ホテルマン

加藤ゆうき

第1話東くん 1 接客の基本、笑顔

 「あなたの名前は?」

 加東かとう友香ゆか、二十六歳、Kホテル入社二年目の独身。

 ……失礼いたしました。

 今回、友香は答える側ではなく、問う側です。彼女の前に立つ、仏頂面の青年に。

 「……あずま尚吾しょうごです」

 友香に問われ、青年は小声で東と名乗りました。彼の視線は泳いでいて、唇は微かに震えています。

 社会を知らない東は、明らかに人見知りしています。

 それでも友香は屈しませんでした。笑顔を忘れてはいけない、と上司の森本もりもと太田おおたに厳しく言われているからです。

 「そう、東くん! これから一ヶ月半、よろしくね!」

 友香は腕を伸ばし、東の両肩をぽんぽん、と二回軽く叩きました。

 彼に握手を求めたところで簡単に手を差し出さないだろう、と感じ取ったからです。

 彼が人と交わりたくないタイプであろうことは、勘の鈍い友香であっても、このときすでに手に取るように分かりました。

 それでも、言うべきことは言わないといけません。

 友香は胸を張って口を大きく開きました。

 「いい? あなたは大学の研修で来たけれど、お客さまにとっては一人のホテルマンなの。つまり、社会人」

 友香は自分の口角二ヶ所を人差し指で押し、白い歯を見せました。

 「ホテルマンの基本は笑顔! これ一つで何とかなるときもあるのよ」

 ほら、あなたも! と友香は東に顔を近付けました。

 キスをしそうなほどの距離ではありません。ただ女性の靴一足分前に出ただけです。

 それでも東には刺激が強かったのでしょう。東は両手を胴の前で垂らし狼狽えました。

 友香は後退しました。初めの会話が成立しなければ、この先の指導に支障が出ると思ったのです。

 「恥ずかしがっている場合じゃないよ。さあ、チェックインまでに、これから笑顔の練習よ!」

 友香は東に鏡面を見せました。

 異性である東の心情は、友香に届きませんでした。

 後に聞くと、女性を前にかなり緊張したようです。

 それもそのはず。友香は着物が似合う、典型的な日本人の顔立ち。酒気帯びた男性が声をかけずにはいられない容姿なのです。


 「うーん、どうしてかしらね。これだけたくさん練習しているのに、まだ表情がガチンガチンよ。東くん、最近楽しいことがあった?」

 「……とくには」

 友香を前にしても、東は表情だけでなく、心も頑なでありました。

 当然と言えばそれまでですが、ホテルマンである以上、常に初対面の人間と接しなければなりません。

 たとえ出会って三十分の友香が相手であっても、心を開くだけでもするべきです。

 その訓練を積み重ねた友香は、笑顔を崩さずに訊きました。

 「ねえ、東くんには楽しみにしていることや、趣味はある?」

 「あ、はい」

 「じゃあ、それを思い浮かべてみて。もちろん仕事に集中しなくてはならないけれど、楽しみがあると気分が上がるでしょ? 私はいつもそれを考えているよ。あ、趣味はまだ秘密だけれどね」

 「はあ……」

 東が無表情に見える原因を、友香はこのときすでに見抜いていました。

 けれど、あえて口にしません。

 ものごとは、自分で経験して初めて身に付くものだからです。

 つまりこの場合、東が自分で笑顔の完成品を創らなければ意味がないということ。

 そしてチェックインが始まる三十分前までに一時間、友香と東はひたすら笑顔の練習をしました。


 そう、笑っていれば何とかなる。

 嫌なことも忘れられる。


 友香は口にせず、心に刻むように唱えたと言います。


 そう、私はホテルマン。接客の第一線で戦うの。


 友香の心情は、東には知られることはありませんでした。


 「いい? これからチェックイン、お客さまがお見えになる時間。あなたにとっては、初めての本番ね。今日はお客さまのお荷物を持ちながら、私とお客さまの表情を見ていて」

 「はい」

 東が返事をすると同時に一台の車が駐車場に着きました。いよいよ本番です。

 一瞬だけ綻んだ東の表情が、再び強張りました。

 「ほら、笑顔! お荷物持ちも重要なお仕事よ」

 友香は背中をスッと伸ばし、振り向いた表情は指先の東を狙って悪戯いたずらを企んでいるようににやけました。

 東は一歩遅れて、自分の指導者である友香の背中を追いました。

 全身で描く女性らしい曲線に見とれていたなど言えるはずもなく、東はあえて返事をしませんでした。

 東が男性であることを、このときの友香はすっかり忘れていました。

 何しろ、東の本番は友香の本番でもあるのです。

 ホテルマンとして、腕の見せどころです。


 「……最終チェックアウトは翌朝十時でございます。お時間までごゆっくりお過ごしくださいませ」

 友香の上司であり先輩でもある森本がフロントカウンターにてチェックイン業務を締め括りました。ここからが友香と東の出番です。

 「くださいませ」の「せ」が発せられると、友香はすでにお客さまとの距離を腕一本分まで縮めていました。

 「それではわたくしがご案内いたします。失礼いたします」

 滑るように大きなキャリーケースに手を伸ばし、東に手渡します。

 そして東が軽々と持ち上げたところで、友香の腕の見せどころが始まります。

 この日友香がご案内したのは夫婦十組と女性シングル五組の合計十五組。

 そのうちの一組のご案内にて、このようなエピソードがあったと言います。

 「あら、このホテル、エレベーターがないの?」

 約二十段の階段を前に、女性が頬に手を添えて言いました。

 下がった目尻からして、困惑しているのは明白でした。

 それもそのはず、この女性と連れの男性の部屋は最上階の七階。

 そこまで階段を登らなければならないのかと考えているのです。

 東はキャリーケースを持ったまま体を左右に振り、友香に心情を訴えました。

 けれど列の先頭に立っている友香は東を気にかけるどころか微塵も動じませんでした。

 慌てるどころか、ますます口角が上がったそうです。

 「奥さま、失礼ですが、おみ足が痛みますか? 大丈夫ですよ、階段は二階まででございます。それに……」

 友香は自分の手を頭部と同じ高さに合わせました。当然ながら、親指は手のひらに収まっています。

 「あら!」

 「ほう……」

 女性の次に、連れの男性が感嘆の声を上げました。

 両者の目尻は一瞬にして上がりました。

 「いかがですか? 当館は全室オーシャンビューでございます。海をご覧になりながら上へ登られるのも悪くはないと思いますが」

 友香は目尻と口元は笑っています。けれど茶色の瞳は二人に狙いを定め、牙でとどめをさそうとしています。ハンターと言っても過言ではありません。

 「せっかくだし、登りましょうよ。お父さん」

 「そうだな、母さん」

 勝者は友香です。

 その後、夫妻は興奮した状態で最後まで階段を登りきりました。

 部屋に到着した直後の、景色に対する反応は言うまでもなくハイテンションだったそうです。

 「それではごゆっくりお過ごしくださいませ。失礼いたします」

 「どうもー」

 「ありがとね」

 男性が挨拶の手を上げると、友香は無言で会釈しました。

 多くを語らないのがフロント。

 友香の口元のチャックは、従業員用エレベーターの中に入るまで閉ざされました。

 「東くん」

 エレベーターの扉が閉まると、すぐさま友香が口元のチャックを開きました。

 「お客さま、どうだった? 最後、笑顔でいらっしゃったと思うかな?」

 「あっ、はい……そう思います」

 突然沈黙が破られ、東は戸惑いを隠せずにいました。

 「どうしてそう思うの? 一番後ろに立っていた東くんが」

 友香は東に視線を定め、その目は笑っていませんでした。

 「そ、れ、は……」

 怒られる。そう思ったのでしょう。東は必死に記憶を辿りました。お客さまの歩き姿、友香に投げかけた言葉、そして階段を見た途端に変化したもの。

 「……声です。あのとき加東さんの声一つで、その、お客さまの声色が変わりました。なんと言うか、明るくなりました」

 東にはお客さまの顔が見えませんでした。限られた情報の中で感じ取ったことを、たどたどしく語りました。

 すると友香は東の強張った肩にそっと触れました。

 「そう! よく気付いたじゃない! でも、あのとき狼狽えたのは感心しないわね。こんな言い方したら悪いけれど、お客さまの前で終始笑顔でご提案し、選択肢を与えることで、お客さまを意のままに操ることができるの。それが、私たちの仕事」

 エレベーターの扉が開くと、友香は先に隔たれた空間を飛び出ました。

 「そうそう、言い忘れていたわ。お客さまのため、っていうのは、あくまで建前だからね」

 東は友香の囁きに驚きを隠せずにいました。

 無愛想な顔を自分の世話をする友香のことを、すっかり善人だと思い込んでいた証拠です。

 友香が十五組中十五組全員にyesと言わせたことに驚愕したことは言うまでもありません。

 これがプロなのか。

 これまで手堅く公務員になることを目指していた東には衝撃的な一日でした。 

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