第四章 この世の果て
第64話 生命の育み手
秒速30万キロ。
それが、この宇宙の真理の姿だった。
その速度を持つ唯一の存在。すなわち光は、真空にある限り決してその速度を変えることがない。発生源と観測者の位置変化によって引き延ばされたり縮んだりすることはあっても。この宇宙で唯一、不変であり普遍たるのが光速度なのだ。すなわち光速度とはこの宇宙において究極のものさしである。1光年と言えば光で1年の距離であり、それだけの距離を光が踏破するのにかかる時間でもある。それと同じ。
時間も。空間も。質量も。エネルギーも。万物は光速度で推し量ることができるのだ。
言い換えればそれは、万物の根源は同じものである。ということでもある。
「アインシュタインが提唱した相対性理論ですね」
うむ。すべては相対的だ。
ふたつの宇宙船が互いに離れるように、光速の99.98%で動いたとしても、片方の宇宙船が発した光信号はもう片方の宇宙船に届く。信号の波長は随分と引き延ばされているだろうが。
信号が届いた側の宇宙船からすれば、その信号はやはり光速だ。光は何者から見ても光速であるが故に。
これは、時間の流れが変化していることをも意味する。光速度が一定である辻褄合わせとして、観測者側の時間の流れが遅くなっているわけだな。
何者も光の絶対性を脅かすことはできない。
言い換えればこれは、どんな座標系から見ても物理法則の記述は同じになるはずだ、という事実をも示している。
そして、光の奇妙な特徴はこれだけではない。
光は常に「直進」する。
「いかなる場合も最短経路を進む。ですね」
うん。
たとえば水中では光の進む速度は遅い。だから、水中のある点目がけて飛ぶ光子は、できるだけ長い距離だけ空気中を飛び、そこでようやく水中に突入する。光の回折・屈折はこうして起きるわけだ。それは光の量子的特性に起因している。
言い換えれば、光はあらゆる経路を通り、しかし実際に最短である経路以外の全ては互いに打ち消し合ってしまうわけだ。だから我々の目には最短経路だけを通ったように見える。
これは、時空間の歪みに対しても同様の事が言える。たとえ時空が歪んでいても、光自身はその中を直進するんだ。
「質量やエネルギーは、その存在だけで時空を歪ませますもんね」
うむ。歪みが極限に至れば、それは光ですらも脱出不可能な時空を作り出す。もちろん光を反射なんてしない。"
だが、ブラックホールから何も出てこないわけじゃあない。ブラックホールは、その表面から負の仮想粒子を吸い込み、正エネルギーを吐き出すように見える。
不確定性原理は状態を常に不確定にしてしまうが、真空の"無"も許さない。だから、真空を極微の時間眺めてみればそれは、対になった正と負の粒子のペアを吐き出しているように見える。
ブラックホールは、本来ならばまた対消滅してしまうはずのペアから負の粒子を吸い込んで軽くなった代償に、正の粒子を残すだろう。ホーキング放射、あるいはホーキング輻射。すなわちブラックホールの蒸発だ。
「今までも散々苦労してきました」
ああ。特異点砲。あれほど恐ろしい兵器もないと思う。何しろ1発あたり320トンの質量が、丸ごとエネルギーになってしまうんだから。それに耐えられる突撃型や艦艇の重装甲も驚くべきものだ。
だが、今回の目的地。いて座A
「問題になるのはむしろその周辺環境ですね」
その通り。
巨大すぎるブラックホールの質量が生み出す重力は、周囲何光年、という距離に渡って膨大な星間粒子を集める。その濃密さと、そして重力が生み出す運動エネルギーは途方もないものだ。2万6千光年離れた地球からも観測できるだけの重力波と電磁波を放射しうるほどに。
正直、生身なら絶対近寄れないな。君がいて助かったよ。恒星表面でも活動できるんだから。
「はい。大船に乗った気で、いてくださいね」
もちろんだとも。
◇
銀河中心領域。いて座A
この世界でほんの一万二千年前、ほぼ同等のレベルにまで進化した恒星間種族が多数存在していたのは偶然ではないと言われている。時折活発になる、銀河中心の超巨大ブラックホールの活動。そこから放たれる各種放射線は、
ガスの密度が著しく高かったのも幸いしたのだろう。それは、生命体がブラックホールの放射によって致命傷を受けぬようにする防壁の役割をも果たした。かつて人類の科学者たちが予想したよりは、銀河中心領域は生命の存在しやすい環境だったのだ。こうして、各種生命はたくましく育ち、そして同程度の進化を遂げて宇宙へと飛び出した。銀河中心領域とは、知的種族のゆりかごなのだ。
2万6千光年の距離を隔てた地球も、やや遅れながら彼らの後を追っていた。恐らく、後何百年かの時間があれば恒星間種族として母なる大地を飛び出していたはずである。
今。
その最後の一人。地球生まれの少女は、幾つもの過酷な戦いと冒険を経て、この世界にたどり着きつつあった。
いや。彼女はもはや少女ではなかった。地球を旅立った時、16歳だった彼女。逞しく成長した彼女は、既に大人と呼べる年齢に足していた。
角田遥は、地球から2万6千光年の彼方で、21歳の誕生日を迎えた。
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