第86話 この世の果て
それは、絶壁だった。
半径1000万キロメートル。いかなる反射も放射も、それは行わない。だから闇。真なる漆黒が、そこにはあった。
球形のそれは、しかし単一の構造物としては恐るべき巨大さである。水星軌道をやや下回るほどもあるのだ。だから、間近から見下ろせばそれは、壁にしか見えなかった。
それだけではない。
絶壁の向こう側から届くのは、大きく歪んだあちら側の光景。星々や、降着円盤。絶壁を挟んだ反対側が発する光が強大な重力によって捻じ曲げられ、こちらに届くのだ。重力レンズと呼ばれる物理現象。
これこそが、いて座A
不可侵たる"壁"から2000万キロメートルほどの所を激しく周回しているのは、膨大なプラズマによって形成された構造体。降着円盤だった。それ以上内側ともなれば、重力があまりにも強すぎ、物質はとどまれぬのだ。たちどころに吸い込まれよう。だから、降着円盤と超巨大ブラックホールの合間には、巨大な間隙が横たわっていた。
それらの光景を見下ろしている、二つの人影があった。
抱き合っている彼女らは、35メートルの身長と鋼鉄の肉体を備えた少女たちである。
遥と鶫だった。
ふたりは、無言。圧倒されていたからだった。眼下の光景に。時間と空間の極限。いわばこの世の果てたる、超巨大ブラックホールに。
この大自然の猛威を前にすれば、破壊と殺戮を欲しいままとする金属生命体と言えども、ちっぽけな存在に過ぎぬ。
しばし、見入っていたふたりは、やがて意を決した。主推進器を作動させ、光圧で減速。遠心力を低減させ、重力に身を委ねたのである。
巨大なる重力の腕は、はじめおずおずと。しかしたちまち乱暴に、ふたりの少女を引き寄せ始めた。
◇
―――なんて、光景。
眼下の物体に、遥は目を奪われた。光速の半分もの速度で自転するそいつは、その質量と運動エネルギー故に、時空すら引きずる。その中ではあらゆる物体は静止することができない。引きずられる時空ごと運ばれて行くからである。引きずり方向へ向けて進めば、光速を超える事すらできるのだ。人類がエルゴ領域と呼び、予想していた現象が、そこにはあった。
それは、凄まじい重力と相まって星の光すらも引きずり、異様な光景を作り出している。引き延ばされた光が尾を引き、様々に散乱していく光景は、信じがたいほどに美しかった。
そして背後。
今まで進んできた道のりへと振り返ってみれば、そちらは銀河全景がみてとれた。この場所に届いたすべての光は重力で捻じ曲げられる。そう。超巨大ブラックホールに背を向け、一方向を見るだけで、全周囲360度を見渡すことができるのだ。
人間のちっぽけな知覚では、その全てを受けとめることなど到底できまい。
されど、遥は既に人間ではない。その形状こそ人型なものの、35メートルの巨体は高性能のセンサーであり、そして腰のコアと全身を巡る神経系は、人類が生み出したいかなる情報機器よりも優れた処理能力を誇る。
だから、彼女は目に入るすべての光景を記録していた。
『星が、好きだった。
宇宙の広大さが。その深淵さが。謎めいたその存在が。だから、いつか宇宙をずっと眺める仕事に就きたい。そう思ってた』
『先輩……』
『ここまで来たいと思ったことがない。と言えば嘘になる。
けれど、こんな形では来たくなかった。
もっと輝かしい未来があったはずなんだ。私じゃなくていい。誰かが。遠い未来、人類がここまでたどり着いてくれていたら、それでよかったんだ』
言葉を交わす間にも、黒い壁はどんどん迫ってくる。
事象の地平線。すなわち、重力の糸にからめとられ、脱出不可能となる限界点であった。天体の重力圏から離脱するためには脱出速度以上であることが求められるが、ブラックホールのそれは光速度を超えるのだ。
少女たちは抱き合う力をより一層、強くした。ここではぐれれば、二度と再会は叶わぬであろうから。
やがて、ふたりは壁に激突。
事象の地平線に飲み込まれる瞬間は、随分とあっけなかった。衝撃などはない。現象としてはただ、中心に近づくにつれて徐々に強まった脱出速度がついに光速を超えた、というだけに過ぎぬ。
けれども。
そこは、
ふたりは、ついにこの世の果てを超えたのだ。
◇
光が、渦を巻いていた。
事象の地平線を抜けた瞬間、ふたりが目にしたのは光。
重力に捕らえられ、しかし特異点に落ち込むこともできずに周回し続けて来た光。
外から飛び込んで来る星々の輝き。
吸い込まれた粒子が発する光。
そして、特異点から飛び出してくる、光。
それは、リングだった。
光り輝くそれ。特異点の周囲では、色々なものが出たり入ったりしていると考えられている。質量を持たぬ光は生じやすく、特異点を行き来している物質の最有力候補だった。
今。二人の少女の眼前で、それが実証されているのだ。
とてつもなく巨大な環。膨大なブラックホールの質量が無限に落ち込んだ結果として生じた特異点は、本来大きさを持たない。それが遠心力で引き延ばされ、環になったのた。中央にはぽっかりと闇が広がっている。そこからは何も出てくることがない。吸い込む一方である。
その向うは、既にこの宇宙ですらない。別の時空。ブラックホールを数学的に反転させた解に繋がっているのだ。
遥は、その顔を鶫へと向けると、バイザーを展開した。対する鶫も先輩に倣う。重なり合う視線。2つの眼球に見えるものは視力を備えておらず、どころか強力なエネルギー砲であったが、そんなことは関係ない。それは二人にとって瞳だったし、それで十分だった。
『ようやく、ここまで来れた。全て君のおかげだ。
―――ありがとう』
『いえ。私こそお礼を言わせてください。
この瞬間を先輩と共有できて光栄でした。
ここまで連れてきてくれて、嬉しかったです』
互いが互いを求めた。少女たちは口を持たなかったが、代わりに自らの心を差し出した。厳重な電子防御の全てが解除される。回線が繋がり、その深奥なる思考回路の奥底までもが解放されていく。お互いの電子の手が深層までも読み取り、そして完全に一体化する。
世界は、ふたりだけのものだった。
愛し合う少女たちはゆっくりと特異点に引き寄せられていく。軌道を修正しながら落ち込んでいった彼女ら。
その姿はやがてリングの暗闇に飲み込まれ、この宇宙から消え去った。
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