第6話 坊主じゃないよボースだよ
時間は全てを解決する。
すなわち、時間とは何物にも代えがたい資源であるということだ。
【地球より水瓶座方向へ39光年先 恒星
酷く狭苦しい空間だった。
重力が働いていない。四方、いや全方位を覆うのは強靭な複合素材であり、それらはたった今磨かれたばかりのような鈍色の輝きを放っている。通路をせわしなく行き交うひとびとは、互いに触手を絡ませる略式の敬礼を忘れない。戦闘直前であろうとも、いや、戦闘が間近に控えているからこそ、彼らは礼節を大切にする。それはいつ死ぬともしれぬ戦士たちが生前に交わし合う葬送の儀式なのだ。
烏賊と違い内骨格を備えた彼らは、重力下でも活動できる。だがその本領が発揮されるのはやはり無重量空間だった。それは彼らが元々水中をその生存領域としていたことに起因する。
そんな、彼らが慌ただしく配置についていく中。艦の別の場所。より外殻に近い格納庫内でも、動きは起こっていた。
そこは兵士たちの個室である。無数の六角柱型のスペースが立ち並ぶ中に納まっているのは、主人たる種族によく似た、しかしはるかに巨大な烏賊型の
下半身から十二本の触手を伸ばした、尖塔のごとき五十メートルの巨体は、その機能を活性化させつつあった。
迫り来る
安らぎの時間を終えた彼らの居室。その
巨大な機械の兵士たちは、一斉に外へと飛び出した。無が支配する領域。星々がささやかな光で照らす世界。大いなる暗闇に包まれた虚無。
すなわち、宇宙空間へと。
彼らが飛び出してきた船。それは巨大な軍船であった。全長六十キロメートル。外装に無数の六角形の格納庫を備えた戦闘母艦である。搭載されている
それが4隻。
周辺には巡航艦多数。いずれもが超光速機関と亜光速戦闘能力を備え、転換装甲で鎧った強力な戦闘艦である。
それら陣形の内側。多数の工作艦や補給艦などの補助艦艇。そして、一隻の大型艦。全長百キロを超えるその船は、強力無比な軍船らによって守られていた。いや。この一隻を守るために、星を消せるほどの強力な兵器が多数動員されているのだ。
宇宙で、真に価値を持つものはたった一つしかない。
遺伝子資源。すなわち、星が育んできた生命の歴史そのもの。
それは箱舟だった。種を運び、どこかの星に根付かせるための。
船は作業を中断し、撤収作業に入っているところだった。真下に存在している蒼い星。水を湛えた第四惑星から帰還する、無数の小型艇を収容している最中だったのである。その作業が終わるまで、箱舟は動くことができぬ。
銀河に現在生き残っている恒星間種族。そのことごとくが最優先する宝物が今、戦火に晒されようとしているのだった。
◇
さて。今日のお題は第一種巨視的量子現象だ。
「唐突ですね、先輩」
いやなに。今朝はいつもの電車に乗り損ねてね。目の前で扉が閉じた時は、どうしてあれをすり抜けられないのかと思ったものだよ。己が量子であればできたろうがね。
さて。というわけで本題に入ろうか。
ミクロの世界では、我々の想像もつかないような現象が多数起きている。古典力学が通用しないわけだな。
それらの現象を取り扱うのが量子論なわけだが。
その中には我々が普段お世話になっているような現象も多々存在する。例えばトンネル効果。
「古典力学的には乗り越えられないエネルギーの障壁を、何故か粒子が乗り越えてしまう現象ですね」
うむ。最近の微細化しすぎたコンピュータはトンネル効果の影響を無視できなくなっている。隣の回線からこちらにしみ出してきた粒子の影響まで考えないといけないわけだ。あるいは太陽。本来あれの質量は核融合を起こすのに十分じゃあない。だが起きる。トンネル効果のおかげだ。古典力学的にはくっつくはずのない原子同士がくっつきあう事で核融合が起きるわけだ。
これらの現象は普通、目に見えないサイズで起きる。
「つまり普通じゃない状態もあると」
正解だ。ボース=アインシュタイン凝縮を起こした物質。ヘリウム4は目に見える形で量子論的挙動を引き起こす。
超流動状態だな。原子と原子の間に浸み込んだり、容器の壁面を伝って外に逃げ出したり。
ならば、ボース=アインシュタイン凝縮を通常の物質でも引き起こせるようになれば、我々は様々な量子論的現象の恩恵を、この身に受けることも可能じゃないかね?
「シュレーディンガーの猫みたいに死んだまま生きてたり、あるいは津波のように何かとぶつかっても形を維持したまま乗り越えられたりですか?」
うん。あるいは光速を越える事すら可能かもしれない。量子トンネル効果が時に光速すら超えるように。
「あるいは、物質を一点に集めたら……」
核融合。いや、シュバルツシルト半径まで粒子を落下させることができれば、マイクロブラックホールだって作り出せるだろうな。夢のエネルギーだ。もう原子力や火力発電に頼る必要はなくなるぞ。
「夢がありますねえ……」
まったくだ。
おおっと。もう昼休みが終わってしまう。行こうか。
「はい、先輩」
◇
恒星間戦争は、敵種族の根絶を目的として行われる。それ以外の理由で行われることは、まずない。
コスト的に割が合わぬからだった。宇宙は広い。隣人が気に入らぬのであれば、顔を合わせなければそれですむ。
だから、わざわざそれを起こすのであれば、隣人を皆殺しにする目的以外考えられなかった。そのような狂気に取りつかれた種族と隣人同士だった場合、もはや最悪を通り越した悪夢と言えよう。
今、人類がトラピスト1と呼ぶ恒星系に座している者たち。すなわち瞑目種族に降りかかっている災難もその類だった。
艦隊に守られた中央。可住惑星の軌道上に占位している箱舟では現在、この場から立ち去るための算段が行われている。彼らの任務は種族の繁栄。そのための
「ついていないですな」
そこは巨大な箱舟の中枢。すなわち艦隊の中心であり、星ひとつの運命を自在に操る首脳部である。
その中でも最も奥。箱舟の船長は、艦隊全体の司令官に話しかけた。
「ああ。……十五年だ。この星の改造を初めてもう、十五年だぞ?
いよいよ種まきという段になって、奴らに見つかるとは」
「心中、お察しします」
「君もな」
司令官は、まだ若い船長の姿を眺めた。宇宙服に覆われた胴体の尖りは鋭く、触手は太過ぎず長すぎず。美男子と言えただろう。この男と交尾する幸運に恵まれた奥方は、敵が用いた
これから、彼らの足元。トラピスト1の第四惑星にも、同様の洗礼が与えられるのだ。
阻止することはできない。天体の防御は大変困難な事業だった。この場にいる艦隊にできるのは、箱舟が撤収するまで守る事だけ。
時間が、彼らには必要だった。だが、それは明らかに足りぬ。
星系内に敷設していた多数の人工微惑星。それらが慣性系同調通信を経て敵の出現を伝えてきたのは、それからすぐの事だった。
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