第87話 禍の獣
異様な空間だった。
ブラックホールの特異点を抜けた先。そこは、時間と空間の役割が入れ替わった世界。ここでは、空間的な移動が時間的な移動と置き換わるのだ。ここをさらに進んで行けば、異なる宇宙に吐き出されるはずだった。
少女たちがたった今抜けてきた境界面。そちらを見上げれば、降り注いでくる無数の光が目につく。
あちらの世界から差し込んでくる星々の光だった。
『―――網?』
鶫が上げた疑問の通り、今来た方向から流れ込んでくる光は、一つ一つが軌跡を描いている。それらは重なり合い、網のような模様を描き出していた。
それはまるで蜘蛛の巣のようにも見て取れる。
『―――線の一本一本が、星なんだ。過去から未来に至るまでの星の軌跡を描けば、それは一本の線のようになるだろう。それは交わり、重なり合い、時に互いに影響し合って複雑な模様を作り上げる。
アインシュタインが提唱した世界線の概念だ』
『綺麗……』
すでにこの世界では、時間は時間ではない。一つの星の始まりから終わりまでを、一本の線として見上げることが可能なのだ。
想像を絶する光景が、そこにはあった。
少女たちは今。宇宙の黎明期から終末までを目の当たりにしているのだった。
『さあ。目的を果たそう』
『はい』
抱き合う少女たちは、主推進器を作動させた。必要な計算は突入前に済ませてある。あとは微修正しながら進めていくだけだった。
頭上の特異点の回転軸にそって、ゆったりと回っていくふたり。
特異点を抜けることはできない。あれは一方通行である。だが問題はなかった。詭弁ドライヴを用いればあちらの世界に戻ることができる。しかも、詭弁ドライヴの数は当初の2倍。ふたりぶん、4基もあった。不測の事態が起きてもこれなら安心だ。
ようやく、時間遡行攻撃の成功の兆しが見えたのだった。
1年。10年。300年。1000年。
回転するにつれ、時間が巻き戻っていく。といっても傍目には同じ場所を回るだけなので、二人に実感はないが。
『やれやれ。こんなにぐるぐる回ってたらバターになってしまう』
『私たちは虎ですか?』
『似たようなものさ。
それにしても、来るときは2000年かかったが、戻るときはあっという間だな』
ついに、出発年を超えた時。遥はそんな感想を漏らした。鶫も同意。
もはや他者に邪魔されることはない。そして過去にたどり着けば、少女たちに抗しうる者などおらぬ。
だから。
この期に及んで少女たちに挑んだのは、他者ではなかった。
攻撃は、未来から来た。
◇
―――え?
電磁衝撃。荷電粒子砲オフライン。レーザー砲オフライン。副砲塔応答なし。推測。荷電粒子砲による攻撃。小破と判定。
自分の頭が吹き飛んだのだ、と遥が気付いた時にはもう、反撃は終わっていた。
主砲射撃体制。左手を鶫の腰から離し、先端を上方へ向ける。装填されていた質量が落下し、特異点となるのと同時。無慣性状態に落とし込まれた弾体が、光速の99.999999……%まで加速された。
―――やめ……!
亜光速兵器の神経系は思考より早く動く。自我はそれを統御するだけなのだ。
遥が制止した時にはもう、砲撃は実行されていた。
強烈な一撃が時間を遡り、遥かな時空の彼方で爆発。そのエネルギーを解放する。
『―――先輩!?』
『平気だ!くそ、しくじった…!』
反射的に反撃した新品の体を罵りつつも、遥は無慣性状態へシフト。鶫の体から手を離し、回避運動を開始した。
鶫も、遥を庇う構えを取りつつ武装を活性化する。
直後。
ホーキング放射を切り裂きながら出現したものは鶫へ激突。咄嗟にガードした彼女を弾き飛ばし、その姿を露とした。
それは、竜だった。
尾がある。巨大な二本の脚がある。それと比較すると小さな腕。
だが、何よりも目を惹くのは、角。
そいつの頭から尾の先端までにも等しいほどの、長大で凶悪。複雑な衝角がこちらを向いているのだ。
紅の金属で出来た躯体の全身に走る白い紋様。その下には光子ロケットが隠れているのだろう。
知らない
鶫の砲撃で態勢を崩した
『―――これは!?』
『しまった!予想して然るべきだった……!!』
鶫の疑問。それを受けて、遥の頭脳は冴え渡っていく。
人間の閃きと金属生命の知性は、現状に適合する解を導き出した。
『こいつは先制攻撃してきたんじゃない。さっきのビームは反撃だ。私の砲撃に対して撃ち返した攻撃が、時間を遡って砲撃前の私に届いたんだ!』
『そんな。だって!!』
『ここでは時間と空間の役割が逆なんだ!同一の運動をしていた私たちにとっては時間の向きは同じだが、奴と私たちの間ではそうじゃない』
『先輩の反撃は、あいつが攻撃するより前に届いたってことですか!?
―――なんて、不運』
『違う。こいつとここで遭遇したのも偶然じゃない。こいつは私たちの同類―――いや、異なる時間軸の私たち自身だ!私たちより先なのか後なのかは分からないが。
歴史は私たちを潰し合わせる気だ!くそっ!!』
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