肝油ドロップ(3/8)


幼稚園バスの停留所は、私たち家族が住んでいたマンションのエントランス前だった。

だから、年長組の洋介はエレベーターを乗り降りするだけで幼稚園に通えたはずだが、「保護者によるバスまでの送り迎え」がルールであり、我が家では母親がその役を担っていた。

ところが、2日間だけ、私がピンチヒッターを務めたことがあった。夏休み直前の木曜日と金曜日――妻が虫垂炎で駅2つ離れた病院に入院したためだ。

一人っ子の洋介は、そんな緊急事態を理解せず、「母親と病院にいたい」と駄々をこねたが、否応なく、つかの間の父子家庭を経験した。

その7月の金曜日は、一学期の修了日でもあった。

私は定刻どおりに部屋を出て、バスを待つ。停留所のもう一組の利用者が金森親子で……しかし、金森俊太郎の母親はなかなか現れなかった。

二車線道路を直進してくる黄色い車体。路線バスより車高の低いマイクロバスは特徴あるボディカラーのため、視界の遥か先、道が右にカーブした辺りから、走行の様子を知ることが出来た。他の車よりもゆっくりなスピードで、50メートルほど手前の距離に迫っていた。

私は独りのまま。

保護者がいなければ、子供はバスから降りられず、再び園に戻るかたちだったので、他人事ながらひどく気を揉み、辺りを何度も見回したのを憶えている。

夏の陽が向かいのビルのガラス窓に直射して、強力な懐中電灯で照らしつけた感じの光を湛えていた。

そうして、バスが直近の信号で止まったとき、俊太郎の母親の姿が通りの先に小さく見えた。駆け足でこちらに向かってはいるものの、結構な時間を要する位置だ。

前の日と違(たが)わない場所でバスが止まり、ポニーテールの保育士が後方に座る洋介と俊太郎を手招きしてから、私しかいないことに気づいた。

ほんの一瞬、空気が固まる。

「シュンくんのお母さん、もうそこまで来てますから、とりあえず預かりますよ」

とっさの判断で、私はそう告げた。

そして、もう一人の保護者をフロントガラス越しに確認した保育士は、穏やかな笑みで二人の園児を降車させた。

私は遠くの母親に手を挙げて合図を送り、次の停留所に急ぐバスを見送った後で息子たちに向き合った。

金森俊太郎は、「友達の父親」の迎えに違和感があったのかもしれない。いや、違和感なんて大人びたものではなく、母親のいないことにテンションを上げたのだろう。「ほら、これ!これ!」と、興奮口調で、自分の手の中の丸い粒を私に見せた。その、半透明でビー玉ほどの面を持つ食べ物が肝油ドロップであることはすぐに分かった。私自身、子供のときに何度も食べていたし、3学期の修了日にも、保育士が一粒ずつ園児に配っていたからだ。

「おっきいの、もらったねー」と、子供のしたり顔に応えるつもりで私が言うと、俊太郎は鳩が豆鉄砲を食らった顔で、「ヨウちゃんのを見せて!」と掌を差し出した。

何のためらいもなく、洋介が自分のものをそこに乗せると、彼らは肩を並べて二粒のドロップをまじまじと見つめた。大きさが同じか、どこかに違いはないか。

……と、次の瞬間。俊太郎は手首を上向きにスナップさせて、ドロップを自分の口に放り込んだ。二粒いっぺんに。

あっという間の出来事だった。

丸い顎が一、二度動き、すぐさま嚥下していく様が喉の動きで見て取れた。

そして、洋介が反射的に「あっ!」と声を漏らすのと同時に、「遅れちゃってぇ、スィマセン!」という甲高い声が私の背中に刺さった。俊太郎の母親だった。

印象の薄い顔立ちだが、ベタベタした喋り方と肩紐つきのチューブトップ、縦にカールさせたヘアスタイルが私の妻より年下であることを外見で知らせた。

彼女は、たったいま起こったことを……金森俊太郎の行動を知らないまま、鼻の頭に細かい玉の汗をかいて、気恥ずかしそうにうつむいた。

それから、自分の息子をバスから下ろしてもらったことの礼を私に言い、「本当はお見舞いに行くべきですが……」と詫びながら、「評判の洋菓子なので、奥様に」と、三越の紙袋を向けた。

金森家は、前の年に引っ越してきたばかりで、知り合ってまだ1年も経っていない。しかも、洋介と俊太郎は別々のクラスだったので、園の行事で私と対面する機会もなく、母親同士による送り迎えだけが家族の接点だった。

きっと、入院中の妻へ手土産を用意するため、迎えの時間に遅れてしまったのだろう。

私は、俊太郎がドロップを盗み食いしたことを伝えることなく、彼女に頭を下げて別れた。



(4/8へ続く)

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