葉菜先生が恋する確率は???%です。

「がんばれよ、空大くうだい

「がんばってね。応援してるから」

「明日、報告よろしくー」

 そんな言葉を受けながら、僕はにこやかにクラスメイトたちを見送った。

 夕方。時刻は十六時を回っている。

 静かな教室。真ん中の席でぽつんと、行儀よく座って待っている。先生を。

「……やっべ、手汗ハンパない」

 二人きりなんて今までにないから、確かに緊張はしているんだろう。心臓がうるさい。


 ***


荒熊あらくまくん。補習をしましょう。いいですね」

 眉間にシワを寄せて、僕の前で仁王立ちする葉菜はな先生が冷たく言った。

 これに対し、周囲のクラスメイトは喜びのガッツポーズをするのだ。当然、僕も。

「やったー!」

 ただ葉菜先生だけが分かっていない。首をかしげて、それから慌てて「静かにしなさい!」と声をあげる。

 キリキリつんざく音に、たちまち全員の歓喜が静まるけれど、隠れてクスクス笑っていた。顔をうつむけてニヤニヤ笑うやつもいる。

「とにかく、今日の……えぇと、十六時半からです。帰っちゃだめよ」

「分かってますって。帰るわけないじゃないですか」

 僕は嬉しさのあまり、へらりと笑ってしまった。それがいけなかったのか、葉菜先生は眉をピクピクさせて怒りを表情に表す。いや、先生、別に怒らせたいわけじゃなかったんです。嬉しくてつい。

 長丘ながおか葉菜先生は二十五歳の非常勤講師。我がクラスの現代文を担当している。

 サラッと長い黒髪はストレートのポニーテール。面長で、かっちりと生真面目な顔つき。切れ長の目。長いまつげ。ナチュラルな白い肌。化粧っけはほぼないが、それがいい。だって、化粧品の匂いってなんか嫌だし。

 あとはおっぱい。大きい。シャツにセーターっていうのがスタンダードスタイルなんだけれど、そのセーターにふっくら二つの山。セーターの下でどんな風になっているのかすごく気になる。

 って言ったら怒られるだろう。さすがに。でも気になるんだから仕方ない。

 性格は生真面目で、曲がったことが大嫌いな感じ。だから僕のことは嫌いかもしれない。

 そもそも僕は現代文がまったく好きじゃないし、テストの点もかなり悪い。理数系に進むしか道はないんだろうけれど、葉菜先生に今後会えなくなるのは困るから文系がいいなぁと思いつつ。将来はまったく考えていない。

 そして、僕は先生がいないところでは声を大にして「葉菜先生」と呼んでいる。

 一度、本人にそう呼んだら「職員室に来なさい」って怒られた。

 素直に職員室に行けば担任の赤崎先生(ゴリラ)が顔を真赤にさせて僕を叱った。なんで葉菜先生じゃないんだよ、ってこっちが怒りそうになったがさすがに我慢した。

 こんな風に葉菜先生とたわむれているからか、クラスの連中は僕が葉菜先生を好きだってことをよく知っている。

「思い切って告白しちゃえば」と言ってくるのは、僕を面白がっている女子、島地しまじ

「だったら二人きりにならないとじゃん」

「じゃあ、みんなで協力しようよ」

 そう言ったのは仲がいい男子、三山みやま

「協力って言っても、どうやって二人きりになればいいんだよ?」

「そりゃあ、お前がわざと長丘先生を怒らせばいいんだよ」

 三山の提案に、島地が手を叩いた。

「それだ!」

「えー? でも、あんまり先生を怒らせちゃよくないだろ? マイナス評価じゃん」

 馬鹿な僕だってそれくらい分かる。

「だから、合法的にだよ。ごーほー的に。二人きりにならざるを得ない状況にしないと」

 三山が言うと、数人がわらわら集まってきた。

 そして、あーでもないこーでもないと話し合った結果、島地が言った。

「要は荒熊を悪者にしない、マイナス評価にならない程度に補習をさせようと私たちが盛り上げる。補習が必要だよって誘導するの。で、あんたはプリントを真っ白で出す。いつもみたいに先生の気を引けばいいのよ」

「それでうまくいく?」

 聞いてみると、その場にいた全員が頷いた。

「荒熊のために一肌脱ごうぜ」

「よっしゃー! 空大の告白大作戦決行だ!」

「おー!」

 外野が盛り上がる中、三山が僕に聞いた。

「ちなみに、長丘先生のどこが好きなんだよ?」

 その問いには即答する。

「おっぱいだね」

「さいてー」

 すかさず島地が軽蔑的に言った。


 いやいや、僕だって先生の胸が目当てってわけじゃない。あくまでそれはオプションであって、先生の良さの中に追加されるもので。いわば課金アイテムみたいな……ん? うん、そうだ。アイテムだ。まかり間違ってもおっぱいだけが葉菜先生の良さってわけじゃあないんだ。

 時計の針の音と一緒に心臓も動く。うーん、意外と緊張してるんだな、僕。

 だって、夕暮れの教室で先生と二人きり。オレンジ色の薄暗い中で一対一、向き合うなんて贅沢かつ最高のシチュエーション。絶好の告白日和だ。

「あー……まだかなぁ、先生」

 そわそわと廊下に目をやるも、先生らしき人影はまったく姿を表さない。待ち合わせは時間通りに来るタイプなのかもしれない。真面目だしね。

 深呼吸して、手汗をズボンで拭う。うっかり手が当たったときに汗びっしょりじゃ恥ずかしい。

 よし。手汗も拭った。約束の十六時半はもうすぐ――

「ごめんなさい、荒熊くん。会議が長引いてしまって」

 教室のドアが開くと同時に葉菜先生が慌てて駆け込んできた。腕にはたくさんのプリントと教科書、本を抱えて。僕は反射的に立ち上がった。

「いえ! 大丈夫です。全然、待ってませんから」

「え? 待ってなかったの? あなた、今日が補習だってことちゃんと分かってます?」

 途端に冷たく厳しく言われる。「待ってない」は失言だった。

「や……待ってました。めちゃくちゃ待ってました」

「本当に?」

 首を縦に思い切り振る。すると、先生は怪しみながら、僕の前の席まで移動した。

 机を向かい合わせる。願ってもない至近距離。ありがとうございます、先生!

「それじゃあ、補習をしましょう。荒熊くん、まずは今日できなかったプリントを全問、私の前で解いてください」

 冷たくも事務的な声。ツンとしている。そして僕の目ではなくプリントを見つめている。そんな葉菜先生もかわいい。

「ほら」

 受け取らない僕の手に、プリントをひらひら泳がせる葉菜先生。顔を見ると、向こうも僕を真っ直ぐに見ていた。切れ長のまぶたにふっさりのまつげ。曲線が左右対称できれいだ。

「……荒熊くん、やる気あります?」

「あります。超あります。がんばります」

 プリントを受け取ってすぐにシャープペンを掴む。そして、問題へと目を落とした。

 現代文、とくに小説は苦手だ。だって、正解が分からないから。どれが答えなのかまったく分別がつかない。選択肢の言葉はどれも同じように思えて仕方ない。

 特にこの『問四、傍線部③とあるが、主人公はどんな気持ちで③と言ったのか選択肢のア~オから、当てはまるものを一つ選びなさい』という問題。

 主人公の気持ちなんて、分かるわけないだろう。だって、どれも同じだし。「嬉しい」と「楽しい」に差があるのか。「喜ばしい」とか、普段なかなか使わないだろ。

 ペンが止まる。葉菜先生をちらっと見る。先生も僕を見ていた。いや、僕の手を見ていた。葉菜先生の視線がその手に集まり、なんだか焦げそうに熱くなってくる。

「……分かりませんか?」

 突然、先生の口が動いた。

「あ、はい。えーと……」

「『問四、傍線部③とあるが、主人公はどんな気持ちで③と言ったのか選択肢のア~オから、当てはまるものを一つ選びなさい』……まずは上の文章、全部を読まないと主人公の気持ちの前後が分かりません。ちゃんと読みました?」

「いや……読んでないです」

 だって、先生が目の前にいると集中できないし。それに、読んでる時間がもったいない。解くのに時間がかかるんだから。でも、それを言うのは忍びなくて黙っておいた。

 葉菜先生は「うーん」と、授業中の厳しさがなく、困惑気味に唸る。少しだけ前かがみになれば、甘く花のようなシャンプーの香りが届いてきた。

 すると、先生がちらっと視線を上げた。

「全部読んでから問題に移ればいいの。荒熊くんは読むのが苦手?」

「そうですね。こういう長い文章って飛ばして読んじゃう」

「うーん……そうなると、この問題は解けませんよ。いい、荒熊くん」

 言いながら先生は赤ペンでプリントの上部に並ぶ文章を全部囲った。

「これすべてが問題文なの。荒熊くんは数学が得意でしたね。文章問題なんかは全部読めるんでしょう? それがちょっと増えただけ。我慢してじっくり読んで、焦らずに読み解いていけば必ず答えにたどり着けます」

 薄い赤の唇が優しく言った。そうなると、口答えができなくて戸惑ってしまう。

 ペンをコロンと落として、ぼうっと先生を見ている。

「荒熊くん、分かった?」

「すいません、分かりません。もう一回」

「えぇっ?」

 声を上ずらせて驚く。いつもは細い目がまんまるになって、その驚き顔もかわいい。めったにお目にかかれない激レア顔。

 葉菜先生はもう一度、同じように優しくゆっくりと言った。それは耳に心地よくて、きりりとした声に甘みが増したようで。

 夕暮れの教室。先生が読み上げる文章をいつまでも聞いていたくなる。結局、先生は赤ペンで囲った文章を全部読んでしまった。ふぅ、と小さく息を吐いて僕を見る。

「音読でも約八分、黙読なら四分弱で読めてしまう分量です。個人差はあるだろうけれど」

「うーん……」

 僕は仕方なく、問題に目を落とした。明朝で書かれた文字を読む。ひたすらに。面倒。

 でも、先生がやれって言うならやるしかない。

 黙って読み進めること数分。手汗で熱い手のひらで、再びペンを握った。

「よし」



 問四、傍線部③とあるが、主人公はどんな気持ちで③と言ったのか選択肢のア~オから、当てはまるものを一つ選びなさい。


 ア、嬉しい  イ、楽しい  ウ、おかしい  エ、心地よい  オ、喜ばしい



 ……いや、全部同じじゃん。まったく分からない。どんな差があるのかさっぱり分からない。

 答えに詰まった僕に、葉菜先生は辛抱強く待ってくれる。でも、僕はお手上げだった。

「いい、荒熊くん」

 しびれを切らした先生が、赤ペンで選択肢を上から叩く。

「分からない場合は消去法で探せばいいんです。『嬉しい』と『喜ばしい』は同義語だから消えます。また、『おかしい』は愉快だということを示しています。だから、『楽しい』と『おかしい』も消えます。答えは『心地よい』。これは傍線部③より前後にもそういった主人公の気持ちが表現されています。この部分を読み取れば、答えにたどり着きますよ」

「……でもさ、」

 つい口をとがらせる。

「主人公の気持ちをそうやって一個に決めつけちゃっていいんですか」

 屁理屈を言っているのは百も承知。でも、納得がいかなかった。答えが分からないからということもあるけど、先生が断言しちゃうのが納得いかない。

 葉菜先生は眉を歪めた。

「問題を解くのに、そんなことを考えてたらキリがないでしょう?」

「そうだけど」

「答えは決まってるんだから、あまり深く考えちゃダメよ」

「そうだけど」

 数学なら式をつくって計算して、はいおしまい。数字は嘘をつかない。でも、ここにある言葉はほぼ同じなのに、答えは一個しかないという。間違い探しをしているみたいで面倒くさい。

「あーもう、疲れたぁ……」

 せっかく二人きりになれたのに、なんだか随分と頭を使いすぎた。疲れた。本当は先生と楽しく話したいだけなのに。

「……ねー、先生」

 時刻はすでに十七時。夕陽が陰っていく。校庭ではサッカー部が声を掛け合いながら走り回っている。

「先生って、本が好きなんですか?」

「え? はい、そうですけど」

 短く返される。

「頭、疲れないですか?」

「そんなことないですよ。物語は私を非日常へ連れてってくれるから好きです」

 頬をふくらませるように、むっとして答える。

 でも、僕は先生の「好きです」という言葉にちょっと浮かれた。

 それに、意外と話に乗ってくれそう。「へぇぇ」と笑って返すと、先生はバツが悪そうに下を向いた。

「それに、現実は厳しいから。本を読んでいる時くらい現実を忘れたいですし」

「先生、真面目ですからねー。息抜きとかできてなさそう」

 僕は数日前に見たものを思い出す。

 葉菜先生が赤崎先生から何か強く言われているところだった。

 その時、先生は黙って無表情に返事をしていた。毅然きぜんとした態度だったけれど、その手が強く握られているのを僕は見逃さなかった。

「息抜きは読書です。これでも休みの日はゆっくり過ごしてるんです。私は非常勤講師なので、他の先生方よりゆとりがあるので」

 なんだか急ぐように言い、しかも口調は自虐的じぎゃくてきとげがあった。赤ペンでプリントを叩く。

「荒熊くん、今は補習ですよ。関係ない私語はつつしんでください」

「すいません」

 先生のことを知りたかったのに。

 椅子の背にもたれ、ふてくされてみる。先生は機嫌が悪そうに眉を寄せていた。

「まったくもう、あなたはどうして私を困らせるんですか。他の授業でもそんななの?」

 いえいえ。比較的真面目な方です。先生の気を引きたいからわざと不真面目にしているんです。でも、現代文が分からないのは事実だ。

 葉菜先生は溜息を吐いた。呆れ果てた音だった。

「荒熊くんは理数系が得意だからいいのかもしれないけれど、国語は大事なんですよ。国語は思考を育む学問です。相手と話す、文字を書く、というのは人とのコミュニケーションで最も重要なんです」

 そうは言うけれど、先生だって僕の気持ちに気づいてくれないじゃないか。やっぱり納得がいかない。

「じゃあ、先生はコミュニケーションで困ったことは一度もないんですか?」

 ムキになって聞くと、葉菜先生は目を開いた。

「……困ったことなんて……ありませんよ」

 なんだよ、その間。少し時間がかかったぞ。

「いいから問題を解いてください。これが終わらなければ帰れませんよ」

 ごまかされた気分だ。

 それに、僕は別に帰らなくていい。葉菜先生と一緒にいられるなら何時間でも。

 でも、問題を解かないと、いよいよ僕の評価はマイナスになる。どうやってプラスに持っていくか……

「荒熊くん、分からないことがあったら言ってください」

 ペンが止まっているからか、葉菜先生は気にするように急かして言った。

 分からないこと……この問題もそうだけれど、僕は何より先生のことが分からない。

「……そんなに嫌いですか、国語が」

 考えていると、先生が悲しげに目を伏せた。いつまで経っても何も言わないからか不安にさせてしまったみたい。

「そんなことないです!」

 思わずペンを叩きつけて前のめりに言う。先生の顔が近くなる。

「そ、そう? だったら、どうして」

 僕から離れて、気まずそうに葉菜先生は口元を緩ませる。そして、僕をじっと見る。黒い瞳に見つめられたら、僕の口は勝手にしゃべった。

「むしろ好きです。だって、僕、先生のことが」

「え?」

「先生が好きだから……だから、」

 あぁ、なるほど。国語が大事ってこういうことかもしれない。ちゃんと伝えられないのがもどかしい。

 葉菜先生は両目を開かせた。

 やばい。怒られるかも。そもそも、下の名前で呼んだだけで怒った人なんだ。呆れられて、見向きもされなくなりそう。嫌われるのはいやだ。

「それは、つまり、人としてってことですか」

 葉菜先生が無感情に言う。真面目にまっすぐ僕を見つめて。

「いや、人としてっていうか……それもそうだけど、恋愛的な意味で」

「恋愛……」

 つぶやくと、葉菜先生は口元をもごもごさせた。

 あ、やばい。マジで怒られそう。

「荒熊くん」

「はい……」

「恋愛というのは、人間の脳が勘違いを起こしているだけに過ぎない現象です」

「へ?」

 冷静な声でいきなり何を言い出すんだろう。

「思い込みによって感情が左右されているんです。また人間は子孫繁栄しそんはんえいを無意識に考える、いわば動物と同じ。ごく自然的ですが、恋愛していると勘違いしているだけなんです。生殖が目的なのに感情を押し付けあうなんて野性的かつ非論理的。正当性がない。さらに、私とあなたは講師と生徒。この事実がくつがえらない以上、そういった関係にはなり得ません。論理的に考えても。まぁ、あくまで一般論ですけど、そもそも」

「ストップ! 先生、落ち着いて!」

 ものすごく早口で、むちゃくちゃな屁理屈へりくつが返ってきたので、僕は慌てて遮った。

 防御なのか、これは。僕を近づけさせないために防壁を築いたというのか。鉄壁なのか、この人。

「……あの、先生」

 僕は恐る恐る聞いた。

「つまり先生って、恋愛が苦手なの?」

 葉菜先生は目を細めた。

「恋愛は個人差を生じるものです。でも、正当な正答を求める自分には無意味だとは思ってます」

 ……苦手なんだろうな。しかも、ものすごく頭が固そうだ。こじらせてるんじゃないか。

「じゃあ、彼氏とかは」

「必要ありません」

「え? 今までいたことは?」

「必要ないって言ってるでしょう」

「マジっすか……ってことは、先生はしょ……」

「荒熊くん!」

 鋭くつんざく葉菜先生の声。僕は出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。

「いい加減にしないと、怒りますよ!」

 葉菜先生は頬を少しだけ赤らめていた。怒っているんだろうけど、焦っているようにも見える。確かに、調子に乗りすぎた。

「……先生、ごめんなさい」

「反省してください」

「してます。めっちゃしてます。すいませんでした」

「……分かればいいです。くれぐれも他の女子にはそういうことを言っちゃいけませんよ」

「はい」

 葉菜先生が睨むので、僕はすごすごと椅子にもたれた。

「……でも、もったいないですよ。先生、かわいいのに、彼氏いないって」

 褒めたら機嫌が治るかもしれない。と思ったけど、そういうわけにはいかなかった。

 先生の顔がみるみる真っ赤になる。それを隠すように、先生はうつむいてしまう。耳が赤い。僕が言うのもなんだけど、ウブすぎる。

「だから彼氏……とか、そういうのは……」

「必要ないんでしょ? でももったいないって。先生、かわいいんだから。あくまで一般論ですけどね」

「……かわいくない」

 ムキになって言う先生。恥ずかしそう。耳がゆだってる。

 それがかわいいと思えるから、しょうがない。僕は先生の顔をそっと覗いてみた。

「先生、大丈夫?」

「……だいじょばない」

 語彙力が崩壊している。


 ***


 なんとなく気まずくなって、それから問題を解くことに専念したら、葉菜先生も調子を取り戻したらしく、顔も元に戻っていた。

「補習はもうこれっきりですよ、荒熊くん」

 十八時を過ぎた頃、ようやくプリントを提出できた。葉菜先生の表情も晴れやかだが、疲れが見える。

 夕暮れで暗い、誰もいない廊下に二人一緒に出た。

「先生――」

 静かな空間に、ドアを施錠する音と僕の声が響く。

 葉菜先生は僕を見てくれない。これは完全に嫌われたかな。でも、返事があんなじゃ満たされないし、落ち込むこともできない。何が告白日和だよ、まったく。

「……荒熊くん、気をつけて帰りなさいね」

 そっけなく言われる。先生の切れ長の目はあれっきりずっと伏せたままだ。

 くるりと僕とは逆の方向へ足を向ける。揺れるポニーテールが遠ざかっていく。夕陽ゆうひ輪郭りんかくがなくなっていき、僕は堪らず先生を追いかけた。

「葉菜先生!」

 バタバタ走って回り込む。すると、葉菜先生はすかさず教科書で顔を隠した。

「葉菜先生、僕、本気ですからね。先生と結婚したいくらい好きだから」

「………」

 葉菜先生はゆっくりと前髪を出した。そして、教科書から目を覗かせる。でも、すぐに隠れた。

「……国語、できないくせに」

 そんな悪態をつかれる。僕は思わず吹き出した。

「じゃあ、国語勉強するから。そしたらいいでしょ?」

「良くないです。ダメです。第一、私があなたに恋をする確率はゼロです!」

 顔を見せないまま、葉菜先生は僕の脇をすり抜けて走っていく。

「うーん……確率はゼロか」

 マイナスじゃないだけマシかなぁ。

 だって、そう簡単にりるわけがない。あんな顔を見せられたら、僕だって恥ずかしくてしょうがないんだから。

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