肝油ドロップ(2/8)

ニュース番組がスポーツコーナーになり、プロ野球のオープン戦を映し出す。私はそれを漫然と眺めながら、金森俊太郎の話を詳しくするべきか迷う。

洋介が中学に入学した春に異動してから、私は妻に人事絡みの仕事の話をほとんど振らなくなっていた。長く専業主婦を続ける彼女にとって、殺伐としたビジネス社会や人事ネタは面白くないだろうし、配偶者のみならず、採用案件や公示前の社内人事を口にするのは上場企業の一管理職として好ましくないからだ。妻を信じていないわけではないが、話した内容がどこかで漏れ伝わり、誰かの人生を狂わすことだってある。「組織の人事を司る役目というのは、会社でも家庭でも孤独なものだ」という、私の前任者の見解は正しい。

「……いや、合宿って言葉で、なんか、洋介の友達を思い出したからさ」

「幼稚園のときに合宿なんてないわよ。『お泊まり保育』のこと?」

苦しい言い逃れに妻は怪訝な表情を浮かべ、裏返したトランプの数字を透視するみたいに目を細めてソファを立った。

金森俊太郎が新卒採用に応募してきた事実を軽く告げても、大事(おおごと)にはならないだろう。それでも、私は「軽い告白」が出来なかった。

洋介が通う私立大学は、お正月の駅伝でようやく全国に知られる程度で、この時期に音楽仲間と出かけようとする息子を、私たち夫婦は声高に咎めようともしない。

一流大学に籍を置き、意気軒昂に就職活動する幼なじみの存在は、我が家という狭い池に石を投げるものだ。水面に拡がる波紋はすぐに消えても、私たちの中には小さな石が残る。

家長であり、人事部長である私は、口を閉ざしたままテレビのスイッチを切った。



[エントリーシート]をランク分けし、S・A・Bの学生を書類選考の通過者として一次面接へ進ませる。

通過者は去年よりも1割増え、トータルで180人。エントリー総数が1825人だから、この時点で約10%に絞ったことになる。

つまり、90%の応募者は対面の機会を持たず、我が社とは「ご縁がなかった」というわけだ。

中途採用を含め、私のように長くこの仕事を続ける者にとって、「人を選ぶ仕事」はバーゲンのワゴンから洋服を拾い上げるようなもの。[エントリーシート]に書かれた文面よりも顔写真のインスピレーションを重要視することもある。

金森俊太郎は、Sに近いAランクで、一日15人をスケジュールした面接3日目の朝9時に、トップバッターとして現れた。

小会議室の扉が開き、「おはようございます!」と、快活な第一声が響く。どこかの劇団員みたいに通りの良い声だった。

人事部長の私は面接試験を取り仕切る進行役であり、出入口に近い下座で彼と対峙する。

およそ15年ぶりの再会だった。私を覚えているかと、まるでこちらが受験者のように心臓が早鐘を打ったが、入室時に目を合わせても気づくことなく、からくり人形に似たぎこちなさで椅子に腰かけた。

写真よりもあどけない面持ちで、色白の顔がわずかに上気している。少しだけ赤らんだ頬はけしてマイナス要素ではなく、むしろ、面接官に好印象を与える初々しさだ。

早朝ということもあり、教室ほどの広さの室内がピンと張り詰める。

そうして、まず、紺のリクルートスーツを着た金森が大学名と名前を多少上擦った声で伝え、一次面接を担う課長たちの質問を待った。

志望動機の答えに、私たちが昨日発表したばかりの新製品の話を織り交ぜ、企業情報の端から端まで理解している様は、これまで面接を終えた学生の上を行き、誰もが高評価を与えるものだった。

面接官の褒め言葉に緊張感が和らいだのか、金森俊太郎は屈託のない笑顔で「ありがとうございます。御社が第一志望ですから、日々勉強させていただいています!」と胸を張った。

180センチほどの身長で、背中をまっすぐ伸ばしたシルエット。刈り込んだ揉み上げと優等生然とした六四分けのヘアスタイル。面接対応マニュアルから抜け出てきたような所作に加え、意志が強そうな太い眉と小鼻の膨らみを見て、私は、あの日の出来事を思い出した。



(3/8へ続く)

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