肝油ドロップ(6/8)
相手チームのエースが、まずひとつ牽制球を見せた。すると、サインミスでもあったのか、サードを守るベテラン野手がピッチャーマウンドに行き、私たちの視界に背を向けて耳打ちした。
投手が自分の投球リズムを取り戻す感じでマウンドの土を馴らし、プレー再開。
三塁ランナーが、一歩二歩、ベースから離れる。
その時。
守備に戻った三塁手が左腕を素早く伸ばして、ランナーの腰の辺りにグラブを突き当てた。そして、そのグラブを高く掲げ、塁審のジャッジを求めた。
間を置かずに、審判の拳が上がる。
私と洋介はじめ、状況を理解できない観衆が息を止めた。
「隠し球だ!」
背後で誰かが野太い声で怒鳴る。
どよめき、歓声、拍手……あらゆる音が交錯し、スタンドは地鳴りめいた響きで揺れた。9人の守備陣が小躍りしながらベンチに還っていく。スコアボードに0が灯ると、私を取り巻く観客がお祭りと見紛うほどの騒ぎになった。
シーズンに一度、いや、数年に一度あるかないかのトリックプレーだった。
駅に向かう人混みから離れて、私たちは雑居ビルにある日本そば屋に入った。
[そば]の看板を掲げてはいるものの、和風ダイニングバーみたいな薄暗い創りで、どの客も食事よりアルコールを優先している。
私と息子もビールをオーダーし、乾杯の印(しるし)でふたつのグラスを傾けた。
洋介は目線をあまり合わそうとせず、お品書きを熟視している。何となく居心地が悪いのは、私も同じだ。妻がいれば違った雰囲気だろうが、自宅からいまさら呼びつけるわけにもいかない。
「……しかし、あの隠し球は凄かったな」
琥珀色のビールを喉に通して、私は息子の贔屓(ひいき)チームを盛り立てるつもりで言った。
結局、2対0のままゲームは終わり、[黒地にオレンジロゴ]のビジターが完封勝ちを修めた。見どころに欠け、試合時間も短かったが、あの8回表のトリックプレーが深い余韻を残している。
「負けちゃ、しょうがねえよ」
お通しに箸を入れて、洋介がささくれだった調子で言う。
キャシャーに近いテーブルなので、私たちの横を客と店員が忙しく往き来し、応援グッズを持った家族が奥の4人席へ向かっていった。
息子の派手なシャツが目に止まり、私はスーツの上着を脱いでからネクタイをほどく。球場に吹く風が涼しかったため、堅苦しい格好のまま観戦したが、首元のボタンを外すと、ようやく一日の仕事から解き放たれた気分になった。
オーダーした一品目のシーザーサラダが運ばれてきて、何よりもまず、息子に緑色野菜を摂ることを進める。パルメザンチーズとクルトンの量が多く、価格以上のボリューム感だ。
「あそこは隠し球なんかじゃなくて、四番と勝負してほしかったよ。人を騙すプレーはいかんな」
今度は自分の考えにフィルターをかけず、私は直球を投げた。ボールを持っていないフリをして、相手が油断したところでタッチする――巧みなプレーだが、それは奇襲以外の何ものでもない。
「だまされる方が悪いだろ。隠し球だって、立派なルールだよ」
口に入れたトマトとレタスをまともに噛まず、息子は早口で言った。会話のラリーを店員の給仕に阻まれ、私は反論を止めて、グラスに手をかける。
好きなチーム次第でプレーの見方が変わるのは当然だ。しかし、いくらルールで認められているとは言え……そうした権利を持つとは言え、フェア精神に欠けるのではないか。副社長の神崎のしたり顔を思い出し、気持ちに雲がかかった。
私は一服したい気分になる。しかし、家族の前ではタバコを吸わず、一日のうちでも昼休みだけを喫煙時間にしているので、マルボロライトとライターはオフィスのデスクの中だ。
「就活はどうなんだよ?」
話題の転換に、洋介は前髪を左手で掻き上げ、「まぁ、9月スタートだな」と落ち着き払った口ぶりで答えてから、角煮の器を自分のそばに寄せた。
「9月?」
「この時期に動いたってしょうがない。一流企業に落ちた連中を拾うため、秋にも採用のヤマがあるんだよ」
息子は、そんなことは常識だといった感じの冷笑を浮かべた。
母親譲りの奥二重(おくぶたえ)と長いまつ毛は草食動物のようだが、頬骨の尖り具合が荒々しく、話し方にも角がある。
「……うちの会社はそんな時期に採用試験なんかないぞ」
数秒の沈黙の後、私は交通違反の切符を切る警察官さながらに告げた。
父親が人事の仕事をしていることを分かっているのだろうか?――そんな疑問が頭をよぎり、目の前の容姿を見つめると、左の耳たぶに仁丹くらいの金属が貼り付いていた。長髪のせいで気づかなかったが、臆面もなく、したたかな存在をアピールしている。
「いまさら焦って面接に行っても意味ないし……残り物には福があるって言うだろ」
(7/8へ続く)
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