第9話東くん 9 先輩の激励

 八月下旬、お盆の繁忙期を終えてもなお、東はいまだに自然な笑顔を見せませんでした。

 だからと言って、友香は東一人に構う余裕がありません。

 本業のフロント、公式ホームページブログの更新、企画補助、法事の司会進行役、売店ヘルプ、宴会場ヘルプ、さらにはホテル主催の観光バスツアーのガイド。

 目まぐるしく友香の持ち場が変わります。

 「潮風に包まれ、自然に囲まれ、歴史の眠るこの町、私も大好きなH市! 皆さまにも大好きになっていただきたいと思います! 本日はまことにありがとうございました!」

 ツアー参加者の喝采を浴びた後は、即座にフロントに戻ります。

 人懐こい表情から一変、厳しさと上品さを併せ持つ顔になります。

 余談ですが、ロビー横のトイレに行く時間すらなかったそうで、一日最大十四時間も我慢したと言います。

 二十二時、友香のホテルマンとしての一日が終わります。

 社員寮に着くと、すでにヘトヘトでした。

 翌朝、化粧の方法を忘れてしまうなど、当たり前のことでした。

 徐々に思い出すのに、十五分もかかったそうです。

 下地にファンデーション、アイブロウ、アイシャドウ、チーク、マスカラ、口紅。

 清潔感があり、なおかつ着飾ったお客さまよりも目立たないように。

 拭き取りタイプのクレンジングで何度も化粧を落としては塗り直す。

 それが友香の一日の始まりです。


 話は変わりますが、ある日の帰宅時、森本からこのような言葉をもらったそうです。

 「加東、あんたにはできることがたくさんあると! ブログの文章力も、アイデアもみんなの中で一番際立っている。英語だって話せる。法事の司会進行役だってできる。売店や宴会場でお土産やお酒も売り上げる。バスガイドだってできる。加東は誰よりもたくさんの武器がある。だから、くだらない奴らに惑わされる必要はなか! 自信を持ちなさい! 泣く必要はなかと!」

 「……はい」

 友香はこの二文字以外に何も言えなかったそうです。

 心の中では常に思っていることも、口に出せませんでした。

 自分はホテルに向いてないのではないか、と。

 また別の日、今度は太田が言いました。

 「加東、お前は必ず成長できる。俺が保証する! だから負けるな! バックには俺たちがいるんだから!」

 いつも通り土田が友香に喚いた直後のことでした。

 けれど友香にとっては徐々に重くなる言葉でありました。

 見えないプレッシャーが友香を襲います。

 そうとは知らずに、太田は微笑んだそうです。

 「俺はお前の味方だ!」

 このとき友香は嬉しいのか嬉しくないのか分からなかったそうです。

 ただ、人を信用できなくなっているのは確かです。

 だからでしょうか。

 友香は密かに決意しました。

 東を一人前の人間にしみせる! と。

 孤立した人間の気持ちは、孤独な人間にしか分かりません。

 友香は東の心情に寄り添ってみることにしました。

 「ああ……私って、なんてバカなの……」

 友香は気付きました。

 自分だけが思いの丈をぶつけていたことを。

 東が孤立したのは、友香に原因がある。そう思ったようです。

 「これから、どうしよう……?」

 友香に、新しい課題が発生しました。

 うつ病発症まで、残り三ヶ月。

 心の崩壊は、徐々に進行していました。

 森本と太田、二人の激励など、友香の耳に届いても心には届きませんでした。

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