肝油ドロップ(5/8)
「澤田君の目は厳しいからなぁ。ま、来週の面接を楽しみにしているよ。じゃ、失礼!」
神崎の言葉を苦々しく受け止めて、私は駅の改札を抜けた。
二学年下の神崎が入社してきた時のことは記憶に残っている。大きな体を揺らす横柄な態度が鼻についたが、確かに優秀な男だった。しかし、最年少で取締役になり、組織のピラミッドを駆け上がるとは思わなかった。それはそれで構わない。役員となったいま、年長者の私を「君」付けで呼ぶのもサラリーマン社会では当たり前のことだ。だが、どういうわけか、私の存在を拒み、人事権を握りたがる態度が許せなかった。営業力では業界トップクラスかもしれないが、人を見る目があるとは到底思えない。人脈と金脈だけで渡世する男なのだ。
「澤田君は、生涯、現場のリーダーとして頑張ってもらいたいな」
昨年の秋、管理職懇親会の席で社長が私に言ったこと……それが神崎の進言なのは疑うまでもなく、宮仕えの私の時計はにわかに進みを遅くした。
■
国道15号線沿いの大門駅から都営大江戸線を利用して、国立競技場駅で降りる。
JRの浜松町から信濃町に出る方が球場までの距離は短い。それでも地下鉄を選んだのは、移動のトータル時間が少なかったからだ。
夏の到来を思わせる太陽が沈み、スタンドのカクテル光線が路上からもはっきり見えた。
穏やかな西風が心地よく、久しぶりの野球観戦に歩調も速まる。CS放送でゲームセットまで追いかける「野球オヤジ」の私は、小学生だった頃の息子を東京ドームによく連れて行ったものだ。
ところが、年を経るにつれ、球場にはご無沙汰となり、成人した洋介も、かつて大切にしていた黒地にオレンジロゴの野球帽をなおざりにして、私とは別のチームを応援するようになっていた。
球場の正面入口で胸を高鳴らせ、チケットに指定されたゲートから一塁側のスタンドに出ると、大歓声が耳に飛び込んできた。
スコアボードには三回表裏(おもてうら)まで0が並び、私のひいきチームのランナーが塁上を埋めて、先制のチャンスを迎えていた。
座席のアルファベットと数字を確認しながら観客席を仰ぎ見ると、5メートルほど上段の席で、洋介が手を振って私を誘(いざな)っている。
予定より遅れて着いたうしろめたさで、私はそそくさと彼の隣りに座り、ひと息ついた。
バッターボックスには、他球団から移籍してきた選手が立ち、ところどころをオレンジ色に染めた向かい側の外野席が、静謐な神宮外苑とは別世界の賑やかさを見せている。
「チャンスみたいだな」
鞄を脚の前に置いて話しかけると、「いや、こっちはピンチだよ。3回までパーフェクトに抑えてたんだけどな」と、洋介は低い声でぶっきらぼうに答え、カップに半分残ったビールを飲み干した。
フェンスオーバーのファールに観客がどよめく。
目線をまっすぐ伸ばした位置に一塁コーチの背番号があり、そのわずか先で相手投手がボールをこねている。敵チームのファンに囲まれた以外は、グランド全体を程好い角度で見下ろせる申し分ないシートだ。
「エース対決の投手戦か……」
そう呟いた矢先、鋭い打球が一・二塁間を駆けていった。ランナーが一人生還し、二人目が本塁上でクロスプレーとなる。
「セーフ!」
周囲の目を憚ることなく、私は声を上げた。
主審が両手を水平に広げると、洋介は舌打ちして、柔軟体操みたいに首を左右に回した。空から注ぐ照明が、肩にかかる薄茶色の髪と肘まで捲ったシャツの柄を明るい色に変えている。
弁当を抱えてスタンドを昇降する売り子。たこ焼きをつまむカップル。何種類かの食べ物の匂いが、野外球場ならではの風に乗り、私たちの鼻先にやって来る。
「ゲームが終わったら、外で何か食べるか?」
私がそう提案すると、息子は素直に頷いた。
「何か話があるらしい」と、妻はメールに書いていたが、野球を観ながらでは、語るのも聞くのも落ち着かないだろう。
試合は2対0で淡々と進み、やがて、両チームとも選手交代のないまま8回表を迎えた。野球のネタ以外はこれといった会話もなく、私の奢りでビールを二杯ずつ飲み、終盤のダイヤモンドを見つめていく。貧乏揺すりしながら、前傾姿勢で戦況を窺う洋介の背中は、父親の私よりも肉付きがいい。
フォアボールで出塁した先頭打者を、二番バッターがバントで送り、ワンアウト二塁。ここで追加点が入れば、ほぼ決着はつく。レフトスタンドのオレンジ軍団とは対照的に、辺り一面は水を打ったように静まり返った。
三番打者はフルカウントからファウルで粘った後、変化球に手を出してセカンドゴロに倒れたが、その間にランナーが進塁し、ツーアウト三塁。スラッガーの四番がゆっくりとバッターボックスに入る。
(6/8へ続く)
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