明日も他人

「もしも――もしもですよ、一〇〇回は会った人から突然、告白されたら、あなたはそれをお受けできますか?」

「え?」


 話の流れとしては違和感はなかった。彼は、顔は笑っているものの口調は真剣だ。私は悩みながら、はにかみながら返した。


「そうですね……一〇〇回もお会いした方なら、なんだかんだ仲良くなってそうだし、好意的にはとれるんじゃないでしょうか。あ、あくまで一般論ですけれど」


 至って当たり障りのない言い方をした。

 すると、彼は一瞬の間をあけて「ですよね」と笑った。笑うと白い歯が映える。目は垂れてるから幼く見えるけれど、私と同じ歳らしい。

 らしい、というのは今日知り得たものだから。

 中川なかがわ龍一りゅういちさん。三〇歳。劇団の役者さん。アルバイトをしながら生計を立てているんだとか。



 お昼時、私はライターの仕事をするために近所の喫茶店でパソコンを開いている。会社を辞めてからの毎日のルーティン。

 そんなある日の午後、お店が混んできたので、店員さんから申し訳なさそうに言われたのが、彼との出会いだった。


相席あいせきをお願いしてもよろしいでしょうか」


 お願いされては断れない。私はパソコンを閉じて、店員さんに笑顔を返した。


「どうぞ」


 本当は席を立ったほうが良かったのだけれど……カップに入ったコーヒーを冷ますまで仕事をしていたら飲み損ねていた。

 冷めたコーヒーを飲み干すまでは、彼と向かい合うのもいいだろう。それに、私は不思議と彼に対して不信感を抱かなかった。

 知らない人なら否が応でも居心地が悪いもの。それなのに、気まずさは感じない。彼の人懐っこそうな顔がそう思わせるのかもしれない。

「すみません」と、彼は腰が低く、ブレンドコーヒーを頼んだ。


「……ここのブレンド、美味しいですよ」


 冷めたブレンドを飲んで、思わず話かけると、彼は緊張気味だった肩を落とした。


「そうなんですよね、僕もこの店を使うので。よく頼むんです」

「常連さんでしたか。失礼しました」

「いえいえ。あなたも常連さんですか」

「えぇ、まあ。仕事の気分転換に通ってたり」

「そうなんですか。だったら、何度かお会いしてるかもしれませんね」


 彼は柔らかに微笑んだ。その笑顔を見ると、私の口角が上がる。

 それから話が広がった。数分だけだと思っていたのに、いつの間にか私のカップにはコーヒーがなくなっていて、彼のカップは冷めている。それでも話ははずんだ。

 年齢と名前は彼の職業柄、公にしても構わないらしい。役者さんなら名前を売りたいのが当然か。それに、彼が「もう今年で三〇歳」と言ったので私もはずみで「私もですよ。同い年なんですね」となんの警戒もなく、むしろ軽快に返した。

 すると、中川さんは「偶然ですね」と嬉しそうに笑った。


「偶然と言えば、あなたがしている指輪、僕の知人もそのブランドが好きなんですよ」


 ゴールドの華奢なリング。ダイヤが散りばめられた可愛いデザイン。それをはめた指に目を落とす。


「偶然ですね。これ、私のお気に入りなんですよ。誰から贈られたかは、覚えてないんですけれど」

「覚えてない?」


 私の言葉を素早く拾いあげていく。私は慌てて返した。


「いや、母にもらったものだと思うんですけれど……ちょっと思い出せなくて」

「そうなんですか」


 特に怪しまずに、彼はすんなりと頷いた。

 私は勝手に居心地が悪く、慌てて詮索せんさく気味ぎみに言った。


「知人って、もしかして彼女さん?」


 訊くと、彼は口の端を伸ばした。えくぼを見せて、照れたように笑う。


「バレましたか」

「バレバレですよ。中川さんがプレゼントしたんですか?」

「そうです。そこまでバレちゃうなんて、なんだか前にもそんな話をしたかなあって思っちゃいますね」

「まさか。今日が初対面でしょう? だって、中川さん、顔に出てますもん。役者さんなのに分かりやすすぎですよ」

「あぁ、僕もまだまだですね」


 彼は悔しそうに言うも、顔はやっぱり笑っていた。


「その彼女さんとは長いんですか?」


 人の恋愛事情をあれこれ探るのは良くないかもしれないな、とあとで気づいた。でも、中川さんは私の問いに悩みながら答えてくれる。


「うーん。長いっていうんですかね……僕の仕事が安定しないものですから、不安にさせてはいるでしょうけれど」


 聞けば、どうやらお給料が良くないらしい。夢を売るには莫大な資金が必要なのは、なんとなく分かる。仕事にするには難しい。


「でも、彼女も理解はしてくれているんです……だと思います。なけなしのお金で、切り詰めてようやく買えた指輪を喜んでくれましたし、今もずっとつけていてくれますし」

「へぇぇ。いいなあ、羨ましい」


 私は素直に感想を言った。中川さんは「そうですか?」と不思議そう。私は頬杖をついて「そうですよ」と冷やかす。


「お互いに愛して、愛されてる感じがすごく分かります」

「はぁ……なんだか恥ずかしいことを言われてる気がしますね……うーん」


 中川さんはだんだん俯いてしまい、照れ笑いだけが聞こえる。あぁ、ちょっといじめすぎたかも。

 いくら話が弾んだからと言って、初めて会った人にここまでくだけるのもおかしな話。調子に乗ってしまった。


「すみません、困らせちゃいましたか」

「いえいえ! なんか、恥ずかしくなって。人とこういう話をすることがあまりないから」


 中川さんは大仰に首を横に振った。私は少し安心して息を吐いた。椅子にもたれる。


「確かに、なかなかないかもしれませんね。知り合いならまだしも」

「知り合いでも、あんまりしないかな。僕がそういう性格じゃなくて。むしろ、あまり知らない人の方が案外話せるのかもしれませんね」


 そう言ってもらえると救われる。何か気に触ることを言ったらと思うとすごく不安になるから。

 中川さんはカップのコーヒーを一口飲んだ。

 そして、悩むように言った。


「実はですね、彼女とは正式にお付き合いしているというわけじゃないんです」

「え? そうなんですか?」


 突然の告白に、私は素っ頓狂な声を出す。慌てて口をつぐむと、彼は自嘲気味に続けた。


「はい。と言っても、なんとなく自然とって感じで。きちんと口で伝えていないと言いますか……なんだか曖昧で」

「それは、きちんと伝えたほうがいいですよ」

「でも、プレゼントを渡しただけだし、話もしてはいますが、もちろん会っていますし、告白はしてないものの、それなりに仲良くはしてますし」


 言い訳めく彼の言葉。私は「うーん」と腕を組んだ。


「あぁ、すみません。なんか変な相談になりましたね」

「いえ、悩むのは当たり前ですよ。それに、あまり知らない人に話すほうが話せるって言ってたじゃないですか」

「ありがとうございます」


 彼は安堵したように息をついた。

 そして、しばらく口をもごもごさせて、言いにくそうに、ゆっくりと言った。


「もしも――もしもですよ、一〇〇回は会った人から突然、告白されたら、あなたはそれをお受けできますか?」

「え?」


 思わぬ問いに、目を丸くする。

 彼は、顔は笑っているものの口調は真剣だったので、私も悩みながら、ちょっとはにかみながら返した。


「そうですね……一〇〇回もお会いした方なら、なんだかんだ仲良くなってそうだし、好意的にはとれるんじゃないでしょうか。あ、あくまで一般論ですけれど」


 至って当たり障りのない言い方をした。

 すると、彼は一瞬の間をあけて「ですよね」と笑った。


「大体、私じゃなくてその彼女さんでしょう?」


 どうして「あなたは」なんて訊くんだろう。


「そうなんですけど……女性の意見を聞きたくて、つい」


 中川さんは肩をすくめて、いたずらに言った。

 その仕草がやけに、私の目に焼き付いた。


「世間一般の、女性の意見を聞くチャンスなんて滅多にないものですから」

「女性がみんなそうだとは限りませんよ」

「ですよね」


 彼は軽快に返した。対して、私はどうにも心地が悪い。いや、悪くないんだけれど、なんか変にドギマギするというか。不思議な気分だった。

 童顔の彼の大人な雰囲気、自然な仕草に胸がざわついている。ギャップに好感を持ったのだろうか。

 私は自分の中の変な気持ちを押さえつけ、指を組んで彼を見た。


「中川さんが好きな方って、鈍感なんですか?」

「どうしてそう思うんですか?」


 質問に質問で返すのはルール違反だ。とは、言えず。私は言葉に詰まった。考えて考えて、言葉を紡ぐ。


「だって……一〇〇回も会えば告白されても、そう不思議じゃないと思うんです。彼女との関係やシチュエーションなんかは省いたとしても。だって、それくらい頻繁に会ってるわけでしょう?」


 どれだけ親しいかは知らないし、どんな関係でどれくらいの年月を過ごしたかも私には知る由もない。

 彼がどんなシチュエーションで彼女を好意的に見ているのかも分からない。

 けれど、頻繁に会っている仲ならば、お互い大抵のことは知り得ているはずだろう。

 そんな私の浅はかな感覚を、彼は見抜いたのかどうかは分からないけれど、息を吸ってこう返してきた。


「まぁ、そうなんですけれど。でも、仮にこれが親しい間柄じゃなくて、例えばバイト先で会うだけだとか、例えば行きつけのお店で会う常連同士だとか、例えば借りた劇場のスタッフだとか。会わざるを得ないという環境下で会っているだけなら、一〇〇をカウントしても、そういった雰囲気になるかどうか分からない」


 中川さんは、指を立てて言った。その身振りはやはり舞台役者のようで、仕草がオーバーだった。まるで、与えられたセリフを放つようでもあった。

 それを私は不思議と違和感なく受け入れて、話を聞いている。そして、またもや胸のざわつきに気づいた。そんな胸中でいつつも彼の言葉に返すものを考える。そして、彼の言葉に矛盾を見つけた。


「……それは変ですよ。だって、中川さん、彼女に指輪をプレゼントしたって言ったじゃないですか。指輪を贈るくらいに親しい間柄なら、そんなあからさまに他人みたいな言い方しなくても」


 緊張気味に言ってみる。すると、彼は形のいい眉を頼りなく下げた。


「バレましたか」

「バレバレですよ」


 彼の反応に、私はつい冷やかしの笑いを投げた。叱られた子供みたいにバツが悪い中川さんは、ため息を吐いて私の指を見つめる。


「僕、役者向いてないですね……」

「単に嘘が下手なだけじゃないですか?」

「かもしれません。嘘は苦手です。それなのに辞められなくて、参りますよ」

「辞めなくていいじゃないですか。お芝居、好きなんでしょう?」


 訊くと彼は、しおらしく頷いた。


「優しいですね……いつも」

「いつも?」


 不自然な言葉を反復する。中川さんは「はい」と悲しげに笑った。そして、小さく口を開いた。


「白状すると、僕の好きな人は、僕のことを覚えていないんですよ」

「えっ……」


 それはどういう意味だろうか。

 私は固唾を飲んで、彼の話を聞いた。


「数年前に交通事故にあって、その当時前後の記憶をなくしてるんです。彼女は、僕を知りません。これがまた奇妙な記憶障害で、人の顔と名前が覚えられないんだそうです。今は会社を辞めて、家で働いています。生活に支障が出ると言えば対人関係だけらしくて、親しい人と会っても明日にはそれが誰だったか忘れてしまうんです」


 私は息を飲んだ。

 それでも、中川さんの話は続く。


「また変な芝居だと思われるかもしれませんが……でも、そういう事情があって。だから、変な質問ばかりしてしまいました。すみません」

「や、そんな……そうだったんですね。そうとは知らず」


 それだけ言えるのがやっとで、私は無意識に指輪を触った。

 中川さんは目元を優しく細めて、「聞いてくれてありがとうございました」と頭を下げた。

 そして、カップのコーヒーをぐいっと飲み干す。何も言えない私はそれを見つめるしかできない。


「……あ、そろそろバイトの時間だ。すみません、それじゃあ、これで」


 中川さんが席を立つ。そして、またぺこりと頭を下げた。

 その時、私の足が動いて椅子を倒した。ガタン、と大きな音に周囲が驚くけれど、私は気にしていられない。中川さんもレジからこちらを見ていた。


「あの、」


 彼の背中を追いかける。咄嗟に腕も掴んだ。


「あ、あの……中川さん、」


 どうしよう。思うように言葉が出ない。


「もしかして、前もここで会って話を……」


 何を言ってるんだろう、私は。だって、私の事故を知っている人なんてほんの数人で、でも同じような状況の人だっているだろうし、そんな偶然、あるはずがないし……

 私は、はめている指輪が誰から贈られたものか知らない。覚えていない。でも、お気に入りだからずっと持っていて――

 掴んだ腕を、彼は驚いた様子で見ていた。そして、優しく、泣きそうな目を私に向けた。


「……多分、九十九回目くらいですかね」


 そう言って、私から目を逸らして会釈した。離れていく。

 だから、私はもう一度、彼を引き止めた。


「一〇〇回目には告白しないと、ダメですよ」


 言わなきゃ伝わらないから、だから、ちゃんと教えてほしい。あなたは誰なのか。

 その願いは、彼に届かなかった。困ったような笑顔で、私からゆっくり離れていく。


「また次にします……それじゃ、さようなら」


 それもまた、与えられたような、言い慣れたセリフのようで。

 消えた背中の残像をいつまでも眺めるしかない。



 ***



 お昼時、私はライターの仕事をするために近所の喫茶店でパソコンを開いている。会社を辞めてからの毎日のルーティン。

 そんなある日の午後、お店が混んでくる。そろそろ席を立ったほうがいいかもしれない。でも、コーヒーは冷めたまま半分以上も残っている。

 すると、男性が一人、店内に入ってきた。すぐさま店員さんが彼に事情を説明する。

 そして、二人席に座る私を見つけた。

 これはもしかして、相席をお願いされるのでは。

 そんな予感を覚えていると、店員さんから申し訳なさそうに言われた。


「相席をお願いしてもよろしいでしょうか」


 お願いされては断れない。私はパソコンを閉じて、店員さんに笑顔を返した。


「どうぞ」

「申し訳ありません」

「いえ」


 正直、男性との相席は気が引ける。

 案内された彼は、垂れ目で幼い顔つきで、それにそぐわない濃紺のスーツ。新品かな。気慣れていない感じが余計にあどけない。そんな童顔の彼が私を窺うように見る。

「すみません」とこちらも申し訳なさそうで、私は笑いながら「いえいえ」と返すだけ。

 冷めたコーヒーを飲み干すまでは、彼と向かい合うのもいいだろう。それに、私は不思議と彼に対して不信感を抱かなかった。

 知らない人なら否が応でも居心地が悪いもの。それなのに、気まずさは感じない。彼の人懐っこそうな顔がそう思わせるのかもしれない。

 メニューを取ろうとする彼に、私は思わず話しかけた。


「ここのブレンド、美味しいですよ」


 すると、彼は緊張気味だった肩を落とした。


「そうなんですよね、僕もこの店を使うので。よく頼むんです。でも、今日は気分を変えてみたくて」

「あら、常連さんなんですね」

「はい。あなたも常連さんですか」

「えぇ、まあ。仕事の気分転換に通ってますよ。日課みたいなものです」

「そうなんですか。だったら、何度かお会いしてるかもしれませんね」


 彼は柔らかに微笑んだ。その笑顔を見ると、私の口角が自然と上がる。だから、ついつい口が滑ってしまった。


「今日は何か、特別な日なんですか?」

「え?」


 彼が両目をぱちぱち瞬かせた。

 私はクスクスと冷やかすように笑う。


「だって、仕立てたばかりのスーツでしょう? それ。何か大事な日なのかなって」

「あ、ははは。そうなんですよ、バレましたか」

「バレバレです。なんか、随分と見違えて……」


 言葉が勝手に飛び出しただけだ。だから、その意味が分からずに口をつぐむ。

 どうして、初対面の彼にそんなことを言ったんだろう。

 戸惑っていると、彼は小さくつぶやいた。

「一〇〇回目の奇跡だ」と。

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