第15話西村さん 5 友香の悩み

 お正月の繁忙期を無事に乗り越えたホテルW。

 スタッフは各々おのおのの休暇を満喫していました。

 ある人は旅行に、またある人はドライブに、社員寮に住んでいる人は実家に足を運んだり。

 友香は帰省組の一人でした。

 一人で暮らす母の身近な話を聞きながら、酎ハイの缶を次々に空にします。

 二十一時、呑み始めて一時間で三本はすでに喉を通っています。

 体はのんびりくつろいでいる友香ですが、心はホテルWに置いてきたままです。

 「言われたことをきちんと理解してから返事をしなさい!」

 「おどおどするのは止めなさい!」

 「物事を考えてから行動しなさい!」

 ホテルWの番長、藤に繰り返し言われたことが頭から離れませんでした。

 試用期間三ヶ月目に入ってもなお、友香は仲居の仕事に慣れません。

 失敗しては怒られ、自己嫌悪に陥ります。翌日の勤務でも人の顔色をうかがい、思うように動くことができない。

 そしてまた同じことを怒られる。悪循環です。

 悔しさ、悲しさ、焦燥感が友香を支配します。

 スタッフの前で怒られることで、羞恥心も生まれます。

 友香は本来の負けず嫌いに加え、Kホテルで鍛えてくれた森本、太田より高いプライドを受け継いでいます。

 ベテランの先輩ならまだしも、ホテルマンとしての後輩の前で怒られるなど、友香にとっては屈辱でしかありません。

 それに加え、西村に声をかけられたときは、体がブロックになりベルリンの壁のように崩壊しそうだったと言います。

 「加東さん、最近いろいろ言われてますけれど、大丈夫ですか?」

 西村にとってはただの気遣いだったのかもしれません。

 けれど先輩によっては、必ずしもそのように受け止めるとは限りません。

 友香はこめかみをひきつらせ、口角を精一杯上げました。

 「大丈夫よ。ありがとう」

 西村の鋭い勘が働いたのでしょう。彼女は眉を八の字にして小首を傾げました。

 「本当に?」


 母の世間話をBGM に、友香は四本目の酎ハイを空にしました。

 それでもまだアルコールが足りないのでしょうか。

 ことを思い出すことに苦労しません。

 その上、友香の返事を疑った西村の表情が頭から離れません。

 複雑化した友香の悩みを見抜かれた気分です。

 そこで友香の悩みの悩みを一つ一つ紐解いてみましょう。

 まず、友香は藤に言われたことを理解するよりも先に「はい」と返事をしてしまいます。

 そのことに対して怒られるのが最初の悩みです。

 ではなぜ、友香は急いて返事をするのでしょうか。

 それは友香の過去にあります。

 かつての勤務先、Kホテルでは言い訳もしくはその類いは一切許されませんでした。

 先輩の言うことは絶対、お客さまよりも優先するべき存在だったのです。

 その慣習が染み付いている友香は、現在の勤務先ホテルWでつまずいています。

 ですが脳裏ではつねに「どうして?」「なぜ?」「どういう意味?」という疑問が浮かんでいます。

 たずねたい気持ちはあるのにも関わらず、慣習を理由に口に出すことができません。

 次の悩みは、人前でおどおどしてしまうことです。

 後のエピソードでご紹介しますが、友香にはがあります。

 それが理由の一つでもありますが、友香はKホテルにて人の顔色を窺う癖が身に付いてしまいました。

 以前の友香はそのようことがなかったのですが、現在は「こうしないと怒られるのではないか」「余計なことをしたら何か言われるのではないか」という思考が止まりません。

 代わりに動かすべき体が止まり、手先が宙を泳いでしまいます。

 ですが友香が一人で食事サービスから皿洗いまでを担当するときは、おどおどするようなことは一切ないそうです。

 むしろ手付きは不慣れなものの、比較的スムーズにことが運ぶとのこと。

 おそらく、気を遣うべき存在がお客さまのみで、スタッフがいないことに理由があるのでしょう。

 もう一つの悩みは、必要な思考を止めてしまうことです。

 ホテルWでは、一人一人の思考が必要とされます。

 仮に支配人、若女将、仲居のおさがいなくてもホテルが成り立つように、お客さまにご迷惑をおかけしないように、と。

 一方、Kホテルでは、森本と太田を除くすべてのスタッフが他人に責任を押し付けるために、思考を不要としていました。

 もしお客さまのことを考えて動こうならば「生意気」と反感を買うことになります。

 友香は多くのスタッフから責任を押し付けられていました。

 森本、太田を除くスタッフは皆、知らんぷりです。

 Kホテルでは独立した思考を持つことは、責任を自ら負いますと意思表示するという意味です。

 そのような劣悪な環境の影響力がよほど強いのでしょう。

 心のストッパーが友香に働きかけます。

 そして負のサイクルが生じるのです。

 「私はホテルに向いていないのではないか?」

 勤務が終わり、社員寮に戻ると、毎日のように呪いの言葉を吐くようになったそうです。

 それが一週間続くと、友香の心は二本の脚では支えられないほど重くなりました。

 友香は心身の危機を感じました。

 もし二本の脚が壊れても、Kホテルが生活を補償してくれることなどまず有り得ない。

 仮に、ホテルに向いていないという理由で辞めても、ホテルWがその後の生活を守ってくれることなどない。

 友香は現実に戻ってきました。

 そして中原という先輩社員に相談することにしました。

 中原は友香が住む社員寮の隣にある男子寮から通勤しています。

 勤務が終わる時間帯もほぼ同じなので、ほぼ毎日中原の車で帰宅します。

 初老の割りには気さくで話しかけやすい雰囲気を纏う中原。

 ある程度気心の知れた中原に、友香はホテルに向く人材にアドバイスを期待しました。

 思い立ったら吉日、早速友香は中原の車内にて率直に訊ねます。

 「私って、ホテルに向いていないのでしょうか?」

 すると中原は驚いた顔をしたそうです。

 「どうしたの? 急に」

 その反応は、思わず「前! 前を見て! 夜間運転に気を付けて!」と叫びたくなったほどだと言います。

 友香の思いが通じたのか、中原は三秒ほどで視線を前に戻しました。

 友香は事故が起こらなかったことに安心して、言葉を続けました。

 「……私、支配人や藤さんをイライラさせてばかりで。それで向いていないのかなって思って」

 中原はそれ以上探ることはありませんでした。

 そして答えました。

 「向いていないなんてことないよ。支配人たちはお疲れだから、俺にも当たることがあるよ」

 「えっ! 中原さんにもですか?」

 今度は友香が驚きました。

 中原は太田というホテルマンの理想にはほど遠いものの、ホテルWでは人としてそれなりの信頼を築いています。

 「そう、俺にも。あの人たちはああいう人たちだから、加東さんが気にすることはないよ」

 それでも、友香は心が晴れませんでした。

 重い脚でかろうじて帰省した友香は今後のことを考えながら、五本目の酎ハイの缶を開けました。

 アルコールが体内を駆け巡っているはずなのに、一向に酔った気分になりませんでした。

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