短篇小説「肝油ドロップ」

トオルKOTAK

肝油ドロップ(1/8)

周りに会社の者はいない。大丈夫だ。

隠れ家的な珈琲店で、グラスの水で喉を潤してから、私は鞄に忍ばせた応募書類を取り出す。

[エントリーシート]には、覚えのある名前があった。

あの子だ。

洞窟内でカンテラを掲げた程度の照明は読書や仕事に不向きな明るさで、斜め前の席では年齢不詳の男が居眠りをしている。

マルボロライトに火を付け、タバコの灰と珈琲の滴に気をつけながら、私は再び目線を落とす。

金森俊太郎――

住所は、私たち家族が15年前に住んでいた街だった。

幼稚園バスの停留所が私の息子と一緒だった金森家は、通りの反対側の一軒家に住んでいた。しかし、[エントリーシート]にはマンションの名前がある。きっと、いまは親元から離れて暮らしているのだろう。縦4センチ横3センチの写真には、目尻の特徴的なホクロも映っている。

間違いない。息子の洋介も私も妻も[シュンちゃん]と呼んでいた子が成長した姿だった。

生年月日は3月下旬。学年の遅生まれで、当時、洋介よりも体格が良く、3月生まれのハンデを感じなかったが、その「ハンデ」のなさは、いまでは、学歴欄や志望動機にも表れていた。

一流大学の卒業見込のみならず、米国の大学に留学し、自己申告するTOFLEの数字もハイスコアだった。

私の会社は商品のブランド力があり、上場企業として世間に名前が通っているものの、英語力については審査の基準を設けていない。だから、金森俊太郎の書き込みは過剰な自己主張とも言えなくないが、就職氷河期の昨今では当たり前のことだ。

都立高校を出て海外留学まで経験した金森青年のキャリアと、私立高出身でぐうたらな毎日を過ごす洋介の寝惚け顔が重なり、珈琲の苦味が舌先に留まった。


午後は2本の会議をこなし、夕方近くにようやく自分のデスクワークに戻る。

それから、立ち食いそば屋で夕食を摂り、再び社員証をセキュリティシステムに通して月次報告書を作成。ようやく、21時過ぎに帰途につく。

コートのいらない季節になって、通勤は楽になったが、週末に近づくにつれ疲れが溜まり、電車のガラスに映るシルエットは涸れたサラリーマンそのものだ。たとえば、人生という一日が青春時代を正午とするなら、私には、もう夜の帳(とばり)が下りている。

玄関に鞄を置いてトイレに入ると、洋介の部屋からアンプを通したギターの音が聞こえてきた。いったい何の曲なのか。人の不安を掻き立てるような重低音。

着替えてからリビングに行き、私は妻の横でニュース番組を漫然と眺めた。

年度末と新卒採用が重なり、この時期からゴールデンウィークにかけてが私の繁忙期だ。

震災から丸1年……昨年は人事の仕事に加え、上へ下への騒ぎになった総務部をヘルプして心身を酷使した。それまでは、定年への時間をカウントダウンしなかったのに、「残り5年」を意識するようになり、仕事の終着点が視野に入ると、私の中にも[3・11]が何かをもたらしたことに気づく。

まるで、敗戦濃厚なゲームでバッターボックスに立つ気分。諦念と傍観。60を過ぎて濡れ落ち葉にならないために、何かのボランティア活動をしたり、趣味の世界を拡げるべきか――そんな焦燥感に苛まれるわけは、このまま人事部長で終わるサラリーマン生活と、目的もなく大学を卒業していく息子の存在にある。


「来週から、洋介は合宿に行くそうよ」

妻がホットコーヒーを私にサーブして、今日のニュースを何気なく伝える口ぶりで言った。

「合宿?」

「サークルのよ。一週間、山中湖で音楽漬けになるんだって」

妻はこちらをチラリと見て、「私もそれ以上のことは知らない」という繕いの笑みを浮かべた。

リビングにも微かに届くギターの調べが、突然、雷みたいな轟音になる。

私は夕刊に手をかけて、別のことを考えようとしたが、「合宿」「音楽漬け」という聞き慣れない単語のせいで、活字が頭に入らない。大学1・2年だったら構わないが、来月から4年……そう、この春は就職活動に本腰を入れる時期、いや、むしろ遅いくらいだ。

「金森俊太郎くんって、覚えてる?」

私はとっさに口にした。

「カナモリ…?」

安易な問いかけをいまさら消せず、首をかしげた妻に「洋介の幼稚園時代の友達」とだけ告げて、話を打ち切ろうとした。

しかし、妻は、「シュンくん」という呼び名とバス停で一緒だった過去を明確に思い出したようで、「あの子がどうかしたの?」と前のめりで尋ねてきた。



(2/8へ続く)

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