第89話 新たなる天地
雪が、降っていた。
無音のまま降り注いでくるそれは、優しく積もっていく。虚空を漂う、銀と薄桃色の金属塊へと。
それは止む気配がない。どころか、どんどん勢いを増していくようにも見えた。
奇異であった。天に光り輝く蜘蛛の巣が広がる世界。この世の果てのその先でこのような光景が生まれるとは。
光を反射して輝く雪はどこまでも幻想的で、不可思議な景色を生み出していた。
「……?」
鶫が、ふと顔を上げた。と言っても肉体のそれではなく、空想の中。先輩たる遥の
「先輩」
「うん……?これは」
泣き疲れてうとうとしていた遥は、半ば休眠状態だった思考回路を活性化させた。指を伸ばし、降って来た雪を受け止める。
それは物理的には、仮装戦艦の躯体によるサーチ、という形で行われた。
結果はすぐ出た。
それは、破壊された転換装甲の破片。蒸発したそれらが再結晶化したものだった。
「あの
「とても、綺麗です」
「ああ。
それにしても不思議だ。この空間じゃあ、どういうふうに動いているんだか」
ふと気になって、結晶のひとつを追跡する。それは、ぐるり、と同じところをループしているように見えた。複雑な重力状況によって支えられたその運動は、よく見れば単に空間的なものでだけではない。過去と未来をぐるぐる、と周回しているのだった。
周辺を見渡してみれば、それと同様の事が無数に起きている。これらのループはしかし、永遠のものではない。よそから飛んできた結晶とぶつかり、軌道が変わればループは終わる。それは時間を超越した不可思議な運動なのだった。
「大自然の驚異だな。いや、本来この世界には物質はないのか」
ブラックホール内部の環境は過酷の一言に尽きる。入り込んだ質量は砕け散り、エネルギーは散逸してしまう。高度な科学力を持つ知性体のみが、この世界に到達することができるのだった。
「……この光景を見ることができて、よかった」
「先輩……」
「私たちはまだ生きてる。元の世界に戻ることはもうできないが、別の宇宙に向かう事はできる。どうせ帰る場所なんてもう、ないしね。
あちらの宇宙に出る事までは、歴史の奴も邪魔をすまい。
手つかずの新天地だ。金属生命体群だっていない。無限の空間と時間が広がっている。
鶫。私と一緒に。別の宇宙で新しい地球を、作ろう。不知火たちがやっていたように」
遥の顔は、どこまでも穏やかだった。長年の。それこそ人類史の数割にも匹敵するほどの時間が、最初から徒労だったのだと判明したのにも関わらず。
やはり彼女は、根っからの
伸ばされた手を、鶫はしっかりと握り締めた。この先輩をもう、どこへも離さないように。
「はい。喜んで」
二人が浮かべたのは、笑顔。それは弱々しかったが、しかしもう、悲しみはない。たった今、一生分の涙は流し終えたから。
そうと決まれば善は急げ。随分と重くなった腰を浮かせようとしたとき。
「……これ……?」
二人の躯体。その周囲を包む雪の輝きは、強い。いや、その密度はどうだ。この量は一体なんだ。
いったいどうやれば、これほどの量が。
呆然とするふたりだったが。
「―――そうか。ここで共倒れになったのは、私たちだけじゃない……」
この世界は、宇宙創成より数億年―――いて座A
少女たちが戦った領域はごく小さな点にすぎない。
ならば。
他の可能性。別の歴史における遥と鶫たちはまた、別の場所で争い合い、そして散っていったのだろう。可能性とは無限大に存在するものだから、その残骸も無限に存在するはずである。もはや吹雪となったこの異常気象は、少女たちの骸なのだ。
まるで意志ある者のような吹雪に、ふたりは圧倒された。これはいかなる奇跡なのか。
凄まじい勢いで二人の周囲を巡っていくそれらは、まるで原始星が構築されていく過程を見ているかのよう。いや、まるで、ではない。
まとまった質量。小なりとはいえ残骸が残った少女たちの持つ重力を核として、吹雪は公転しているのだ。本来であれば、途方もない時間が必要な過程。されどこの世界において時間は無意味である。
呆然とする間にも、変化は進んで行く。ループが相互に影響し合う。自己組織化が始まる。いて座A
どころか、それをサーチしていた二人の感覚器を探り当て、情報を流し込んで来るではないか。
「―――なんて、光景……」
鶫が呟いた。視野が広がる。天に広がる蜘蛛の巣の、漠然とした全体像。その輪郭が急激にくっきりとし始める。時間が見える。過去と未来が。宇宙創成から終わりまで。量子の揺らぎが。あらゆる可能性。あらゆる空間。あらゆる生命と死。
すべてが、見えた。
少女たちの知覚が、無限大に拡大していった。それを受け止められる情報処理能力が備わる。途方もない記憶容量。
既に少女たちは、自然の摂理に翻弄されるちっぽけな金属生命体ではなかった。
いて座A
ふたりでひとつの超知性体が、そこにはいた。
いつの間にか、空想が拡大していた。直径5メートルもなかったそれが、惑星サイズ。どこまでも広がる大海に面した砂浜へと変わっていたのだ。
望めば幾らでも拡張できそうだったが、ひとまずはこれで十分だろう。
「何が、起きたんだ……」
呆然とする遥。
そんな彼女へと、鶫は告げた。つないだままの手を引いて。
「分かりません。けれど、先輩。
せっかくなんです。何が起きたか確かめましょう?」
「そうだな。確かにその通りだ。次の宇宙へ行くのはそれからでも遅くはない。
もはや、私たちにとって時間は無限だから」
ふたりは、歩き出した。たった今生まれたばかりの砂浜を。
◇
生命とは、突き詰めていけば化学反応である。
物質同士の反応が複雑化し、自己組織化していくことこそが生命であるのならば、その発生には一定の環境が必要だった。有機生命体の誕生には、適度に反応性の高い元素が重要だ。しかし過激すぎてもいけない。たちまちのうちに化学反応を終えてしまうだろうから。そして、溶媒としての水。あるいはそれに相当する液体。この物質が液状を保つ環境下でなければ、生命が発生することは難しい。
だから。宇宙における生命。その発生が起こったのは今から数十億年前なのだ。軽い元素で出来た
されど、高度に発達した生命体は時に、不可能ともいえるほどの環境改造を可能とする。
今。
幾多の可能性からの来訪者たち。その、無数の屍が、リング状特異点内部の環境を汚染した。
自己組織化に必要なだけの十分な時間も経過した。生命進化に必要なだけの
時間は全てを解決する。
故に、少女たちが問題解決に必要な解を導き出すのもまた、時間の問題だった。
遥と鶫。
ふたりは、運命に勝利したのだ。
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