ハンバーガーとアオハル

 ジリジリと首元を焼く太陽を見上げ、俺は鬱陶しく目を細めた。日焼けした腕で陽を遮ろうとしても、熱気までは軽減されない。容赦ない夏という季節が自堕落を呼び寄せる。

 あー、むり。限界。暑い。むり。

 うだる頭と、渇いた喉。目は皿のようになっている。そんな朦朧としそうな駅前で、俺は逃げ込むように涼しいファストフード店へ向かった。



 今は夏休みの真っ最中だ。だが、高校三年生には「休み」なんてものはない。夏期講習に明け暮れる毎日。志望校合格に向けて毎日毎日毎日毎日毎日……勉強ばかり。

 楽しくねぇぇぇ。

 まったくもって楽しくねぇ。

 遊びてぇよぉ……と、この間、バイト先の先輩方に愚痴をこぼした。

 案の定、鉄拳を一気に食らった。


「甘ったれるな、受験生」

「学生の本分は勉強だ」

「早く受験終わらせて、そして、早く帰ってきてね」


 1カウント、2カウント、3カウント。この最後のカウンターがひどかった。

 バイト先のコンビニは、自営業のコンビニである。

 地下鉄遠戸線、大川公園前駅の真ん前にどーんと構える太陽のマーク、通称「サニーちゃん」が目印のサンマート。そこは、もともと酒屋だったが、店長の代でコンビニに改装したという。

 少々古ぼけたコンビニは、人手不足だった。そんなに忙しくないくせに、受験のために休業届けを出している俺にも何かしら手伝わせようとしている。労働基準法、どうなってるんだ。

 三十路前の店長、吉村春真、大学四年生の真木明日子、吉川晴馬、フリーターの志村麻乃あさの、そして俺、市田いちだともの五人でシフトを回している。朝は七時から開店し、夜は店長の気分で閉める。二十時だったり二十二時だったりする。


 以前は、六人だった。専門学校を卒業してから辞めてしまった花島莉央がいた。

 彼女は、俺の小学校からの先輩で、幼馴染で、はぐれもので、よく二人で悪さをしては先生に怒られていた。

 ……そうだ。莉央さんがいなくなってから、バイトを続ける気も起きなくなっていたんだ。あの人がサンマートを辞めてもう半年になる。そして、あれから一度たりとも会っていない。今まで毎日、顔を合わせるのが日課だったから、急にそれがなくなってしまい、なんというか……思っていたよりもダメージは大きかった。

 実際、俺は莉央さんが辞めてから、とても肩身が狭かった。

 店長はお向かいの大手コンビニ、美人店長と毎日いがみあって(いちゃついて)いるし、真木さんと吉川さんは付き合って二年目。志村さんは……どうなんだろ。みんなをからかって、楽しんでいるけれど、実際よく分からない。とにかく、どこもかしこも浮かれてウザい。腹立たしい。お前ら、ちゃんと仕事しろよ。そんなだから、客が入らないんだろ。

 ていうか、俺だって彼女がほしい。めっちゃほしい。

「受験頑張って♡」とにこやかに笑って応援してくれる彼女がほしい。

「もう! すぐサボっちゃうんだから! だらしないぞ!」と茶目っ気たっぷりに叱ってくれる彼女がほしい。

 ソンビみたいな落ち窪んだ目で「受験なんか辞めちまえ」と言うおっさんや、リア充を見せつけてくるカップルの慰めは心底いらないのだ。


 懐かしさとだるさに目を細め、ゆるゆるとため息を吐く。いい加減、勉強しよう。

 参考書を片手にハンバーガーを一人でもさもさ食べる。

 辺りを見回せば、楽しそうなカップルや、友達とはしゃぐ中高生が。

 あーあ、リア充なんか滅んでしまえ。爆発しろ、物理的に。そんな呪詛を胸の内で吐き出していると、向かいの席に誰かがやってきた。参考書が陰り、なんと目の前に手が伸びてきた。ピースの形でひらひら振っている。


「よう、久しいな。市田」


 顔を上げると、そこには黒いキャリーケースと、黒いキャップ、黒い肩出しブラウスと、ショートパンツの女がいた。つややかな頬いっぱいに広がるピンクのチーク、とろんとしたタレ目と、ポニーテールが懐かしい。


「莉央さん!」


 思わず大声で驚いた。


「え、なんで……だって、就活で、東京に行ってたんじゃ……」


 彼女は就職活動のためにあちこちを飛び回っていた。それなのに、今、俺の目の前にいる。一体どういうことなんだろう。

 莉央さんは「ふん」とふてぶてしく鼻で笑った。


「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてるなぁ。どうだ、元気か、市田」

「えぇ、まぁ。店長たちも相変わらず元気っすけど」


 帰ってきたばかりなのだろうか。大荷物のままで、俺の前に現れた莉央さんは、勝手に椅子を引いて、俺の真ん前に座った。目線が同じ高さになる。

 そして、彼女は勝手に俺のポテトをつまんだ。


「はぁ〜、受験勉強か。お前ももうそんな齢になったんだなぁ」


 感慨深げに言う莉央さん。一方で、俺は戸惑っていた。確かに、ポテトを勝手につままれるのはいただけないのだが、そうじゃなく。

 花島莉央という女は、基本的に無口である。俺がいつも周りで騒いでいたから、ウザがられていたのだが、今日はなんだか違う。俺もそうだし、莉央さんも。いつもと逆、みたいな。

 そもそも、こうして至近距離で話しかけてくることは小学生以来ほぼない。彼女から話しかけてくる、なんてことも珍しい。久しぶりに会ったからだろうか。


「あの……莉央さん。今日はなんでまた。連絡入れてくれれば迎えに行ったのに」


 俺のポテトを容赦なくつまんでいく莉央さんに、文句を言うのも忘れている。突然の訪問に、まだ心臓が驚いている。


「本当に、本物の莉央さんっすか?」

「偽物の莉央さんがいるのかよ」


 うーん。やっぱりいつもの本物の莉央さんだ。この無愛想な言い方、間違いない。

 彼女は塩だらけの手で、俺のジュースまで手を伸ばした。


「うん、まぁね、市田に会いにきたんだ」


 それだけ素っ気なく言うと、彼女はためらいもせずにストローをくわえてジュースを吸い上げる。ズゴゴゴ。いやいや、そんなに飲まなくてもいいだろ。

 口紅の赤がストローから離れ、それをようやく突き返されて、俺は神妙に言った。


「莉央さん」

「ん?」

「間接キス」

「はぁ?」


 すかさず彼女は俺の頭を叩いた。


「お前、そんなの気にするやつだったか?」

「いや、気にしませんけど。むしろ大歓迎っす」


 まったく、あんたの中で俺は一体どういう認識をされてるんだよ。ちょっとは恥ずかしがれ。

 すっかり軽くなったジュースが寂しい。これを脇に追いやり、俺は身を乗り出した。


「ここで、俺が気にするって言ったらどうしたんすか?」

「どうって?」

「どうって……なんか、ちょっと恥ずかしがったりとか。するんすか?」


 なんとなく期待を込めて訊いてしまう。馬鹿だな、俺。答えは決まっているのに。

 ごくんとつばを飲む間も与えず、赤い唇はふわっと動いた。


「どうもしない」


 ですよねー。

 分かってはいたけど、即答にはうなだれてしまう。


「大体、お前は私の舎弟だろ? 小学生のときから」

「いつ俺があんたの舎弟になったんすか」

「おいおい、昔のあれやこれやを忘れたわけじゃねーだろ。なんだよ、不満なのか? じゃあ、子分にしてやろう」

「それはもっと嫌だ!」


 せめて後輩という立ち位置でいてほしい。まったく、あんたの中で俺は(以下略)。


「なんだ、見ない間にずいぶんと偉くなったじゃないか。市田、お前は私に逆らえる身分なのか?」

「いくら先輩だからとは言え、そこまで偉ぶられるとかえって清々しいな……あーもう」


 舎弟だったら何をしても許されるのか。俺の立場、弱すぎて引くんですけど。


「まぁまぁ。いいじゃないの。こうして齢を重ねるとさー」


 莉央さんは目を落として言った。急にアンニュイな雰囲気をつくられても対応に困る。

 しかし、そんな俺の心情を汲み取るはずがなく、彼女は淡々とつぶやいた。


「齢を重ねると、子供のころのことが懐かしく思えるんだよ」

「はぁ。言っても、あんた、まだハタチじゃないっすか」

「二十一だよ」


 俺の言葉を律儀に訂正してくる。ハタチも二十一もそんなに大差ないと思うんだけど。

 しかし、ここで怒りに触れてしまえばハンバーガーまで奪われかねないので、黙っておくことにする。

 莉央さんは指先を見た。そこには、前は真っ赤と黒のネイルが施されていたのに、今はきれいに整ったピンク色のしずく型。艶もあって、なんだか清楚さを思わせる。どうにもそれが、彼女らしくなくて、俺は胸の奥が急にさびしくなった。こう、ぎゅっと、つままれたような、そんなもどかしさも感じる。


「あぁ、そうだよ。私ももう二十一歳になってしまった……それなのに、未だに私は影のようにゆらゆらとさまよっているんだ。あぁ、侘しい侘しい」

「侘しいって、それ、意味分かって言ってんすか」


 言い方がふざけていたから、思わず吹き出した。すると、莉央さんも口を歪ませて笑う。ほんと、笑顔が下手くそだ。

 それから、彼女は半目でこちらを見つめてきた。ふさふさのまつげがクルンとカールしていて、目の開閉に困りそう。派手な化粧は昔から変わらない。口調も女の子らしくなくて、がさつ。独特な言い回しと、威嚇するような見た目と口調のせいで怖がられていた。そんな彼女に何故か懐かれ、今では俺のほうが懐いている。


「子供のころと言えば、莉央さんの背を追い越したとき、莉央さんから理不尽に無視されてましたねー」

「あー、あったあった。そんで、取っ組み合いの喧嘩までして。あんまり悔しいから、齢追い越してみなって言ったんだよね」

「馬鹿ですねー」

「馬鹿だなぁ。ほんと、クソガキだった」


 思い出話に花が咲く。それすらも、珍しいことだからどうにも調子が狂う。

 俺たち、こんな話をするような仲じゃなかったよな。なんか、おかしい。


「――ハンバーガーは青春の味だ」


 唐突に、彼女は言った。俺は首を傾げる。

 莉央さんは、俺がかじっていたハンバーガーを、きれいな爪で指した。


「私も受験勉強しながら、今も履歴書とかエントリーシート書きながら、よく食べていたよ」

「へぇ」


 莉央さんにもそんな時代があったのか。いつも能天気に川辺でたそがれていたようにしか思い出せないけれど。でも、俺の知らない彼女が確かにそこにはあるようだ。


「ま、要するにな、市田。お前は私のようにはなるんじゃないぞ」


 その声には侘しさが混じっていた。

 なんだろう。変わらなくていいのに、地味にあちこちが変わっているから、こっちが置いてけぼりを食らっているようになる。

 ふと、彼女のことが心配になってきた。就活、うまくいってないのだろうか。いや、聞けるわけがない。無邪気なフリをするのは、もう限界な年齢になっている。


「莉央さん、それ、どういう意味っすか?」


 意気地がないからとぼけてみた。


 ――私のようにはなるんじゃないぞ。


 応援なのか、後悔なのか。

 莉央さんは薄く笑うだけで、何も答えてくれない。「隙きあり!」とハンバーガーまで奪われてもなお、俺のもやもやは解消されなかった。


「莉央さん……」

「ん?」

「あの、俺、頑張るからさ。莉央さんも、頑張ってください」


 子供だな。ほんと、いつまで経っても追いつけやしない。いくら身長を追い越しても、時間まではどんなに走っても走っても追いつけない。

 まだ、大人にならないでほしい。でも、そのまま立ち止まっていてほしくもない。どうしたらいいか分からないから、子供じみた適当な応援しかできない。

 そんな俺に、莉央さんは「はぁ?」と素っ頓狂な声をあげた。


「お前に言われなくても、私は頑張るわ。そこまで落ちぶれてない。見損なうな、私を」


 ハンバーガーをたいらげて、唇についたソースをぺろんと舐め取った彼女は、どこまでも強気だった。それを聞けば、すぐに安心する。


「じゃあ、なんかご褒美でも考えません?」

「ご褒美? 就活と受験がうまくいったら、みたいな?」

「そうそう」

「例えば?」

「俺が大学受かって、莉央さんも仕事決まったら、俺たち付き合いませんか?」


 つい調子に乗って口がすべる。冗談だ。いつもの軽口だ。間接キスを気にしている子供みたいな、そんなノリだ。

 莉央さんのことだから、すぐに「馬鹿じゃねーの」と言ってくれるはずだった。


「………」

「………」

「………」

「え?」


 なんで何も言わないんだ。


「………」


 莉央さんは無表情だった。しかし、みるみるうちに耳まで真っ赤になっていく。チークのせいじゃない。これは、まさか。


「うわぁ……まじっすか、莉央さん。ここで?」


 恥ずかしがってくれるタイミング、絶対間違ってるだろ。


「つーか、莉央さんってそんなの気にする人だっけ?」


 真っ赤な顔が歪む。頬が膨らんだ。やべぇ。ふぐみたい。

 茹だった莉央さんは、やはり何も言わない。めちゃくちゃ怒ってるのに、どうにも優越感。

 やがて、彼女は「そ」と口を開いた。


「そんなの、気にするわけねーだろ。馬鹿」

「気にしてんじゃん」

「うるさい、黙れ! ってか、キモ! なんだ今の!」

「人の告白をキモいとか言うな!」


 言い返すと、莉央さんは言葉に詰まった。おぉ、困ってる困ってる。

 すごく面白いけど、これ、俺も恥ずかしいやつだな。うーん。やっぱり今日はどっちも調子が狂ってる。

 何も言わなくなった莉央さんを見ながら、俺はソファに背中を預けてシャツを扇いだ。淡く期待していた青春ってやつが、一度に襲いかかってきて胸焼けしそう。

 あっちーな。どうしてくれるんだよ、この状況。俺の馬鹿。


「……付き合うって、なに?」


 至って静かな質問は、参考書の数式よりも単純なものだった。1+1=2みたいな質問だから、俺は呆れて天井を仰いだ。


「そりゃ、男女のあれだろ。あれっすよ」

「私と? お前が? ないわー、ないない。ありえねー」

「いーや。ありえてもおかしくないっすよ。だって、莉央さん、俺のこと好きじゃん」

「好きだよ」


 意外とあっさり返ってくる。しかし、顔は恥じらったままだ。


「それは弟みたいに思ってるから?」

「そうそう」

「んだよ、それ」


 期待くらいさせろ。俺はあんたのこと、十年以上も好きなのに。不公平だ。


「大体、なんで私がお前と付き合わなくちゃいけないんだよ」


 莉央さんの声が苛立つ。それが伝播し、俺も次第に苛立ってくる。

 鈍感にもほどがあるだろう、この人。馬鹿なのか。いや、馬鹿だったな。知ってた。


「そりゃ、俺が付き合いたいからに決まってるじゃないっすか」

「動機は?」

「莉央さんのことが好きだから」

「嘘だぁ」


 莉央さんは大きく仰け反った。嫌そうに眉を歪ませている。


「嘘だったら、こんなこと言いませんて」


 あぁもう。俺、なんでこの人のこと好きなんだろ。馬鹿だなぁ。俺も。

 さっきまでの高揚が嘘みたいに縮小していく。うーん。これは、失敗だったかもしれない。ここまで言わせておいてもなお、莉央さんは首をかしげていた。どこまで鈍いんだろう。


「私と付き合うメリットは?」

「メリット……」


 そう聞かれてしまうと言葉に詰まる。メリットなんか考えたこともなかった。


「なんか、なんだろう……彼女がいれば、俺の生活が潤う的な。堂々といちゃつけるし、要は公認ってことじゃないっすか。それに、リア充になれる」

「不純だなぁ」


 呆れた一瞥が投げられた。

 だって、それはしょうがないだろ。それが目的の大多数なんだから。

 包み隠さず話しても、莉央さんは強情だ。だんだん不安になってきた。


「……そんなにダメっすか」


 言葉にすると、現実を直視してしまって落ち込む。


「そんなに俺のこと、嫌い?」

「嫌いじゃない。でも、そんな風に見たことなかった」


 はっきり言われるとなおのこと落ち込む。俺はテーブルに額を打ち付けた。

 かっこわりぃ。だせぇ。あー、もう帰りたい。でも、ここは年下の特権で甘えてやる。それくらいは許してほしい。


「……市田ー」


 莉央さんが頭をペンペン叩いてくる。そこには少しの優しさがあった。


「私はさ、お前のことをかわいい舎弟だと思ってたよ」

「舎弟かよ」


 気休めにもならない慰めに、すかさず毒を吐くと、彼女は気まずそうに唸った。


「……だからさ、ひとまずこれは保留にしよう」

「えぇぇぇぇ?」


 まさかの提案に、俺は顔をあげて抗議した。


「保留?」

「そう。だって、大学受かったら、だろ? 私も就活頑張るし、そっから考えてもいーんじゃね?」


 くそ。俺の提案が逆手にとられた。これはどうにも反論ができない。

 逃げられたらまずい。俺は焦って、声をつまらせた。思ったように言葉が出ない。でも、ここでなんとしても繋ぎ止めなくちゃいけない。


「じゃ、じゃあ! じゃあさ! 受かったら、絶対に約束守ってくださいよ? 絶対に!」

「おう。二言はない」


 潔さは百点満点だ。はぁ、まったく。そういうとこが全部かわいい。


「あぁ、もう。ほんと、我慢できない。莉央さ〜ん!」


 堪らず腕を広げて抱きしめようとすると、重めの鉄拳が飛んだ。

 どうも、俺の青春は甘くないらしい。これからも、ずっと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る