第72話 魂の器
―――何だ。私は一体どうなった!?
遥は混乱の極致にあった。
訳が分からない。今の自分が16進数で思考していることもそうだし、星系をまたぐほどに広がった体にも戸惑うばかりだ。意識を向ければ高温の惑星上で採掘作業をしている下位個体の視点を借りる事もできたし、差し渡し0.05光年もある目はあらゆるものを見通せた。
なのに、手がない。足がない。私の喉はどこだ。声が出せない。何も聞こえない。息が出来ない。鼓動を感じない。代わりに得た感覚器から流れ込んでくるのは磁場。重力。電磁波。放射線。怒濤のような情報量は自らの内で淡々と処理され、ここではないどこかへと勝手に送られていく。機械のように正確な思考は止まらない。自分で止めることができない。助けて!
それは、まるで魚が水のなかで溺れつつあるかのような光景であった。自分が人間だと自覚した遥は、今まで無意識的にこなしていた生理的機能を忘れてしまったのだ。
そこで、サブシステム群よりの通知が上がった。
友人の、情報。127年も前に果てた突撃型指揮個体。彼女が死に瀕して何を行ったのか。それを、現在遥の置かれている状況から解析した結果が。
遥は、息を飲んだ。
パニックが急速に収まっていく。失った人間的感情の代わりに、金属生命体としての情動が内を満たしていく。
それは、控えめに言っても苦肉の策だった。
自らの死が避けられぬと悟った鶫は、先輩を。遥を、脱出させたのである。信号という形で。頭部主砲塔、左目の大出力レーザー光線砲を用い、砲撃に偽装した幾つものレーザー信号を金属生命体群の観測網へと投射したのだ。データの削減のために遥を構成する情報は最小限へと抑えられた。肉体は再構築に必要最低限度の遺伝子情報のみ。記憶や人格も、金属生命体のそれへと翻訳された。信号を拾われるかどうかは賭けだったし、拾われたとしてもうまく遥の人格が蘇るかも賭けだったが。
信号のひとつがここで拾われ、鶫の目論み通り、下位個体群からなる群知性を乗っ取ることに成功したのは奇跡と言っても過言ではあるまい。
鶫は、賭けに勝ったのだ。
あの時何が起きたかを、遥は理解した。もはや金属生命体となった彼女は、不馴れな体と異質な感情に戸惑いながらも泣いた。
亡き友人のために。
◇
人間の思考形態は、言語によって規定される。文法。音韻。意味。単語ひとつとっても、ある概念を表すものが恐ろしく細分化されたもの。例えば「雨」であれば「時雨」「夕立」「氷雨」「霧雨」「豪雨」etc.etc.……と言った多種多様な表現のある言語が存在するかと思えば、それらすべてをひとつの単語で言い表す文化圏もある。言語ごとに向き不向きがあり、あるいは適応変化を遂げてきたのである。
長い歳月を経て改良されてきた金属生命体群の言語。16進数を基盤とし、高度な数学と物理学、論理学を表現することに特化され、同音異義語が存在せず、あらゆる情報を誤解なく伝達できるそれは、極めて調和のとれた美しい言語だった。
そして、それを取り扱う頭脳。
言語は、知性と密接な関わりがある。情報を齟齬なく伝達するためには、自らが何をしているかを把握せねばならない。そのために言語で自らの考えを表現できれば、そこへ理論的操作を加えることが可能となる。論理を展開できるのだ。のみならず、そこから発展して結果を予想することも。
だから、知性は言語に規定された。人類の用いる音声や図形を前提としたことばとは違う。コンピュータ言語にも似た金属生命体群の言語で思考するよう改造された遥。彼女が何十年も記憶を取り戻すことが出来なかったのもそこに起因する。金属生命体と人類では思考形態が異なりすぎて、現状への適応が大変困難だったのだ。自らを金属生命体と思っていても無理のない事ではある。
それは今も続いていた。金属生命体は、人間の持つ欲求や感情を持たない。知覚も。認識も、まるで別物である。代わりに、人間が知らない様々な喜びや欲望を知っていた。遥自身既に、人間的感情をほとんど忘れてしまっている。それは今の体では感じることのできないものだったから。
故に。
彼女は、涙を流さない。流すための
彼女は、狂気に逃げることがない。機械のように正確な思考はそれを許さなかったから。
ひとしきり悲しんだ遥は、立ち直った。やらねばならぬことは無数にある。金属生命体群に気取られれば一巻の終わりだし、今のままでは身動きが取れない。遥はこの星系に設置されているのだ。代わりの体が必要だった。
それに。
鶫が、本当に死んでしまったかどうかはまだ、分からない。
遥がこうして生きているのだ。生きていると言っていいかは分からぬが、とにもかくにも活動はできる。現状に文句を言うつもりはない。
ならば。鶫自身の情報も、信号として宇宙を飛び続けている可能性はある。あるいは既にどこかの観測網に捉えられていることすら。
絶望するにはまだ、あまりにも早すぎる。
人間だったとき同様の切り替えの早さで、遥は今後の計画を検討し始めた。
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