第85話 GCIRS 13E
ブラックホールは、冷たい。
意外な事実ではあるが、ブラックホールそれ自体は放射をしない。ホーキング放射の強さはブラックホールの質量に反比例する。すなわち一定以上の大きさのブラックホールが放つエネルギーは、宇宙背景放射―――原初宇宙の名残―――以下なのだ。熱力学によれば、熱は(エネルギーを消費して強制的に移動させない限り)高いところから低いところにしか流れない。なのでこの場合、出る熱より吸い込む方が多い。だから、天体としてのブラックホールが放射するように見えるのは、あくまでも吸い込まれる物質の断末魔なのである。
『放射が始まるのは、宇宙が今よりずっと冷えてからですね』
うむ。遠い遠い未来だ。まぁその頃になれば、例え不老不死の金属生命体や
さて。
では逆に、十分小さなブラックホールはどうか?
その放射は強い。たちまちのうちに質量すべてを熱量に変換、爆発する。おなじみの特異点砲でぶっ放すのもこっちだな。このようなごく小さなブラックホールは、宇宙創成期に多数、生まれた。もちろん、宇宙誕生から138億年現在、その全ては蒸発してしまっているが。
今でも、こうした
『こうして見ると、宇宙はブラックホールだらけです』
そうだな。宇宙規模だとブラックホールなんて珍しくない。我々の目的地も、その意味ではごく慎ましやかな存在だ。ほとんどの銀河中心には超巨大ブラックホールがあるが、いて座A*の質量は、太陽の450万倍しかない。他の銀河の超巨大ブラックホールなら、太陽質量の何億倍なんていうのもゴロゴロしている。
それでさえ、まともに近づける環境じゃあないがね。
『周辺の放射が問題ですね』
うむ。
ブラックホールは周囲の物質を引き寄せるが、そんなに簡単に吸い込める訳じゃあない。引き寄せられればその分、早くなる。位置エネルギーが運動エネルギーに変換されるわけだ。こいつが遠心力として働くと、なかなかブラックホールに飛び込みにくくなる。ブラックホール自体、重力の割には小さいしね。
こうして、ブラックホールの回りをぐるぐる回る物質がどんどん集まってくる。チリやガス。時には星なんかも。それは円盤状に安定するだろう。
『降着円盤の完成です』
その通り。
そして、完成した円盤はそれで終わりじゃない。ぐるぐる回りながら他のガスやチリと
『かといって、円盤の上下からも難しいですね』
うん。
光速の数十%から九十九%以上の、非常に絞り込まれたジェットが常に噴き出している。天然の荷電粒子砲だな。
降着円盤を構成するプラズマが増幅する渦巻き状の磁場は、円盤と垂直に働く。これで押し出されたガスに螺旋状の磁力線が絡み付いて細く絞るわけだ。さらには放射圧や、ブラックホールの時空の引きずりまでも加わる。銀河間を渡るほどのパワーさ。
こんなものをまともに喰らえば我々でも一巻の終わりだ。
『そして二巻へ……とも行きませんし』
我々は、この宇宙の二巻目を執筆しに行く訳だからな。そうそう上手くはいかない。
まぁものは考えようだ。前人未到の地だぞ。困難はつきものだ。
しかし、あれだな。時間遡行攻撃の前例がなかったのは、何もそれが破滅的な結果をもたらすからだけじゃああるまい。女子高生にすら思い付くんだ。他にも追い詰められてトチ狂った種族が実行しようとしてもおかしくない。
それでも行動に移さなかったのは、出来なかったんだろうな。
この過酷な環境に入り込むだけの科学力。金属生命体群の勢力圏を突破する手段。ブラックホール自体は銀河には他にも幾つもあるが、十分な角運動量。すなわち回転速度を備えているものは少ない。特異点を通過するには、それがリング状に変形している必要があるわけだが。充分に高速で自転していないブラックホールは、潜れる穴を開けるほどに特異点が変形していない。
それに潮汐力も問題だ。ブラックホールに近づくにつれ、先端と後方では受ける重力に大きく差が出る。恒星質量程度のブラックホールの潮汐力は地球表面の1兆倍。私たちが入り込もうとすれば、体が引き延ばされて転換装甲のスパゲティの出来上がりだ。
『そうでなければ、もっと楽な所を目指せましたものね……』
ま、ないものねだりをしても仕方がない。我々は、できる範囲で最善を尽くそうじゃないかね。
さあ、出発だ。
『はい、先輩』
◇
【GCIRS 13E いて座A*から3光年】
『こりゃあ、酷いってもんじゃないぞ!』
それは、空間にぽっかりと開いた穴だった。
ほんの三光年先に存在する、それだけで星系にも匹敵する巨大な構造物。中心に黒い、シルエット。それを取り囲む灼熱の円盤は、本来ならば扁平に見えるであろう。されどそうではない。あまりに強力な重力は相対論的作用で光をねじ曲げ、その構造は膨らんで見えた。
いて座A
既にその強烈な放射は無視できないほどに強い。転換装甲による防護があってさえ、有機生命にはあまりに不向きな環境である。
肉体的には金属生命体である少女たちにも大きな負担となって、それはのし掛かっていた。
何しろ、接触通信にすらノイズが入るのだ。叫ばないと、通信が通じないのである。
『大丈夫かね』
『はい、なんとか!』
強烈な光と電磁波の地獄の中、ふたりの少女はしっかりと抱き合っていた。互いの体を押しつけ合い、少しでも露出面積を小さく取ろうとする。
既に防御磁場も
GCIRS 13E。
かつて人類がそう呼び習わしていたこの星団は、七つの巨大な恒星が巡る中心に太陽質量の1300倍にも達するブラックホールを抱え、いて座A*の周囲を秒速280キロメートル(光速の0.1%弱!)、四万年周期で公転している。かつては60光年以上離れていたものが、超巨大ブラックホールの重力に引かれてここまで近づいてきたのだ。その期間十万年。天文学的スケールではほんの一瞬である。
最後の中継地点だった。
慣性系同調航法で跳躍してきた直後。既にこの有様だった。
ここから先は詭弁ドライヴを使うしかない。巨大すぎる重力源であるいて座A
だから、ふたりには準備が整うまで耐えるという選択肢しか存在しない。
この世界で、遥は後輩の息遣いを強く、感じていた。
―――こんなに、華奢だったんだな……
人間だった時は見上げるような巨体だった鶫。無敵の超生命体。そう思っていた。同じ金属生命体になった今、こうして肌を重ね合わせていると、それがいかにもろく、ちっぽけなものだったのかが実感できる。
いかに強大な力を持つ戦闘生命体と言えども、しょせんは知性体が作ったもの。大自然の猛威を前にしては、あまりに儚い。
腰に当てた掌の下。人間でいえば子宮の位置に、鶫の頭脳ともいえるコアが収まっているのを感じて、遥は唐突に気持ちが昂るのを自覚した。
『先輩?』
小首をかしげる鶫。いかに全体としては少女に酷似しているとはいえ、やはり直線と機械で構成されたそれは人間とは異なる。けれど、その。ごく自然な人間的動作に、遥は色気を感じた。口があったら、衝動的にむしゃぶりついていたかもしれない。
自分にまだこんな人間性が残っていたのか、と内心で驚きつつも、遥は答えた。
『ああ。鶫は、きれいだな。と思ってた』
『先輩―――』
『私の中に残ってる人間の部分は、魅力的な女の子が一緒にいるとドキドキするんだ。おかしいと思うかい?』
『全然、おかしくないです。私も、ドキドキしてます……』
『そうか。じゃあ、お揃いだな』
『はい……』
抱きしめ合うふたり。
彼女らを、強烈な降着円盤の放射光と、そして蒼い恒星光が照らし出す。
やがて演算が終了し、鶫が胸郭の詭弁ドライヴを活性化させた。
極微の抜け穴が押し広げられ、ふたりを呑み込み、そして閉じていく。後には何も残らない。
もはや、少女たちを阻む者はいなかった。
この世には。
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