第10話東くん 10 別れの挨拶、礼儀
東の研修終了まで、残り三日となりました。
「東くん、ホテルでの研修はどうだった? 何を一番学んだかな?」
このころ、友香は極力東に答えをyes以外の言葉で返させるようにしたようです。
「……難しいことばかりでした」
初めのころはスタッフに答えることすら戸惑い、様子を窺っていた東。
ですが友香には徐々に返す言葉が増えてきました。
「ですが、分かったことがあります。自分にはホテル業、接客業が向いていないということです」
このことについては友香も承知でした。ですがあえて肯定しません。
「それを決めるのは自分自身よ。これからの進路はどうするの?」
「今までと同じように、公務員を目指します」
「だったら、私が以前言ったことを覚えている? 聞かせて」
ここでも、友香はyes以外の言葉を求めます。言葉のキャッチボールとも言うでしょうか。
「市民には笑顔で接すること、です」
「そうね。確かにそう言ったわ。では、どうして?」
「いろいろな市民がいるからです。貧しかったり、その、生活保護を受けていたり……」
「そう、よく覚えていてくれたわ。ありがとう。で、話は戻るけれど、何を一番学んだ?」
「人との接し方です。加東さんは上手にお客さまを誘導していました」
友香は東の意見を否定したい気持ちでいっぱいでした。ですが東のために心の中でだけ叫ぶようにしたそうです。
そんなことはない! 私は駄目な人間なんだ! と。
その日東が帰った後、友香は土田にずいぶんと責められたと言います。
土田は友香がフロントに在籍し、仲居になりたがらないのが気にくわないようです。
「とにかく加東さんはフロントに向いとらんと! なんで仲居にならんとか!」
これも運命のいたずらなのか、この日友香と遅番勤務をしていたのは太田ではなく、フロント主任の藤川でした。
藤川は目の前で部下が責められても知らんぷりです。
黙々と自分の仕事をします。
口を開くのは、内線電話が鳴ってからです。
「加東、○○号室に氷!」
「加東、○○号室にお冷や!」
完全にデリバリー扱いです。
フロントカウンターに入れて仕事を教えることなど、まずありません。
デリバリーに戻ったら土田が責める。藤川は無視する。
友香は、自分の居場所がないと心の中で泣いたそうです。
ときには帰宅後暴食してトイレで吐くことなどもありました。
そのたびにより深い自己嫌悪に陥りました。
そのことを、東はいまだに知りません。知ることもないでしょう。
繰り返しますが、友香は最後まで知らせることはありませんでした。
己のプライドがかかっていたのも理由の一つでした。
けれど最も大きな理由は、自分の存在意義にありました。
たとえ東がこの先ホテルマンにならなくても、社会人として必死についてきた自分が東の目標であってほしい、と。
後に思ったとのことですが、友香は自分の味方を求めていたのです。
それでも東には権力もなければ、ホテルマンとしての残された時間もありません。
三日後には、友香はまた一人ぼっちに戻ってしまいます。
だからと言って嘆いている場合ではありません。
友香にはやるべきことがたくさんあるのです。
「良い? 東くん。直接関わっていない人にも『今までお世話になりました。ありがとうございました』って言うのよ。どうしてか分かる?」
「いいえ。分かりません」
「それが社会人の礼儀なのよ。お礼を言われて悪い気がする人っているかしら?」
「いいえ。いないと思います」
友香は声のトーンを一つ上げて小首を傾げました。
「できる? できない? どっち?」
「でき、ます」
三日後の友香の休日、結局東は友香以外の誰にもお礼を言うことなくKホテルを去りました。
その後、誰一人として東の名前を口にした社員はいませんでした。
友香は先輩になること、教育の難しさを痛感するだけでした。
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