くすくすさん
んぐんぐ、ぐぎぎ、くすくすくす――
今年もまた、天井が笑う。
***
小さいころ、夏休みになれば祖父母の家に泊まっていた。古い木造のお家は、広くて涼しい。陽が射さないから夏場はとても快適で、エアコンなんてものもなかった。
おばあちゃんが切ったスイカを食べるのが楽しみなんだけど、私は決まって夜になるとお父さんに「帰りたい」と言っていた。
「昼間はあんなに楽しそうだったくせに」
お父さんもお母さんも呆れて笑う。私の必死な「帰ろう」に耳を傾けなかった。
「なんね、奈緒美ちゃん。また『くすくすさん』に遭ったとね」
夕食を運びながらおばあちゃんが言う。私はこくこくとうなずいた。
「大丈夫よ。くすくすさんは怖がらんかったら、なんもせんけんね。怖い怖いって言うけん面白がって天井ば鳴らすったい」
それが怖いんだよ、と訴えても大人たちは相手にしてくれないのだ。
祖父母の家には「くすくすさん」という正体不明のお化けがいる。それは、お父さんがこの家に住んでいる時から、おじいちゃんが子供の頃からいるらしい。
でも、大人になったら分からなくなるんだとか。子供だけに悪さをする。悪質だと思う。
そんなくすくすさんの正体を、幼い私は大きな足と大きな口がある毛玉みたいなイメージをしていた。
夜――みんなが寝静まった時間、私も怖いながらウトウトしていると、天井が鳴いた。
んぐんぐ、ぐぎぎ、くすくすくす――
「おかーさん……」
横で眠るお母さんを起こしても「早く寝なさい」とあしらわれる。
でも、天井はやっぱりずっと笑うんだ。
んぐんぐ、と押し殺して。
ぐぎぎ、と歯を鳴らして。
くすくす、と笑う。
天井の裏側を縦横無尽に転げて笑う。私は耳を塞いで布団の中に潜り込んだ。
***
それは多分、小学校の低学年まで続いた。
と、言うのも私が10歳をむかえた頃には祖父母の家に泊まるというイベントがなくなったからだ。夏休みに行くことも数年に一回とか。正月に挨拶に行くだけとか。
私も段々と成長し、天井のくすくすさんを気にしなくなった。
「あー……くすくすさん、だったね。懐かしいなぁ」
お母さんとお皿を洗っているときに、そんな話を持ち出してみた。おばあちゃんが亡くなったので、親戚を呼び寄せての自宅葬。近しい親族の私たちはバタバタと慌ただしく、台所でグラスやお皿の片付けをしていた。
「お母さんに言っても助けてくれなかったしね」
「だって、お母さんには聞こえなかったんだもの。あんたが変なことばっかり言うから、おばあちゃんもおじいちゃんもお父さんものっかって、あんたを怖がらそうとしてたのよね。懐かしい」
懐かしがるところじゃあないと思う。怖かった記憶だけはこびりついているんだから、未だに私はこの家の天井を見上げることが出来ない。
「で、くすくすさんは今もいるの?」
お母さんが言う。私は「うーん」と恐る恐る見上げた。耳をすます。
「……いない」
「ほらね。やっぱり気のせいじゃない。こういう古い平屋のお家は家鳴りするものなんだから、そのくらいでビクビクしないの」
家鳴り、ねぇ……ギシギシときしむような音じゃなかったんだけどなぁ。
片付けが一段落すれば、お父さんが親戚たちを見送っていた。もう夜も更けている。小さい子供たちはあんまり会ったことがないハトコだろう。「バイバイ」と手を振ってやると、おさげの女の子がタタっと私に近づいてきた。
「お姉ちゃん、今日、このお家にお泊りするの?」
背伸びして言う女の子に、私は制服のスカートを後ろで抑えながらしゃがんだ。
「うん。今日はお泊りするよ」
「そうなんだ……じゃあ、気をつけてね」
「え?」
密やかに言う女の子の言葉に、私はドキリと胸を鳴らした。
「ど、どうして?」
「だってね、おばあちゃんの近くにずっと、もじゃもじゃのヤツがいるもん」
「………」
「怖いから、お姉ちゃんだけに教えた。気をつけてね」
そう言うと、女の子はバタバタと逃げるように母親の元へ走った。伸ばしかけた手は空を掴む。
おばあちゃんの近くに、何がいるって?
私は急いで家の中へ入った。おばあちゃんは棺の中で眠っている。大きな広間の壁際、大きな仏壇の真ん前に。静かに眠っている。そこに何がいるって?
私はゆっくりと近づいた。おばあちゃんの棺――頭の方は閉じられている。そっと、手を伸ばして開けてみた。
瞬間、
「きゃあっ!」
悲鳴と同時に私は大きく後ろへ仰け反った。
真っ白にお化粧をしてもらっていたはずのおばあちゃんの顔が、黒くもじゃもじゃとした何かに覆われていたのだ。
「どうしたの、奈緒美」
私の悲鳴に驚いたらしいお母さんがすぐに駆けつける。でも、私は腰が抜けて声も出せない。
黒いもじゃもじゃはもういない。だって、そいつは飛び上がって天井へ逃げていったのだから。
「何よ、もう。脅かさないで」
お母さんは怪訝に言って棺を閉めた。私は息を吸い、ゆっくりと胸の動悸を抑える。
「奈緒美、お風呂に入っちゃってー。明日も朝早いんだから」
台所へ行く母の声に「はーい」と声を返すくらいには、どうにか落ち着きを取り戻した。けれど、今見たものが頭から離れない。
私はもう一度だけ、棺を開けた。
おばあちゃんに何かしたら許さない。なんとか追い払わないと。
そんな意気込みは虚しく、おばあちゃんは穏やかな表情で静かな眠りについているだけだった。
「なんだ……もう、見間違い?」
まぁ、そうよね。変なものが見えるなんて、バカバカしい。
棺を閉めてお風呂へ行こうと立ち上がる。
その時、棺の真上から物音がした。
んぐんぐ、ぐぎぎ、くすくすくす――
笑っている。
天井が、あの音を立てている。
気がつけば私はお風呂場へ逃げ込んでいた。
***
「ねぇ、お父さん」
火葬が済んだ後、私は思い切ってお父さんの腕を引っ張った。お母さんじゃ相手にされない。だから、この家で育ったお父さんに聞くしかない。
「くすくすさんって、なんなの?」
喪主だから忙しそうにしていたけれど、私だって限界だった。お父さんは眉をひそめて考え込む。
「ほら、くすくすさんだよ。夜になると天井が笑うの」
「……あぁ、そういう話もあったな」
ようやく思い出したらしく、お父さんはため息と苦笑を交えて言った。
「黒いもじゃもじゃ、見たのか」
「えっ、う、うん……」
お父さんの口から出る言葉に思わず拍子抜けする。お父さんは少し、慎重な声音で言った。
「俺も子供のときに一回だけ見たんだ。おばあちゃん、奈緒美のひいおばあちゃんが亡くなったときに。顔を覗き込んでいたから追っ払ったことがあるよ。それがもしかすると、くすくすさんなのかな」
「あれはなんなの?」
「分からん。でも、昔から俺もおじいちゃんに言われてきたよ。くすくすさんは『怖い』と思ったら悪さするから怖がらんごとしろって」
小さい頃に言われた通りのこと。でも、それじゃあ納得できない。
「なんか、悪いやつじゃないの?」
「うーん……でも、天井の裏で子供脅かしてるだけだしなぁ……ただ、確かに葬式の時だけ天井から降りてくるのか。うーん、分からんなぁ」
頼りの綱がこうじゃ、もはや手の打ちようがない。
私は「あっそ」と素っ気なく言って、それからはずっと仏壇の前に座っていた。番をするように。
んぐんぐ、ぐぎぎ、くすくすくす――
あの笑い声は、なんなのか。家に棲む何か。でも、取り立てて悪さはしないという。
ただ怖がらないようにすればいいだけ。それはもしかすると、大人になれば「恐怖」が鈍くなるからなのかもしれない。
本当は、ずっといつも天井裏にいる。気づけなくなったら、どうなるんだろう。
そんなことを考えていると、背筋にぞわりと寒気が走った。
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