第16話西村さん 6 友香の宿題、そして自信

 帰省から数日経ったある日のことでした。

 経理担当の北野きたのという女性が、友香に声をかけてきました。

 「加東さん、いつまでも怒られてばかりでは辛いでしょう? 一緒に解決しよう?」

 「え、あの……?」

 友香はあえて、意味が通じていないように演じ、笑顔を崩さなかったそうです。

 友香の問いに対して、北野は何も答えませんでした。

 「西村さんも、ちょっとおいで」

 北野は、友香とともにフロントの番をしていた西村を手招きしました。

 「北野さん、何ですかー?」

 「あのね、加東さんと西村さんがお食事会場で怒られないようになるために、毎日を振り返ってみよう? まずは私から宿題。今日のお昼のお食事で言われたことをリストアップして、明日私の机の中に入れておいてね。明日は、私休みだから」

 友香は西村と同様、承諾の返事をしましたが、内心は複雑だったそうです。

 Kホテルでは、森本と太田以外の人間から気遣いを受けたことがありませんでした。

 一人のスタッフが友香を注意すると、その他のスタッフまでも友香を囲って追い討ちをかけました。

 「一緒に解決しよう?」など、まず聞いたことがない言葉です。

 また、Kホテルはフロントと仲居に限らず各部署が対立していたので、最終的には鬱憤晴らしに走ります。

 「和解」もまた、友香の知らない言葉です。

 そのため、友香は北野が友香と西村を対立の材料として利用するのではないか、と考えたのです。

 友香の不安はそれだけではありません。

 仮に「和解」の材料として活用したとしても、リストアップするかもしれない問題点が解決する保証などないとも思っていました。

 それでも業務上の宿題であれば、リストアップしないわけにはいきません。

 軽快な返事の西村とは違い、友香の声は重かったようです。

 その日の勤務の後、友香は三十分かけて三つの問題点を書き出しました。

 自己解決のために控えを一枚取っておこう、と考えたのです。


 二日後、北野は提出された宿題に対して、早速返事をしました。

 西村の問題点は明らかになっていないのですが、的確なアドバイスの下、無事に解決したのではないかと、友香は考えています。

 友香にとって、心に響く言葉をくれたからです。

 「加東さんは人が怖いのかな?」

 友香は自分でも分かるほど、一瞬で目の動きが氷のように凝固しました。

 表情ではyesと答えていますが、口ではnoと言うわけにはいきません。

 ホテル自体が接客業であり、そのことを承知して面接に挑んだからです。

 北野はそれ以上何も訊ねませんでした。

 友香の考えによると、北野は若女将からうつ病のことを聞いているのかもしれません。

 友香もまた、終始yes以外の言葉を発しませんでした。

 「加東さんはさ、良い接客をしているよ。とくに海外からのお客さまに対しては堂々としている。語学に自信があるからかな。私たちにはその度胸がないから、羨ましいな。加東さんはそのままで良いんだよ。おどおどすることなんて必要ないんだよ」

 友香は呆然としました。

 これまでの疑惑は一体何だったのか、考える力が抜けてしまいました。

 怒られるまい、と急いて返事をする必要もなければ、己の思考を捨てる理由もなかったのです。

 この、ホテルWでは。

 前日を振り替えると、仲居の先輩や番長の藤は叱りながらも、友香が分からないと思ったことは積極的に教えていました。

 友香は何に対して虚勢を張っていたのでしょうか。

 それは、後のエピソードで判明することでしょう。


 次の週末、ホテルWはお食事のみの「休憩」ではなく二食付きのご宿泊で繁忙期を迎えました。

 お膳を並べ、料理やこまごまとした道具を置き、各部署からかき集めたスタッフが大広間駆け回ります。

 このときはさすがに新人に教える余裕がなかったのでしょう。

 仲居専属のスタッフの口調は荒くなります。

 言葉に翻弄され、時間に追われ、友香は接客開始前に精神的に困憊こんぱいしました。

 作業が一通り終わり、最初のお食事時間まで三十分を切ったところで、若女将が友香にフロントをするように指示をします。

 経営者の意見には逆らうこともできず、古株の仲居スタッフは友香を見送ります。

 ですが、いざフロント事務所に着くとすべてのチェックインが済んでいたので、友香に与えられた仕事はありませんでした。

 誰に声をかけたら良いか分からず狼狽えていると、若女将が友香の背中を軽く叩きました。

 「加東さん、お食事まで時間があるけん、椅子にお座りよ。ワーワー言われて、疲れたろ? でもね、加東さんのことが嫌いで言っているんじゃなかとけんね」

 若女将の病気に対する理解はうわべではありませんでした。

 だからこそ、友香は自己嫌悪に陥ります。

 自分は今まで一体何をやっていたのだろうか。

 うつ病を理由に逃げていたのではないだろうか、と。

 「加東さん、怒られるのも頑張るのも、誰のためでもなかと。すべて自分のために頑張るとよ」

 そう、友香は自分のためにうつ病から這い上がり、求職活動までしたのです。

 生活のため、と言えば現実的ですが、友香の生活を支えるのは友香自身の力です。

 誰かが手助けしてくれるはずがありません。

 ましてや、友香をうつ病に陥れたKホテルの支配人をはじめとする社員が賃金を払ってくれるなど有り得ないことです。

 「私は……私のため……」

 「そう! 自分のためばい! 加東さん」

 この一言で、友香は勢い良く立ち上がりました。

 ズボンの生地が擦れてスッと音が出るほどに。

 「私、そろそろ会場に向かいます」

 少数派でも良い。

 自分に味方がいることを祈って。


 会場に着くと、西村が友香の代わりを務めていました。

 「西村さん、案内係を代わってくれてありがとう。あとは大丈夫だから、会場の中をお願いね」

 西村は友香の顔色を窺いましたが、前を向くようにと、友香は背中を押しました。


 私はホテルマン。

 接客の第一線で戦うの。

 

 

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