肝油ドロップ(7/8)
洋介はミュージシャン気取りでギターを速弾きするジェスチャーをした。
私は店員を呼び止め、自分のビールをオーダーした後で、息子にも勧めたが、首を横に振って「水」と応えた。
それから、会話が面倒だといったふうに、頬杖をつき、もう一方の手でホッケの頭をつまみ上げる。嫌いな理科の授業で生物観察でも命じられたような仕草だ。
「……だったらさぁ、親父の会社に入れてくれよ」
突然、上目遣いでふうっとため息をつき、泣きべそめいた苦笑いを向けた。
見覚えのある表情だった。
あの日、根負けした私は洋介を留守番させて、近所のドラッグストアに肝油ドロップを買いに行った。
指の爪ほどのドロップを数十年ぶりに私自身も口に入れると、最初は硬いコーディングが舌先で融けるのを拒んだが、歯の力でそれは消え、グミに似た感触とほのかな甘味が拡がった。
洋介は掌のドロップを見つめ、泣きべそと苦笑いの同居した顔を私に向けたのだった。
……あれから私は父親として成長しただろうか? 仕事を言い訳にして、育児を妻に任せてきた月日。そのくせ、企業の中で、私は途方もなく無力だ。
行き場のない思いで、「息子を入社させるなんて出来るわけないだろ」とひとりごちた。
洋介の発言が冗談とは分かっているが、そんな言葉がこぼれ落ちた。
「隠し球だよ。人事部長のファインプレー。オレはルール違反じゃないと思うけどな」
絶妙なタイミングで店員が現れ、水とビールを置いていく。水を飲まなければいけないのは私の方で、このままアルコールを胃に流し込んでいけば、明日の仕事に影響しそうだ。
冷静さを取り戻して、腕時計を確認した。[10]の手前でふたつの針が重なっている。
野菜からタンパク質までバランス良く並んだ品々は、まだひとつも皿を空けることなく、中途半端な状態でテーブルに留まっていた。
時間を気にした私に、洋介は何か言いたげな目をするが、妻の知らせた[話がある]は、まさか、「会社に入れてくれ」ではないだろう。
「……あのさ、実はオヤジに報告があるんだけどな」
視線を定めず、ためらいがちな気持ちを瞳に貼りつけて、そう切り出した。
相談ではなく、報告と言った。
私は背骨に力を入れて、息子を見つめる。気の利いた親なら、もっとスムーズに話を聞き出せるだろうが、私には姿勢を正すくらいが精一杯だ。
「まぁ、たいした話じゃないんだけどな」
脂を白くした角煮を半分に切って、洋介はそれを箸でつまんだ。もったいぶるわけではなく、語るのを躊躇している様子だ。
「……報告なんて、珍しいじゃないか」
重い空気を払いのけるつもりで、半分残った角煮を息子と同じ手つきで口に運ぶ。
そうして、通路を挟んだカップルが席を立つのを見届けてから、洋介は的を射抜く感じの眼光を放った。
「いまつき合っている女と一緒に暮らしたいんだ。来月に家を出ようと思ってる……そうした方が就活にも身が入るしな」
■
昨年より2日早い日程で、新卒採用試験は役員面接を終え、人事の責任者である私にとって、心身ともにいちばん消耗する日がやってきた。
役員たちと、半日かけて内定者を決定するのだ。
30人の学生が役員面接に臨み、金森俊太郎もその一人――男子が8割を占め、「女子の方が優秀」と言われる就職市場に相反する結果になった。
それは旧態依然とした社風によるもので、もちろん、10人の取締役も全員が男で、我が社には女性の管理職さえ数えるほどしかいない。
そして、この3時間、大会議室で、私たち11人は頭を寄せ合っている。
進行役の私が最終候補者をひとりずつ確認し、配布した性格適性検査の結果をもとに、1次2次面接の状況を報告していく。受け答え時の声色や表情の変化、ちょっとした動向など、部下による観察記録の出番だった。
審査は21人目を迎え、国立大在籍の男子学生について、討議が続く。
ボランティア・サークルでの活動は評価に値するが、浪人時代に世界各地を廻ったエピソードが引っ掛かった。当人は、勉強浸けにならずに余力を持って進学したことをメッセージしたつもりだが、海千山千の役員には逆効果だった。
「現役受験で力を発揮できなかったのは計画性と持久力に欠ける資質だからじゃないか?」
上座に座る者が意見を述べると、ほぼ全員が同意して、8対2の多数決で不採用となった。論議の末に結論が見えた場合でも、私以外の全員で挙手を行い、最終的な決を採るのがルールであり、代表権を持つ社長もヒラの取締役も一票の重みは変わらない。誰かひとりの独断で内定者が決まることは有り得ないのだ。
「次は、金森君だね」
私の進行を早送りして、書類の束をめくりながら、神崎が張りのある声で言った。
(8/8へ続く)
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