を奪っていく。走る閃光は、赤やピンク、黄色、緑、青、次々と色を浮かばせる。細長い光の線。それは打ち上げ花火とは少し違う気がした。

「この花火が終わったらね――」

 唐突に一沙の声が耳元のすぐ近くで鳴る。それは、パパンと実を弾くような花火の轟音にも負けないものだった。

「僕は……」

 ドン、とひときわ大きな音。肝心な部分は口の動きだけで私に伝わる。その瞬間、目の前が明けるように眩しく白い光に変わった。私は耐えきれずに目を閉じる。

 わななくような余韻を残し、音が消えれば眩しさも段々と消え入っていく。瞼の裏側でそれに気づけば、私はゆっくりと視界を取り入れた。

「……え?」

 そこにあるはずの、一沙の姿がどこにもなかった。


 ***


 三年生に上がっても、高校に入学しても、卒業しても、一沙は帰ってこなかった。

 七月二十日の二十五時。彼は光とともに姿を消した。それは、花火が散るのと同じように輪郭すら残さずに。余韻だけを耳元に残して。

 それもそのはず。

 一沙は小学六年の夏に死んでしまっているのだから。

 あの日までの彼が幻だったと気づいたのは、花火が終わった後だった。思い出して、泣きくれて、毎年この場所に足を運んでいる。

 一沙の死因を聞いたのは、中学二年の夏。それまで私は一沙と一緒に過ごしていると思い込んでいたから突然のことに驚いて、泣いて喚いて母にすがって、すべてを聞いた。

 私があまりにもショックを受けていて、葬式にも出られなかったから彼の死因を今まで教えることが出来ずにいたという。

「一沙くんね、夜中に湖に行って足を滑らせたの」

 膝の上で泣く私に、母は辛そうな声で説明する。

「六年生の夏。あの湖の近くで中学生の子たちがね、ロケット花火を打ち上げてたんですって。それを見に行って足を滑らせたんだろうって。見つかった時は朝方だったから、そのときにはもう……」

 彼は、本当にこの世にいないらしい。それがどうにも信じられない私は、彼の遺影を見ても墓参りをしてもその実感を持てずにいた。

 体だけ成長して、心は置き去りのまま。中学二年生で止まったまま。それに、小六から中二までの記憶は紛れもなく一沙と一緒にいたことが鮮明に残っている。

 私だけ、生きている世界がみんなと違うように思えてしまう。でも、日常は私を待ってくれないし、一沙のいる世界には戻してくれなかった。

 七月二十日の二十五時。私はその思い出を確かめるために毎年、彼がいなくなった場所へ向かう。今日でもう何回目だろう。仕事を休んで、昼間に墓参りを済ませて、夜のうだる暑さの中を一人で歩く。あの日に彼と歩いた道を辿るように行く。整備されたから、幼い時にくぐった穴はもう塞がれてある。それを横切って、入り口から湖のある茂みの奥へと足を踏み入れる。

 ただ、私は悲しみに浸るがために、この現象に疑問を持つことはなかった。

 そう。毎年、彼の言う通りここで花火が上がるのだ。

 色とりどりの光を眺めて、終われば帰るのが恒例となっていて、幾度目かの夏にようやくこの不可思議さに気がついた。

 花火はどこから上がるのか。どうして一沙は小六の夏に花火を見に行ったのか。足を滑らせて溺れて死んでしまうことも知らず、彼は無我夢中に花火に魅せられてしまった。それはどうして――

 二十五時。

 光が夜空を駆ける。閃光が目を奪う。その光を追いかけようと、私の体が動く。気を逸らせ、消え行く光だけを見て。

「っ!」

 全身が傾く感覚に怯えた。体の内がヒヤリと冷たいものを巡らせる。つんのめった私は、水面に突っ込む一歩手前で倒れた。

 危ない。落ちてしまうところだった。全身から冷や汗が噴き出して、息が荒れる。起き上がって座り込んでおくも、花火はいつまでも夜空を流れている。

『――蓮』

 轟音にまぎれて、かすれたような男の子の声が耳をよぎった。振り返るも、彼だと分かるものはない。

「一沙……?」

 花火の音はまだ消えない。

「……どうして、死んでしまったの?」

 一緒に、大人になりたかったんでしょう?

 幻に話しかけるなんて、どうかしている。でも、彼が近くにいるような気がしてしまう。

「何も残らない、わけない。まだ覚えてる。あの十四歳の夜を覚えてるんだから……」

 元からいなかったとしても、私の中で彼は十四歳まで生きていた。彼の熱を感じた。いっぱい、いろんな話をした。どこかへ行ってしまう気がして離れたくなくて、彼の指をずっと掴んでいた。

「大人になれない」と、彼がそう言ったことを思い出す。あれは、そういう意味なのか。いや、幻なのだから彼の本当の言葉じゃない。

 寂しさに負けて、死の罠にかかってしまったのだろうか。分からない。私はいつまで経っても彼が分からない。

 花火が消えていく。答えを教えてくれることはない。あの光もまた私の抱く幻想なのかもしれない。忘れたくなくて、いつまでもすがるように夢想し続けているんだろう。


 ***


 翌日、私は重たい体を引きずって会社に行く。時間が過ぎれば、感傷に浸りつつ日常へと体を慣らしていく。仕事をして、お昼を食べて、また仕事して、夜を待つ。同じことの繰り返しで、とっくに飽きは来ている。こんな大人になってしまったのが本当に腹立たしい。

「ただいま」と呟けば、目の前に母が立っていた。珍しい。出迎えなんて。

「おかえり、蓮。今日、部屋を掃除してたら見つけたんだけど」

 言いながら母が差し出してきたのは、少し褪せた水色の文庫本。一沙が読んでいた「25時の光」。

 慌ててもぎ取り、礼も言わずに部屋へ駆け上がる。そして、パラパラとページをめくれば、どこか一沙の匂いを感じた。その時――

 挟まっていた紙がひらりと床へ落ちた。

「………」

 走り書きの薄いシャープペンの文字……そこには『蓮へ』という文字と、

『さようなら』

 それだけが記されていた。

 一沙は、確かに存在していた。十四歳のあの日まで確かに生きていた。その証拠が私の手にある。

「さようなら……一沙」

 ぽつりと呟けば、私の中で火花が弾けるように一沙への思いが消えていった。

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