第2話東くん 2 ホテルとお客さま
翌日、東は二人の意見に耳を傾けることになりました。
一人は友香の先輩である、フロント唯一の男性社員、太田。
彼はフロントとしてのプライドが非常に高く、プロ意識の低い他の男性社員から煙たがられています。
「いいか、東くん。我々はプロだ。そこら辺のオッサンと馴染む暇があれば、加東からプロ意識を吸収しろ」
太田はパチンコの話で盛り上がる男性社員を横目に言いました。
英語で言うweには、太田の視界に映る人間は含まれていません。
つまり東は、太田の言う「我々」の部類にはまだ入っていないということです。
もしかしたら永遠に含まれることはないのかもしれない。または数日後には仲間入りするかもしれない。
それは、東次第です。
「はい」
それを理解するよりも先に、東は畏怖の心で返事をしました。
そしてもう一人の意見は、東の教育係に任命されている加東友香のものでした。
「いい? 東くん。お客さまは日常を忘れるために高いお金を払っているの。私たちもそれ相応のことを、プロとしてしなければいけないの」
友香は自分と東の間に、指で円を描きました。
友香の中では、東も仲間の一人になっているようです。
それが本心なのか、東を動かすために建前で言っているのかは友香にしか分かりませんが。
世間をまだ知らない大学四年生には難し過ぎることでした。
東に分かることはただ一つ、友香は太田に厳しく教育されたということ。
それは正解です。
太田は誰よりも早く友香の可能性に気付き、同じ部署になる前から、自分が培ったノウハウを伝授しました。
素直でありながら負けず嫌いな友香は、職場の環境もあってか、急成長し続けています。
ただ完了形になっていないのは、友香はようやくホテルマンとして一人前になったばかりで、フロントとしてまだ半人前だからです。
誰かの教育に携わることで友香を一人前のフロントに仕上げるという目的で東が友香と関わるようなったことも、東の知るところではありません。
「であれば、非日常をご提供するために何が必要? 昨日教えたよね。東くん、何だったかしら?」
「……笑顔です」
東の目元は
僅かな変化ではあるけれど、友香と東にとっては社会人として、人として大きな一歩です。
頑なな東にとっては、たった一日で相手に心を開くことは至難の業だから。
それを可能にしたのは何なのか、このときは社員の誰もが知る由もありません。
「そうだよね。でも今の東くんはどうかしら? 笑顔、できている?」
「いいえ」
東は自分でも表情が固いことに気付いています。それはもとより、自分の性格は誰よりも知っているからです。
内気であり慎重派であり、人見知りでもある。
また、かなりの理論派でもある。
「笑顔で接して嫌がるお客さまはいらっしゃる? ごく稀にあるけれど、昨日見た感じではいらっしゃらなかったよね? オーシャンビューという非日常、
「はい」
友香の説明は東にしっくりきたようです。
無垢な目がシャンデリアの明かりを集め輝いています。
初日、東はこう思っていたそうです。自分はまだ、社会人ではないと。
けれど、今は違う。少なくとも友香の前では。
「あなたもその一人なのよ」
だから笑顔でね、と友香は呟き、駐車場に向かいました。
東の本番はすぐそこまで来ています。チェックインの時間です。
「いい? 東くん。お客さまは日常を忘れるために高いお金を払っているの。私たちもそれ相応のことを、プロとしてしなければいけないの」
この日同じ言葉を聞くことになることを、東は予測していませんでした。
自分が思った以上に、笑顔の練習が足りないと友香から指摘されたのです。
従業員用エレベーターに中でも言葉を連ねる友香。対象が違えば、声のトーンまでランクのように上下します。
「お金を払ってくださるお客さまは金銭的に余裕があるかもしれない。でもね、中には一生懸命働いて必死に貯めたお金でお越しになる方もいらっしゃるの。そんな方が無愛想で接されて、どう思うかしら?」
「そ、れは……その……」
東は答えようもできませんでした。二十二年の人生の中で、そのようなことを考えもしなかったのですから。
ましてや東は公務員志望、ホテルでの勤務は研修のうちでしかありませんでした。
「どうして私がこのようなことを言っていると思う? 東くんが公務員になりたいって知ったからよ。ホテルはお客さまが比較的限られるかもしれない。でも、市役所とかはどう? 全市民がお客さまでしょう? 中には貧乏だったり、生活保護を受けている人もいる。その人はもしかしたら東くんの無愛想な顔を見て思うかもしれない。ああ、自分はこの世に生きていても仕方がないって」
友香の目元には涙が溜まっています。手も上下に激しく振っています。
どうやら本心のようです。
「私自身、母子家庭で育っているの。で、実際に仏頂面の職員さんを見て思ったことなの。だから、東くんにはそんな職員さんになってほしくない! あなたが近い将来、ホテルに就職するか公務員になるかは私が決めることじゃない。ただのお節介になるかもしれない。けれど言わずにはいられないのよ」
友香はポケットからサッとハンカチを取り出し、目元に軽く当てました。
「だから、私たちの仕事があるのよ。東くん」
東にはその瞬間の表情は見えませんでした。それでも友香がどのような表情をしていたのかは理解できました。理屈ではない。ただの勘です。
「さあ! 次のお客さまがお待ちよ!」
太田のように誇示こそしないけれど、友香自身もまた仕事に対して高いプライドを持っています。
友香の声は高らかに張りました。
東はその背中を静かに追います。
上品に、優雅に、ホテルマンらしく。
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