手の鳴る方へ

 僕はどうやら、な子供だったらしい。


 部屋の整理をしていた時に見つけた古いアルバムを開いていると、母がそんなことを言いだした。


「そうそう、この頃のあんたはね、公園にある木に向かって『おばけ!』って言ってたんだよ。この子、まさか霊感があるのかしらーって思ってたらね、小学校に入る前にはピタリと言わなくなってねぇ」


 母は、少しとぼけている所がある。当時から笑い話として、家族のネタにすることがしばしばだったそうで、それを聞いた僕も今、あまり気にしてはいなかった。


 子供というのはそういうものだ。不思議なものを不思議なものに例えて言う生きものだ。兄の友達の妹だか弟だかもそれに近いことを言っていた……なんてのも聞いたことがある。


「お兄ちゃんはそんなこと一回も言わなかったのに。あんただけがそうやって言うもんだから、変わった子だねぇって思ってたのよ」


「ふうん……で、その『おばけ』はどこの公園にあるの?」


 満面の笑顔を振りまく幼児をぼんやり眺めながら訊いてみる。

 母は思案顔で唸った。


「えーっと、なんて名前だったかなぁ……ほら、幼稚園の前にあった大きな公園よ。あそこにある木に向かって指差すの。『おばけ!』って。あと、なんか『手を叩いてる』って言ってたような、ないような」


「へぇ……」


 記憶にない。

 まぁ、幼稚園に通っていた頃ならば、四、五歳の頃だ。写真の子供も制服を着ているし、次のページを捲ればもうランドセルを背負っていた。


「変なこともあるんだなぁ。まったくそういうのないって思ってたのに」


「いやいや、あるわけないじゃない。父さんとあたしの子なんだから鈍感に決まってるでしょ」


 母は楽観的に笑った。

 確かにそうだ。母はともかく、父もぼやっと穏やかな人だ。その二人の遺伝子を受け継いでいるのだから、人よりはいくらか呑気なところがあるのも事実。平凡に愛されていると言ってもおかしくはない。因みに、兄はしっかりしているもののやはりどこか抜けている。


 僕はアルバムを閉じた。

 元より、このアルバムは新居に持って行く予定はなく、ただ整理している最中に見つけた漫画やら小説やらと同じで、つい手にとっていまったばかりに作業の手が止まってしまったのだ。


 そろそろ日暮れも近い。さっさと片付けなくては。


「あら、もう終わり?」


「だって作業進まないし。明日には引っ越しなのにさ、全然まとまってないんだよ」


 溜息混じりに返すと、母はまた笑った。そして、おもむろにしゃがむと、手近にあったものに手を伸ばす。古くなった漫画雑誌を掘り起こしたあと、その場に放置していたやつだ。


「お母さん、手伝ってあげようか?」


「はぁ? いいよ、やめて。自分でやるから」


 雑誌をひったくり、僕はアルバムを放るとすぐさま母を部屋から追い出した。

 まったく、いつまで子供扱いするつもりだ。明日から独り立ちだっていうのに。


「どうせ、もう終わらないでしょ。それよりも、ちょっとお遣いに行ってきてくれない?」


 部屋のドアからそんな声が聞こえる。

 僕は散らかった部屋を眺めた。服、本、CD、書類、布団、雑貨、などなど。なんでもかんでも放り投げ、放置している。目移りし過ぎにも程がある。


「分かったよ……」


 気分転換にもなるだろう、と僕は持ち物全部をそのままに部屋を出た。




 買い物へ行ったものの、肝心の卵を忘れてしまったらしく、僕は家から少し歩いた距離にあるスーパーマーケットまで向かった。


 まったく、親子丼を作るのに卵がないなんて、母のうっかりには呆れよりも感心さえしてしまう。


 早く帰って、夕飯の前には荷造りを終わらせたい。しかし、紫色の空とカラスの鳴き声のせいで、あの部屋の散らかりように気が滅入ってしまう。


 特売の卵ではない、なんだか大仰な名前のついたものを買い、足早にスーパーを出た。


 携帯電話の画面を開くと、既に時刻は十八時過ぎ。気分はまだ片付けに集中出来るほどの余裕がない。



 そう言えば、「おばけ」のいる公園とは、どこだろう。



 幼稚園の近くにあると、母は言っていたが……記憶の中にある公園は、確か「かえる公園」だった。

 今思えば、本当に「かえる公園」という名なのか疑わしい。ともかく、僕が見た「おばけ」は「かえる公園」にあるはずだ。


 スーパーから近い場所にあるので、家とは反対方向のその場所へと足を向けた。




「おー、変わってない」


 古めかしい記憶に眠る、大きな公園は十年以上経てば、色が褪せてしまっていた。最近は遊具の撤去が行われる公園もあるらしいが、ここの遊具は未だ健在だ。鉄が錆びていて、浮き出たオレンジ色に年季を感じる。


 六時も回れば、当然子供の姿はなく、公園の中央に僕だけが取り残されたようだった。



 で、その「おばけ」はどこだ?



 遊具、ではないのだろう。木に向かって言っていたらしいのだから、公園を囲んで立つ木のどれかなのだろう。

 新芽が出たばかりの木しかなく、そのどれもが楓の木らしかった。


「かえる公園……かえで公園の間違いなのかもしれないな」


 そんなことを呑気に考えて苦笑する。


 だって、こんなに楓の木で溢れて……




――パンッ――




 と、何かが弾けるような音が鳴った。



 咄嗟のことで思わず、手に持っていた卵の袋を見やる。何も異常はなかった。


 それにしては、やけに鮮明な音だった。

 まるで、近くで鳴らされて……それこそ、ような。


 目の前で揺らぐ楓の新芽を睨む。丁度、鉄棒の近くにある楓の枝に、今にでも開きそうな芽が、こちらをじっと見つめている。


「気のせい、か」


 もう、二度とこの公園には来ないのだろう。

 幼い頃の思い出を置いていくように、僕はもうその場から離れた。



***



「パパー」


「どうした?」


 小さな両手を広げて、こちらへ一目散に突進する娘を抱き寄せる。


 帰省するなり、外に追い出された僕と娘は近くの公園で遊んでいた。


「あのね、あのね!」


「ん? ゆっくりでいいから、どうしたの」

 

 拙く話す娘の手を握る。すると、ぷっくりとした小さな口から、どこか覚えのある言葉が飛び出してきた。


「あのね、あの木のとこに『おばけ』がいるの!」


「え?」


「こうね、おててをパンパンッ! て! したの!」


 拙くも一生懸命に話す娘に、僕は頬を緩ませてしまう。

 まったく、子どもというのは突拍子もないことを言うものだ。


「そんなわけ……」



――パンッ――



 手を叩く音が、鮮明に聴こえる。辺りには子連れの母親が多い。昼間の公園など、そういうものだ。

 しかし、僕の近くで手を叩く人はどこにもいない。勿論、娘でもない。


 見回していると、腕の中にいた娘が声を上げて笑った。


「ほら、パパの近くにあるよ。その『おばけ』がね、いっぱいいるの!」


 随分と奇妙な事を言う。

 だって、僕の近くには楓の木しかないはずなのだから。

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