脳内グラフィティ〜赤を掴む〜

 水色のキャンバスに、縞模様の赤があったので、それを掴もうと手を伸ばした。


 でも、こんな低い場所では届くはずもなくて。


 仕方ないから、高い場所を探した。畦道に立つ、細長い名も知れない樹を見つけて、一目散に走ってよじ登ってみる。



「……あれ?」


 てっぺんまで来たところで、顔を上げたらあの綺麗な縞模様がどこかへ行ってしまった。




「……というところまでは大体把握した」


 私は、そろそろ首が痛くなってきたので見上げておくのをやめた。溜息。


 目の前には、細長い樹がある。そこから視線を上へと辿っていけば、なんとこれまた細長い体躯のもしゃもしゃ頭のメガネ野郎が足をぶらぶら弄び、私を見下ろしているのが見えてくる。


 今年で二十歳を迎えるその男は、大学の同期生であり、友人である。まったくもって不本意ながら、彼は私の友人である。


「珍しくメールなんて寄越すから、一体全体何事かと慌てて来てみれば……降りられなくなったって、どういうことよ」


 そう。彼は無計画に木登りをして地面に降りられなくなった小動物のような目で私を見ているのだ。

 確かに、彼はぼーっとしているし、田んぼに自転車ごと突っ込むし、階段は踏み外すし、本人曰く「の先」を見ていたらこうなるらしいのだけれど、さすがに樹に登って降りられない、なんてことは今までになかった。


「把握したのなら分かってくださいよ」


 彼は疲弊しきった声を落としてきた。

 まったく、いけしゃあしゃあと図々しい。


「ねぇ、はかる。あんた、もう少し考えて行動したらどうなの。助けたいのは山々なんだけれどね、私じゃあどうしようもないよ、こればっかりは」


「えぇ……」


 酷く困惑しているが、彼は私のことをなんだと思っているのだろう。か弱い女子に助けを乞うなど、情けないことこの上ない。


 彼は思案顔で、今はもう群青色に変わった空を枝の隙間から見ていた。


 もうすぐ夜が来る。その前にどうにか救出しなければ。しかし、私の身長(158.9cm)の二倍はある高い樹に、しかもてっぺんにいる彼をどうやったら助けられるのか。皆目見当がつかない。


 そろそろ星も瞬き始めてしまうので、そうなれば計はまた突拍子もない想像を脳内で創造し始めるので、ともかくなんとかしなければならない状況だった。


五月原さつきばらさん」


 どうやら降りる算段がついたのか。私を呼ぶ計。


「どうしたの」


「あの、もし、ここから一生降りられなくても、僕のことを忘れないでくださいね」


「いや、待って。どうしてそんな言葉が飛び出すのか分からないんだけど。縁起でもないこと言うんじゃない」


 どうしたらそんな発想に陥るのか。

 もしや、怖いのだろうか。降りられないからといって、悲観的になるほどこの高い位置で私を見下ろしているのが怖いのか。それなら、やはり友人としてここは助けてあげなくてはいけないのかもしれない。


 さて、それならどうしよう。


 とにかく何も持たずに来てしまったから、道具などはない。

 他の人を呼ぶか? いや、それだと計のメンタルが危うい。両親でもなく、妹でもなく、私だけを呼んだということは、この状況を私以外に知られるのが嫌なのかもしれない。


 赤とは大分かけ離れてしまった空は、黒へ染まろうとしている。とりあえず、明かりが欲しい。

 私はスマートフォンを操作してライトを点けた。

 いやまったく。この世は便利になったものだ。スマホだけでなんでも出来ちゃうんだから。


 と、私は明るく照らされた樹の幹を上までなぞるように見た。

 四方八方に伸びた枝は、さながら黒い爪のようだったけれど、上手く間違えずに足を置いていけば降りてこられるんじゃ、と思い至る。


「計、私が電気点けておくから、どうにか枝に足を置いてみない? ゆっくりでいいから」


 すると彼はぶらつかせていた足を止めた。


「すみません……お手数おかけします」


 急にしおらしくなるものだから、私は苦笑して彼の足元を照らした。


 そろりそろりと足を枝に置いていき、計は慎重に順調に降りていく。時折、小枝の折れる音がし、計のみならず私までひやりと肝を冷やした。


「あ、そうそう。五月原さん」


「喋るな。いいからさっさと降りなさい」


 樹の中間まで降りてきた計が突然口を開くので、私は即座に彼の声を塞いだ。渋々といった様子で閉口し、細長い足をこれまた細長い枝に置いていく。


 それからもなんとかゆっくりじわじわと計は地面へと帰還を果たした。


「はぁー、助かったぁ……」


 地に足がついた途端、彼は膝から崩れ落ちた。私も掲げていた腕を労るように擦る。ちょっと痺れてるし、痛い。


「五月原さん。ありがとうございました」


「まったく、もう。次はないからね」


「はい……」


 ツンとした私の態度に、計はにへらと笑顔を私に向ける。溜息。


「あー、それで? さっき言いかけたのは?」


 中間地点で唐突に、あたかも思いついたかのように口を開いた計だが、それを阻んでしまったことを思い出して訊いてみる。すると、彼は「あ!」と手を打った。

 なんであんたまで忘れてるんだ。


「そうそう。最近、夕暮れの空が綺麗なの、知ってますか?」


 まったく、無邪気に笑ってくれる。子どものようなキラキラとした輝きで。夜なのに、それがどうにも眩しい私は目を細めた。


「知らない」


「知っててくださいよ。ちょっと上を見たらいいだけです」


 そんな言い方をしたら、まるで私が情緒のない冷徹人間のようではないか。これには異を唱えさせていただきたい。

 しかし、私が開口する前に計が言葉を続けてしまった。


「今日の空は凄く良かったです。水色のキャンバスに、間違えて赤を垂らしたような、そんな感じで。滲んでぼけて、透き通って。縞模様になっていて、それで」


 嬉しそうに語ってくれるのだが、彼の見た景色を私は脳内で思い浮かべることが出来ずに、首を捻っていた。

 綺麗だってことは分かる。ただ、上手く描けない。そんなわけで私はぽつりと呟いた。


「見たい……」


 そう言うと、ひっきりなしに囀っていた彼の口がピタリと止まる。


「……じゃあ、見てみますか?」


 にこりと笑う大きな丸メガネの顔。それを見上げて、私はこくりと頷いた。


「じゃあ、目を瞑って下さい」


 静かな声に従って、視界をゆっくり遮断する。その狭間に、彼の「助けてくれたお礼です」という声が耳に届いた。




***




――水色のキャンバス……透き通っていて、実は白に近い。そんな色です。



 脳内に描こう。きめ細かな水色で塗りつぶそう。



――真白の絵の具を筆にたっぷり含ませて。



 その筆を水色にふんわり置いていく。



――次に、赤を溶いた水を一気に流してください。




 ざぶん。透き通った赤がキャンバスに溢れていく。ふやけてぼやけて膨らんでいく。


 あぁ、これだ。


 浮き上がった白が垂らされた赤のせいでぷっくりと縞模様を創り出す。それはまるで、手に届きそうで、掴みたくなる。




 私は無意識に手を伸ばしていた。



「見えましたか?」


 目を開けると、私の視界は赤から濃紺へとグラデーションがかかった。計の姿が見えてくる。


「見えたよ。綺麗だった」


「それは良かった」


 何故か彼の方が満足げだ。


「せっかく、手が届きそうだったんですけどね、樹に登ったらもう消えてて。夕暮れってすぐに夜になっちゃうから、なんだか勿体無いです」


「ふうん……なるほどね。でもまぁ、確かに、あんなのを見たら高いところに登っちゃうかもね」


 仕方がない。綺麗なんだから。計の視点でいると、どうにも文句が言えないもので。

 私は溜息を溢したけれど、まだ後を引く赤のせいで不満は解消されてしまった。


 計はというと「えへへ」と照れくさそうに笑っている。褒めても讃えてもないんだけどなぁ。


「今度、その赤を掴めたら、五月原さんに一番に教えますね」


 ぽやっと私に笑みを向けてくる計。それを両目に映してしまい、思わず逸してしまう。


 本当、空が暗くて良かった。私の顔が今まさに真っ赤だろうから。

 この赤がまだ見つかりませんように。

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