第5話

 グランバットマン。大幹はまっすぐ、左足で勢いよく蹴り上げる。

 「がはっ!」

 「さあ、お行きなさい。ここを侵すことは、この私が許しません」

 朝子は頬の擦れた男性を見下ろし、舞い続ける。

 「く、来るかぁ! こんなところ!」

 朝子はまたしても一人、厳つい男性から園児と部下の保育士を守り抜いた。

 満足することなく、朝子はつま先立ちで保育園の職員室に戻ろうとした。

 そのときだった。

 朝子は何者かの視線を感じ取り、男性が去った場所を振り返った。

 けれど男の気配も、自分と同じ空気もない。

 誰かを憎むような、暗い感情が。

 朝子はそれが手に取るように分かる。

 親友を失ったことで、武装、威嚇する男性を激しく憎悪しているからだ。

 自分と同じ感情、つまり朝子に向けられる憎しみは、これまで何度も経験してきた。

 けれど、朝子がこのとき感じ取ったのは、自分の知らない空気だった。

 敵意もない、歓喜でもない。

 何度も繰り返すこの空気は偶然ではないはずだ。

 朝子は園長としての責任感により、知ろうとして体の向きを完全に変えた。

 

 「おかしい……確かこのあたりのはずだけれど」

 朝子は保育園の出入り口より左側のフェンス、その付近に位置する曲がり角と電柱を見つめた。

 感情のある気配、つまり人がいた匂いはあるのに、朝子が近付いた途端人影が消えてしまった。

 「何もないのであれば良いのですが……」

 朝子は保育園に戻ろうと、つま先を立てずに歩き出した。

 その瞬間だった。

 「なんなの、あんたたち!」

 興奮した声が朝子の耳に届いた。

 この区域では警察が暴力団の駆除に手こずっている。

 午後二時という昼中、もしかしたらあさがお保育園への入園希望者と保護者が向かう途中だったのかもしれない。

 それにしては子どもの泣き声がまったく聞こえない。

 子どもがいないと推測される以上、朝子が関わる必要がないのだが、いまだ親友を失った悲しみに拘束されているため、放っておけなかった。

 朝子の背筋は一秒で張ったように伸び、つま先までも立った。


 ぶらっくえんちょ、ここに現る!


 ピルエット・アン・ドゥオール。

 体を回転させるとき、視点は常に一つに定まっている。

 朝子は派手な柄のシャツを着た男性に向かって、前進した。

 「何をしているのです!」

 それまで高齢の女性に向かって怒鳴り散らしていた男性は、朝子の姿を見るなり、青ざめた。

 「ひっ……! お前、まさか。あの保育園の化け物!」

 「何をしているのかと聞いているのです」

 朝子が見下すと、男は委縮し転びながら女性から離れた。

 あの様子では、ただのチンピラ。ただの下っ端か。

 そう判断した朝子は、男性を追うことはしなかった。

 見下す視線から一転、おそらく朝子と同じ身長の女性に合わせた。

 「お怪我は? 他に何をされました? 必要ならば、警察をお呼びしますが。もっとも、私にとって警察は当てにできない存在ですが」

 淡々と、国語の教科書を退屈そうに読むように、朝子は尋ねた。

 すると、女性は首を左右に振った。被害は恐喝のみだったようだ。

 「そうですか、では私はこれにて」

 朝子は興味なさそうに頷き、女性に背を向けた。

 そのとき、女性は朝子を引き留めた。

 「待って! 朝子さん」

 朝子は驚いた。見るからに暴力団関係者ではない女性が、朝子の名前を知っているということに。

 「なぜ、私の名を? あなたは誰です?」

 朝子は怪訝して、首だけを後方に向けた。

 声も姿も、朝子の知らないものだったからだ。

 かつて通っていたカポエラー教室の生徒でもなければ、短期大学の講師でもない。

 あさがお保育園の関係者でもない。

 この女性の素性は一体どうなっているのだろうか。

 そもそも、この危険な区域を、なぜ一人で出歩いているのだろうか。

 朝子は不思議でならなかった。

 それでも疑問を口にすることはなかった。

 子どもを連れていない以上、朝子の関わるところではないと勝手に判断したからだ。

 「そうよね、今さら虫の良いことよね……朝子さん」

 「どういうことかは存じませんが、私の名前を知っているならば、職業もご存じであるはず。私には待っている園児がいますので」

 「待って!」

 すでに踵を下ろした足で進もうとすると、女性は朝子の左手を掴んだ。

 「私、どうしても気になって! あなたのこと、あれほど傷付けておきながら……」

 「ですから、どうして私のことを」

 朝子は珍しくも声を荒げた。

 見知らぬ女性に、自分が傷心していると決め付けられたのが勘に障ったのだ。

 「私、あの子を失ってからどうかしてたわ。私の娘……真理を」

 朝子は声を飲んだ。

 「まさか……あなたは!」

 十年前の記憶が脳裏に甦った。ひたすら自分を責める、ヒステリックになった中年の女性。

 「そんな、だってあなたはどう見ても……」

 朝子は唇を右手で覆った。

 「ええ、分からなくても無理はないわ。私は夫とも離別し、精神的に追い込まれ、このように老け込んでしまったのだから。以前は白髪の一本もなかったのに」

 「真理の……お母さん」

 朝子が知らないと決め付けていた女性は、十年前に失った親友の母親だった。

 朝子の名前を知っているのは当然のことだった。

 「どうして、ここに……このような危険な場所に?」

 「それよりも、私に謝らせて。そして、許されるのであれば、あなたが守っている保育園を見せてください……本当に、ごめんなさい。私、自分の気持ちで精一杯だったわ」

 女性は深々と、腰の曲がった老人そのものを表すように頭を下げた。

 朝子は右手に両目から涙が滴るのを感じた。

 危険な区域で弱みを知られるわけにはいかない。それよりもこの女性を放っておけない。

 そう思った朝子は女性の謝罪を受け入れることなくあさがお保育園に案内した。

 保育園に戻った朝子はつま先立ちに戻り、遠巻きに見る園児が安全であることを、涙の止まった目でサッと確認した。

 室内には、園児の他に善良な心を持った保育士がいるのだから、と朝子は室内の様子を入念に見渡すことはなかった。

 朝子は真理の母親を応接室に案内し、ソファに座るよう促した。

 彼女は重く脆い腰を壊さないように、そっと身を沈めた。

 朝子がお茶を淹れ差し出したけれど、口をつける気にはならなかったようだ。いまだに鼻を啜る音がする。

 「単刀直入にお聞きします」

 十秒ほどの沈黙を破ったのは、朝子だった。

 「これまで保育園の中を除いていたのは、あなたですね?」

 真理の母親は静かに頷いた。

 「なぜです? この区域は女性一人で出歩くには危険なのですよ」

 朝子は心配する素振りを見せなかった。淡々と、他の人間に対する同じ態度だった。

 「……あなたもずいぶんと変わってしまったわね。いいえ、私が変えてしまったのだわ」

 「私の質問には答えてくださらないのですか?」

 朝子の眉間に皺が現れた。他人に感情を露わにするのは、十年ぶりだ。

 「答えるわ。そうね、何から話したら良いかしら……。まず、十年間、失った娘が毎晩夢に出てくるの。それも、決まった台詞を言うの。親友を責めないでって。私は確かにあなたを憎んだ。だから、夢の中でも娘の訴えを拒絶した。でもね、それすら次第に疲れるようになったの。年なのか、それとも、私の精神力が弱いのかしら。夫だった人が言ったとおり」

 朝子の眉間から皺が消えなかった。明らかに苛立っていた。

 目の前の女性の回りくどい台詞にだけではない。

 どうしても園長という立場を優先して、頭を下げることができない自分に。

 十年前、朝子は親友との約束を破棄してまで、悲しみと憎しみで身を崩した。

 当時の朝子にとっては、何物にも勝る感情だった。

 それが今、こうして抑えることができる。

 どこまでも罪なスワンだ、と朝子は心の中で自分を罵った。

 保育士になった今、園児と戯れることも可愛がることもできない。厳つい男性を追い払うことだけが、朝子にできることだった。

 親友の残りの人生を生きると誓っていながら、本人のように愛嬌を振りまくこともできない。

 真理の代理を務めることすらままならない。

 そして今日まで、朝子は善良な人間を危険な区域に誘った。

 朝子の本意でないとしても。

 「私には、あなたがわざわざ足を運ぶほどの価値がないと思います」

 朝子の感情が言葉に現れたのは、久々のことだった。

 賢明に言葉を繋げる女性の唸り声を遮った。

 「いつだったかしら……つい最近、近所のスーパーで耳にしたの。バレリーナのように踊って悪者を退治する保育士がいるって。そのとき、私はバレリーナという言葉に過敏に反応してしまったの。そして、あなたのことが真っ先に浮かんだわ。何の根拠もないのに。それで思い切ってこの保育園に行ってみたら……確かにいたわ。あなたが」

 お茶を差し出して三十分経っても、いまだに一滴も減っていない。

 「久しぶりに見たあなたは、上品な振る舞いのままだった。でも、悲しい目をしていたわ。悪者を追い払うときは、憎しみが顔に出ていたわ。あなたもずっと苦しんでいたのね……いや、私がそうさせたのだわ。本当にごめんなさい。ずっと言えなかったけれど、ごめんなさい」

 真理の母親は項垂れ、背を丸めた。湯呑みの中に涙が何滴も入った。

 「許してほしいなど、思わない。ただ、元の明るさを取り戻してほしいの。夢の中で娘が望んだように。だから、もう良いの。あの悲劇を引きずることも、娘の人生を背負うことも、もう必要ないのよ」

 真理の母親は朝子の手を包もうとしたが、朝子は払いのけた。

 「おやめください」

 朝子は立ち上がり、見下した。

 「今の私は一介の保育士です。あなたの娘でも、ましてや代わりでもありません。それでも私に負い目を感じるというのであれば、その老け込んだ姿をどうにかしてください。あなたと私はもう二度と関わることもありません。タクシーを手配しますので、どうかお引き取りください。そしてこの保育園の中を除くようなまねを止めてください」

 朝子は吐き捨てると背中を見せ、応接室を去った。

 壁で隔たれた女性はいまだにすすり泣きをしている。

 一人になった朝子が座り込んだことを知らずに。

 誰にも見られなくても、朝子は零れそうな涙を堪えた。

 現役バレリーナ時代、厳しいレッスンで叱咤され、歯を食いしばることは何度もあったので難しいことではなかった。

 悲しみを嘘で隠すことも、慣れていた。

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