第74話 餅と量子コンピュータ

コンピュータとは、本質的にはスイッチがたくさん入った箱に過ぎない。

17世紀、ライプニッツの時代にはすでに。いや、極端な話人類が計算という概念を発見したであろう石器時代には、その本質は明らかとなっていた。

ただ並べて数を数えるだけの算木さんぎから、そろばん。機械式計算機。真空管式コンピュータ。LSIの時代に入り、そして量子レベルの電子回路が登場。問題なのは部品ではない。構造なのだ。

従来のコンピュータは0と1をoffとonに対応させた2進数を扱うものである。やろうと思えば10桁のものも可能ではあるが、スイッチひとつで数を表記できる2進数の単純さ、美しさに勝るものではない。


「情報分野で16進数が用いられるのも、16が2の4乗だから、ですね」


うむ。その通り。2進数との変換が容易だな。

さて。動画からゲームのキャラクターの動作まで、あらゆるデータは1と0のふたつの記号の列に変換できる。それは、ゲートと呼ばれる単純なスイッチが行う基本的な操作で簡単に制御できる。そうだな。スイッチが1つならば、「1」か「0」の2通りだ。

2つなら「00」「01」「10」「11」の4通り。スイッチ4つなら16通り、8つなら256通り。

さて。ここで話を飛躍させてみよう。

スイッチの素材を量子にするとどうなるか。今までのスイッチは0か1、どちらかの状態しか取れなかった。だが、は、「0」と「1」、両方の状態を同時に取れるのだ。


「量子的あいまいさのおかげ、ですね」


補足ありがとう。

その通り。極微の世界では、マクロな物理法則が通用しない。そのおかげで、量子は素晴らしい利点を生み出してくれる。

がひとつだけなら、0と1。ふたつを同時に表すだけだ。

だがスイッチふたつなら「00」「01」「10」「11」のよっつ。スイッチよっつならば「0000」「0001」「0010」……と、十六。スイッチやっつならば、256もの状態を表せるんだ!従来のコンピュータならば順番に計算するしかないというのに!!

だから、量子コンピュータは扱う桁数。すなわちビット数が増えれば増えるほど、同時に扱える数が増えていく。莫大な量を計算する事こそ量子コンピューティングの強みだな。


「そして検索能力も、ですね」


うむ。

量子とはすなわち波だ。上下の振幅。すなわち正と負の繰り返しと言ってもいい。ここで興味深いのは、正の振幅をもつ波束と負の振幅をもつ波束とが出会うと山と谷が重なりあって互いに打ち消し会う、という点だな。たくさんの可能性が重なりあい、結果がひとつだけ現れるのはこれが原因だ。

この現象を利用すれば、膨大な情報をたちまちのうちに検索できるだろう。始めにすべてのデータを0と1に符号化して、これらを量子的に重ね合わせればいい。(レーサーパルスで原子のスピンを反転させるとかね)。こうして重ね合わせられた系を、先に述べたようにれば、最後にただひとつ。探していたデータを表現した波束だけが残る。

まさに革命だ。量子コンピュータが実用化されれば、人類は新たなステージに立つことができるだろう。


「同感です。

……ところで先輩」


何かね。


「他の見学者、皆帰っちゃったみたいですけど」


……またやってしまった。なんてこったい。

ええい。どうして私はこう、粗忽者なんだ。の紹介で量子コンピュータの話とは!脱線にも程がある。


「そうですか?私は面白かったですけど」


そうかね。ありがとう。

ところで君は行かなくてよいのかな?


「ああ。ここに決めましたから。

一年A組、鴇崎鶫ときさきつぐみ。入部を希望します」


そうか!私は、部長の角田遥すみだはるか。よろしく頼む。


「はい。先輩」


  ◇


そして遥は、夢から覚めた。

昔の夢。鶫との二度目の出会いの記憶。

確か、あの後ふたりして珠屋の餅を食べに行ったはずである。ああ。もう一度鶫と、珠屋に行きたい。

周囲を見回してみれば、いつも通り、星々に満ちた。どころかいささか明るすぎる銀河中心領域の光景が広がっている。

夢から引き戻された遥は、進めていたタスクが終了していることに気がついた。いや、作業が終了したからこそ遥の意識が覚醒したわけだが。

そう。量子論的な情報処理(金属生命体は生物なので「量子コンピュータ」と呼ぶのは不適であろう)によって、鶫を探す。という作業が。

現時点まで、百三十光年ほどの範囲に広がる金属生命体群の観測網が捉えた過去の様々な信号から、鶫が発した可能性のあるものを探していたのである。光や電磁波は光速で進むから、受信しうる観測点とその時期は自ずと知れる。天文情報の交換は、遥やそれら観測網にとって通常の任務の範疇だから危険はない。

とは言えそれは、砂漠に落ちた針を探すような作業である。巧妙に偽装されているであろうデータを見つけ出さなければならない。そもそも金属生命体群がそれを受信したという確証すらないのだ。

しかも、今後調査すべきデータは増える一方である。時間がたてばたつほど、鶫が発した信号は遠くに届くのだから。その分、鶫をサルベージできる確率も増えるが。

ある程度は絞り込みが出来るのだけは幸いである。

遥は、鶫を探すに当たってまず、彼女が撃破された戦闘の記録を閲覧した。

それを徹底的に分析した遥は、鶫が投射したレーザー砲撃の多くが金属生命体群の観測網で受信可能なことに気がついた。差し渡し二万光年もの勢力圏の、それも隅から放たれたものである。レーザーも拡散するとはいえ、逆二乗の法則が成り立つ自然な電磁波よりは遥かに収束している。例え二万光年先まで飛んでも受信は可能なはずだった。

気の遠くなるような話ではある。何年かかることやら。本当に二万年かかるかも。

―――珠屋の餅は当分、お預けだな。

遥はふと、そんなことを思った。

鶫は珠屋の餅のデータを持っている。彼女を再生できたら、最初に二人であれを食べよう。この体での食べ方も聞かなければならないが。

金属生命体は食欲を持たない。味覚もない。そもそも飲み食いできない。できたとして、生身の時と同じ感想は抱かぬであろう。だから遥も別に飲食する必然性は全くなかったが、それでも食べたい。ちょうど昔読んだ本の記述が気になるのと似ている。

そこまで思考が進んだ遥は、内心苦笑。とらぬ狸の皮算用にも程がある。

改めて、解きほぐしたデータに目をやる。

パルサー。超新星。遠方の銀河が発するバースト。単なる雑音。条件を絞りこんでみたものの、やはり厳しかったか。

芳しくない結果に落胆しつつも遥はデータの確認を進めていく。

そして。

―――これは?

厳重に暗号化された一塊のデータ。極めて小さく、突撃型指揮個体の複雑な精神をこの量で構成するのは明らかに不可能である。単なるノイズとして保存されていたそれが、実のところある種の通信であることに気付いたとき、遥は興奮を隠せなかった。慎重に、本当に慎重に、暗号を解読していく。

まず最初に目に入ったのは何かの分子構造。有機物主体のようだが、はて?

それを視覚化した遥にもし顔があったら、ぽかん、と阿呆あほうのように口を開けていただろう。

餅だった。

きな粉に包まれている。蒸したもち米を粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに餡をまぶした、いわゆる"おはぎ"である。

こんなもののデータを暗号化するような者など、遥の知る限り一人しかいない。

―――見付けた。

ほぐせば解すほど、様々な地球の情報が出てくることから、遥は確信した。これは、鶫。その記憶の欠片だと。予想は外れていなかったのだ。

遥は、ほほえんだ。


  ◇


ちっぽけなエージェントプログラムだった。

そいつは懸命に、電子の川を遡る。膨大なデータの濁流に抗い時に他のデータにくっついて運ばれるその存在は、あまりにも儚い。強力な防壁や抗体からも見過ごされてしまうほどに。

遥が放出したものだった。ある意味では彼女の分身ともいえる。

強大無比な情報網。電子的にもそうだし、物理的には二万光年を超える範囲内で活動するエージェントは、ひとつだけではない。あるものは自己増殖して分身をばらまき、あるものは端末の行動に干渉する。その活動が見咎められることはまずない。あったとしてもそのエージェントが破壊されるだけだった。代わりはいくらでもいる。

それは、単体では必要最低元の情報と判断力しか与えられていない。この、情報生命とも呼べないプログラムを捕らえて中身を解析してもなんの有益な情報も得られないのだ。そもそも興味を極力惹かぬように作られたそれらは、各々に与えられた役割を果たすだけのものである。潜り込んだ巨大ネットワーク―――金属生命体群という、巨大通信網のそこかしこに侵入し、攻撃のための足場として。あるいは情報収集の役目を担い、あるいはどこかの下位個体の機能をほんの少しだけ狂わせて、遠方の星系へと分身を投射し。

個々では本当に小さな小さな、異変。異種族よりの電子的攻撃など日常茶飯事である金属生命体群にとって、それは異常とも言えぬものであった。

そのはずなのに。

金属生命体群のとてつもなく巨大な思惟。炭素生命には計り知れぬ、全てを包括するようなは、かすかな違和感を覚えた。

元来、意識とは無数の情報処理の共同作業である。ほとんどは無意識の段階で処理され、認識されるのは一部に過ぎない。ごく些細な問題にが気付いたのは、ただの偶然だったのだろう。

金属生命体群は、違和感の元をたどるべく、行動を開始した。

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